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第2部 第1章「ミッドナイトアパート」
第3話『貼り紙ジジイ』後編
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「死ね」
「ヒッ?!」
最後の紙をドアに貼ろうとしたその時、ドアの向こうから声が聞こえた。
治男は反射的に跳び上がり、悲鳴を上げる。
「だ、誰だ? そこに誰かいるのか?」
ドアの向こうへ声をかけたが、返事はない。ドアに耳を当て、中の様子を窺ったが、何の音もしなかった。
「……空耳か?」
ふと、治男は自分が貼ろうとしていた紙に目をやった。
そこには治男が書いた覚えのない、「死ね」という二文字が書かれてあった。
「な、なんだこれは! 儂はこんな下品な言葉は書かんぞ!」
怒りに任せ、「死ね」と書かれている貼り紙を丸めて、地面に捨てる。
しかし貼り紙の変化は、それだけでは終わらなかった。403号室のドアに貼った紙の字がミミズのようにうねり、別の文字へと姿を変えたのだ。
「俺の命令を聞け」
「俺がここの王だ」
「他の連中の言うことは聞くな」
「俺の下僕になれ」
「俺を部屋に入れろ」
「お前の金を寄越せ」
「お前の家の食い物を寄越せ」
「お前の娘を寄越せ」
親切のつもりで書いた忠告が、おぞましい本音へと変わっていく。やがて貼り紙達は、その文句を治男の声で読み上げ出した。
「俺の命令を聞け」「俺がここの王だ」「他の連中の言うことは聞くな」「俺の下僕になれ」「俺を部屋に入れろ」「お前の金を寄越せ」「お前の家の食い物を寄越せ」「お前の娘を寄越せ」「俺の命令を聞け」「俺がここの王だ」「他の連中の言うことは聞くな」「俺の下僕になれ」「俺を部屋に入れろ」「お前の金を寄越せ」「お前の家の食い物を寄越せ」「お前の娘を寄越せ」
「や……やめろォォッ!」
治男は自分の心の内を突きつけられ、動揺を露わにした。認めたくない気持ちが強く、両手で耳を塞いで逃げ出した。
廊下を駆け抜け、一階にある自分の部屋を目指して階段を下りる。その間にも、貼り紙をした他の部屋から自分の本音が聞こえてきた。
「大した苦労もしてないくせに、幸せになるな」「不幸になれ」「呪ってやる」「俺を崇めろ」「俺に感謝しろ」「子供を殺してやる」「大家のくせに生意気だ」「俺は天才だ」「ここの家財道具は全部俺の物だ」「金も俺の物だ」「年増女は出て行け」「男も出て行け」「離婚しろ」「俺の部屋に来い」
「黙れ! 儂はそんな直接的には書いてはおらん! 嫁と一緒にするな! あんなズケズケと物を言う、下品な女とは!」
治男は階段を駆け下りると、自室へ逃げ込み、きっちり鍵を閉めた。
治男の部屋はゴミで埋め尽くされていた。一年前に妻と離婚し、独り身となってからは一度も掃除をしていない。
今まで妻がやっていた食事や洗濯などの家事も全て治男がすることになったが、やり方が分からず、その日暮らしで凌いでいた。おかげで部屋には食べ物のゴミや脱いだ服、盗んできた家電などが散乱し、足の踏み場もなかった。
「ひぃ、ひぃ……」
治男は部屋の電気も点けずに、ゴミを踏み潰しながら寝室に逃げ込む。足の下で何度も嫌な感触がしたが、今はそんなことはどうでも良かった。
貼り紙の声から逃れ、自室へ逃げ込んだものの、まだかすかに声が聞こえてくるのだ。
「い、嫌だ……儂は真っ当な人間なんだ! あんなおぞましいことを、書くはずがないんだ!」
治男はさらに声から逃れるため、寝室に逃げ込み、内側から鍵をかけた。
頭から布団を被り、両手で耳を塞ぐ。それでも声は聞こえた。
「この部屋、全然防音対策が出来とらんじゃないか! 一体、何処から聞こえとるんだ、これは!」
静まり返った部屋の中、治男は自身の頭の中で響いている声に狂気した。
一週間後、二階に住んでいる子連れの母親達は公園から自宅へ帰って来た。
家を出た時と同じ、変わらぬ姿のドアを見て、安堵する。
「良かったー。今日も貼り紙されてないわね」
「貼り紙されなくなって、これで一週間……なんて穏やかな一日なのかしら!」
母親達は清々しい気分で部屋の鍵を開け、子供達を中へ入れた。
「それにしても、本当に貼り紙見なくなったわよねぇ。田中さんのとこも無事だったんでしょ?」
「みたいね。もしかしたら、部屋で死んでたりして」
「まっさかー! アイツの部屋のドア、いつも貼り紙が貼り替えられてるのよ? 死んでたら、張り替えようがないじゃない!」
「あら、そうなの? なーんだ、つまんないの」
母親達が上で治男のことを話している時、一階では歩夢が治男の部屋のドアに貼り紙をしていた。
いつも治男が貼っているものと同じ、「立ち入り禁止」「猛犬注意」「セールスお断り」といった文句が書かれたものだ。利き手でない方で書いたのか、いつも以上に字が歪な形をしている。
