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第1部 第1章「白昼悪夢」
第4話『歩ける病気』後編
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健一は自力で車を運転し、最寄り駅にたどり着いた。
道中はゆっくり走っていたせいで、後ろの車からクラクションを鳴らされたり、追い抜かれ様に窓を開け罵倒されたりしたが、なんとか自制し、事故を起こさずに済んだ。
「ここまで来れば、あとは電車に乗るだけだ」
健一は安心して電車に乗った。
昼間にも関わらず、車内はそこそこ混んでいる。席も、優先席しか空いていない。
健一は「俺は怪我人なのだから座っていいだろう」と考え、優先席に座った。
その瞬間、周囲の乗客達から冷たく睨まれた。電車が動き出しても、ヒソヒソと小声で健一を責めている。
「あのおっさん、サイテー」
「歩けるくせに、席に座ったよ」
「なに? あのふてぶてしい態度」
「ああいうのがいるから、本当に座りたい人が座れないのよ」
健一は陰口を叩かれても、最後まで座り続けた。腹が痛くて、他人にかまっている余裕がなかった。
真っ白だったシャツは、ガーゼの下から滲んでいだ血で赤く染まっていた。
会社に着いても、腹の血は止まらなかった。むしろ、悪化する一方だ。
健一は血が床へ垂れないよう、会社に備えつけられているボックスティッシュを何枚も重ね、出血を抑えた。腹の痛みに耐えながら書類を修正し、上司へ提出する。
「修正した書類です」
「ん。ついでにこれもやっといてー」
上司は健一から書類を受け取ると、新たに別の仕事を渡してきた。健一の怪我を実際に見たにも関わらず、全く同じていない。
そして自分は定時になると、「じゃ、お疲れー」と早々に帰っていった。
「……」
結局、健一は渡された仕事もやる羽目になり、家に帰る頃には夜になっていた。
帰りの電車は昼間以上に混んでいた。空いている席は一つもない。優先席も埋まっている。
健一は痛む腹を押さえ、座席と座席の間の通路に立ち続けた。電車のわずかな揺れすらも、腹の傷に響く。
周りの乗客は誰も健一を心配したり、席を譲ってくれたりはしない。健一の腹を見て、一瞬ギョッとするものの、「立てるなら大丈夫か」と勝手に安心した。「関わりたくない」というよりも、「関わる必要がない」といった雰囲気だった。
「怪我人に席を譲らんとは。世の中、薄情になったものだな」
何も知らない健一は、一方的に彼らを軽蔑した。
健一は最寄りの駅で降り、車に乗った。
昼間はパートでいなかった妻に「迎えに来て欲しい」と電話で頼んだが、「夕飯を作っていて、手が離せない」と断られた。
「まさか、うちにも薄情なのがいたとはな」
健一は諦めて、自力で運転することにした。
夜道は暗い。街灯も少なく、どこまでが道で、どこからが家なのかも分かりにくい。
だから……事故を起こした。健一は道が続いていると思って走っていたが、気づけば知らない家の壁に突っ込んでいた。「バンッ」とも、「ガンッ」とも聞こえる轟音が響く。衝撃で、車の前の部分が凹んだ。
「くそッ! 税金を払ってやってるんだから、もっと街灯を増やせよ!」
幸い、衝突した家の壁は頑丈で大した傷にはならなかった。
対して、健一の車の損害は大きく、レッカー車を呼ぶ羽目になった。警察からは事情を聞かれ、腹の傷のことも話したが、
「お腹が痛くても、動かすのは手足なんだから関係ないでしょ? 私も腹が痛いのを我慢して運転したこと、何回もありますよ。注意して運転していれば、事故なんて起こしませんって」
と、ただの腹痛と同じだと判断され、事故の原因は健一の前方不注意だと認定されてしまった。
健一は事故を起こしたことを妻に電話で話し、今度こそ車で迎えに来てもらった。
妻は健一が車をダメにしたことに怒っていたが、彼の血だらけのシャツを見てさらに怒りを募らせた。
「もう、そんなに汚して! 洗濯するのは、私なんですからね?!」
「なんだと?! 誰のお陰で生活できていると思ってるんだ! もっと俺を労われ!」
妻の心ないひと言で、健一も怒りを爆発させた。
思わず、妻につかみかかる。妻は悲鳴を上げ、現場に残っていた警官達が健一を取り押さえた。
「離せ! 俺は被害者だ! 誰かが、俺の腹を切り裂いたんだ! そいつを早く捕まえろ!」
健一が怒りでわめくたびに、腹の傷から尋常でない量の血が「ドボドボ」と音を立て、滝のように地面へと流れ出ていく。いつしか健一の足元には血溜まりができていた。
みるみるうちに健一の顔から血の気が引いていき、やがて健一は貧血で倒れた。
「貴方?!」
「日野さん?! どうしましたか? 大丈夫ですか?!」
歩けなくなったことで、ようやく救急車が呼ばれた。
すぐさま最寄りの病院へ運ばれたが、健一は既に体のほとんどの血を失っていた。そして二度と、目を覚ますことなかった。
健一の遺体が見つかったのは、午後二時半のことだった。ソファに座ったまま、絶命していたのだ。
腹部の血管や臓器が破裂したことによる失血死で、外傷はなく自然に破裂したものだと考えられた。一週間前に会社で受けた健康診断では異常はなく、原因は不明のまま、「病死」と認定された。
健一の葬儀が終わった後、健一の妻は息子を連れて、病院の入院病棟を訪れた。
「イツキ、今日はお兄ちゃんと一緒に来たわよ」
二人が入った病室のベッドには、健一が自慢していたもう一人の息子が眠っていた。口や首にチューブがつけられ、生かされている。
「お父さん、さっき天国へ旅立っていったわ。まるで棺桶の中で眠ってるみたいに、綺麗な死に顔だったのよ」
健一の妻は静かに涙を流す。
白いレースのハンカチを両手で握り、ベッドで眠っている方の息子に必死で語りかけた。
「ねぇ、イツキ。貴方は早く目を覚まして頂戴ね。このまま天国に行っちゃ嫌よ」
涙ぐむ母の隣で、息子は弟を冷たく見下ろしていた。母が弟に夢中なのをいいことに、薄ら笑いすら浮かべている。
やがて面会を終えると笑みを引っ込め、母親と共に病室を後にした。父親を失った悲しみを押し殺そうとする息子を、演じながら……。
(白昼悪夢 第五話へ続く)
道中はゆっくり走っていたせいで、後ろの車からクラクションを鳴らされたり、追い抜かれ様に窓を開け罵倒されたりしたが、なんとか自制し、事故を起こさずに済んだ。
「ここまで来れば、あとは電車に乗るだけだ」
健一は安心して電車に乗った。
昼間にも関わらず、車内はそこそこ混んでいる。席も、優先席しか空いていない。
健一は「俺は怪我人なのだから座っていいだろう」と考え、優先席に座った。
その瞬間、周囲の乗客達から冷たく睨まれた。電車が動き出しても、ヒソヒソと小声で健一を責めている。
「あのおっさん、サイテー」
「歩けるくせに、席に座ったよ」
「なに? あのふてぶてしい態度」
「ああいうのがいるから、本当に座りたい人が座れないのよ」
健一は陰口を叩かれても、最後まで座り続けた。腹が痛くて、他人にかまっている余裕がなかった。
真っ白だったシャツは、ガーゼの下から滲んでいだ血で赤く染まっていた。
会社に着いても、腹の血は止まらなかった。むしろ、悪化する一方だ。
健一は血が床へ垂れないよう、会社に備えつけられているボックスティッシュを何枚も重ね、出血を抑えた。腹の痛みに耐えながら書類を修正し、上司へ提出する。
「修正した書類です」
「ん。ついでにこれもやっといてー」
上司は健一から書類を受け取ると、新たに別の仕事を渡してきた。健一の怪我を実際に見たにも関わらず、全く同じていない。
そして自分は定時になると、「じゃ、お疲れー」と早々に帰っていった。
「……」
結局、健一は渡された仕事もやる羽目になり、家に帰る頃には夜になっていた。
帰りの電車は昼間以上に混んでいた。空いている席は一つもない。優先席も埋まっている。
健一は痛む腹を押さえ、座席と座席の間の通路に立ち続けた。電車のわずかな揺れすらも、腹の傷に響く。
周りの乗客は誰も健一を心配したり、席を譲ってくれたりはしない。健一の腹を見て、一瞬ギョッとするものの、「立てるなら大丈夫か」と勝手に安心した。「関わりたくない」というよりも、「関わる必要がない」といった雰囲気だった。
「怪我人に席を譲らんとは。世の中、薄情になったものだな」
何も知らない健一は、一方的に彼らを軽蔑した。
健一は最寄りの駅で降り、車に乗った。
昼間はパートでいなかった妻に「迎えに来て欲しい」と電話で頼んだが、「夕飯を作っていて、手が離せない」と断られた。
「まさか、うちにも薄情なのがいたとはな」
健一は諦めて、自力で運転することにした。
夜道は暗い。街灯も少なく、どこまでが道で、どこからが家なのかも分かりにくい。
だから……事故を起こした。健一は道が続いていると思って走っていたが、気づけば知らない家の壁に突っ込んでいた。「バンッ」とも、「ガンッ」とも聞こえる轟音が響く。衝撃で、車の前の部分が凹んだ。
「くそッ! 税金を払ってやってるんだから、もっと街灯を増やせよ!」
幸い、衝突した家の壁は頑丈で大した傷にはならなかった。
対して、健一の車の損害は大きく、レッカー車を呼ぶ羽目になった。警察からは事情を聞かれ、腹の傷のことも話したが、
「お腹が痛くても、動かすのは手足なんだから関係ないでしょ? 私も腹が痛いのを我慢して運転したこと、何回もありますよ。注意して運転していれば、事故なんて起こしませんって」
と、ただの腹痛と同じだと判断され、事故の原因は健一の前方不注意だと認定されてしまった。
健一は事故を起こしたことを妻に電話で話し、今度こそ車で迎えに来てもらった。
妻は健一が車をダメにしたことに怒っていたが、彼の血だらけのシャツを見てさらに怒りを募らせた。
「もう、そんなに汚して! 洗濯するのは、私なんですからね?!」
「なんだと?! 誰のお陰で生活できていると思ってるんだ! もっと俺を労われ!」
妻の心ないひと言で、健一も怒りを爆発させた。
思わず、妻につかみかかる。妻は悲鳴を上げ、現場に残っていた警官達が健一を取り押さえた。
「離せ! 俺は被害者だ! 誰かが、俺の腹を切り裂いたんだ! そいつを早く捕まえろ!」
健一が怒りでわめくたびに、腹の傷から尋常でない量の血が「ドボドボ」と音を立て、滝のように地面へと流れ出ていく。いつしか健一の足元には血溜まりができていた。
みるみるうちに健一の顔から血の気が引いていき、やがて健一は貧血で倒れた。
「貴方?!」
「日野さん?! どうしましたか? 大丈夫ですか?!」
歩けなくなったことで、ようやく救急車が呼ばれた。
すぐさま最寄りの病院へ運ばれたが、健一は既に体のほとんどの血を失っていた。そして二度と、目を覚ますことなかった。
健一の遺体が見つかったのは、午後二時半のことだった。ソファに座ったまま、絶命していたのだ。
腹部の血管や臓器が破裂したことによる失血死で、外傷はなく自然に破裂したものだと考えられた。一週間前に会社で受けた健康診断では異常はなく、原因は不明のまま、「病死」と認定された。
健一の葬儀が終わった後、健一の妻は息子を連れて、病院の入院病棟を訪れた。
「イツキ、今日はお兄ちゃんと一緒に来たわよ」
二人が入った病室のベッドには、健一が自慢していたもう一人の息子が眠っていた。口や首にチューブがつけられ、生かされている。
「お父さん、さっき天国へ旅立っていったわ。まるで棺桶の中で眠ってるみたいに、綺麗な死に顔だったのよ」
健一の妻は静かに涙を流す。
白いレースのハンカチを両手で握り、ベッドで眠っている方の息子に必死で語りかけた。
「ねぇ、イツキ。貴方は早く目を覚まして頂戴ね。このまま天国に行っちゃ嫌よ」
涙ぐむ母の隣で、息子は弟を冷たく見下ろしていた。母が弟に夢中なのをいいことに、薄ら笑いすら浮かべている。
やがて面会を終えると笑みを引っ込め、母親と共に病室を後にした。父親を失った悲しみを押し殺そうとする息子を、演じながら……。
(白昼悪夢 第五話へ続く)
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