そこへ歩夢の行動に気づいた大家が「ちょっと、君!」と声をかけた。
「何をしてるんだい? そこは治男さんの家だよ」
すると歩夢は作業の手を止め、困った様子で振り返った。
「その治男さんに頼まれたんです。風邪を拗らせて布団から起きられないから、代わりに貼ってくれって」
いかにも気の弱そうな青年の雰囲気に、大家も「そうだったのかい」とあっさり信じ、同情した。
「ほどほどでいいからね。あの人、元々変わった人だったけど、奥さんが出て行ってから、さらにおかしくなったんだよね。まともに付き合わなくていいよ」
「はい」
そう言いながらも、歩夢は持っていた全ての紙をドアに貼った。
ドアの向こうで孤独に死に絶えようとしている治男を、覆い隠すように……。
(第4話へ続く)
「ヒッ?!」
最後の紙をドアに貼ろうとしたその時、ドアの向こうから声が聞こえた。
治男は反射的に跳び上がり、悲鳴を上げる。
「だ、誰だ? そこに誰かいるのか?」
ドアの向こうへ声をかけたが、返事はない。ドアに耳を当て、中の様子を窺ったが、何の音もしなかった。
「……空耳か?」
ふと、治男は自分が貼ろうとしていた紙に目をやった。
そこには治男が書いた覚えのない、「死ね」という二文字が書かれてあった。
「な、なんだこれは! 儂はこんな下品な言葉は書かんぞ!」
怒りに任せ、「死ね」と書かれている貼り紙を丸めて、地面に捨てる。
しかし貼り紙の変化は、それだけでは終わらなかった。403号室のドアに貼った紙の字がミミズのようにうねり、別の文字へと姿を変えたのだ。
「俺の命令を聞け」
「俺がここの王だ」
「他の連中の言うことは聞くな」
「俺の下僕になれ」
「俺を部屋に入れろ」
「お前の金を寄越せ」
「お前の家の食い物を寄越せ」
「お前の娘を寄越せ」
親切のつもりで書いた忠告が、おぞましい本音へと変わっていく。やがて貼り紙達は、その文句を治男の声で読み上げ出した。
「俺の命令を聞け」「俺がここの王だ」「他の連中の言うことは聞くな」「俺の下僕になれ」「俺を部屋に入れろ」「お前の金を寄越せ」「お前の家の食い物を寄越せ」「お前の娘を寄越せ」「俺の命令を聞け」「俺がここの王だ」「他の連中の言うことは聞くな」「俺の下僕になれ」「俺を部屋に入れろ」「お前の金を寄越せ」「お前の家の食い物を寄越せ」「お前の娘を寄越せ」
「や……やめろォォッ!」
治男は自分の心の内を突きつけられ、動揺を露わにした。認めたくない気持ちが強く、両手で耳を塞いで逃げ出した。
廊下を駆け抜け、一階にある自分の部屋を目指して階段を下りる。その間にも、貼り紙をした他の部屋から自分の本音が聞こえてきた。
「大した苦労もしてないくせに、幸せになるな」「不幸になれ」「呪ってやる」「俺を崇めろ」「俺に感謝しろ」「子供を殺してやる」「大家のくせに生意気だ」「俺は天才だ」「ここの家財道具は全部俺の物だ」「金も俺の物だ」「年増女は出て行け」「男も出て行け」「離婚しろ」「俺の部屋に来い」
「黙れ! 儂はそんな直接的には書いてはおらん! 嫁と一緒にするな! あんなズケズケと物を言う、下品な女とは!」
治男は階段を駆け下りると、自室へ逃げ込み、きっちり鍵を閉めた。
治男の部屋はゴミで埋め尽くされていた。一年前に妻と離婚し、独り身となってからは一度も掃除をしていない。
今まで妻がやっていた食事や洗濯などの家事も全て治男がすることになったが、やり方が分からず、その日暮らしで凌いでいた。おかげで部屋には食べ物のゴミや脱いだ服、盗んできた家電などが散乱し、足の踏み場もなかった。
「ひぃ、ひぃ……」
治男は部屋の電気も点けずに、ゴミを踏み潰しながら寝室に逃げ込む。足の下で何度も嫌な感触がしたが、今はそんなことはどうでも良かった。
貼り紙の声から逃れ、自室へ逃げ込んだものの、まだかすかに声が聞こえてくるのだ。
「い、嫌だ……儂は真っ当な人間なんだ! あんなおぞましいことを、書くはずがないんだ!」
治男はさらに声から逃れるため、寝室に逃げ込み、内側から鍵をかけた。
頭から布団を被り、両手で耳を塞ぐ。それでも声は聞こえた。
「この部屋、全然防音対策が出来とらんじゃないか! 一体、何処から聞こえとるんだ、これは!」
静まり返った部屋の中、治男は自身の頭の中で響いている声に狂気した。
一週間後、二階に住んでいる子連れの母親達は公園から自宅へ帰って来た。
家を出た時と同じ、変わらぬ姿のドアを見て、安堵する。
「良かったー。今日も貼り紙されてないわね」
「貼り紙されなくなって、これで一週間……なんて穏やかな一日なのかしら!」
母親達は清々しい気分で部屋の鍵を開け、子供達を中へ入れた。
「それにしても、本当に貼り紙見なくなったわよねぇ。田中さんのとこも無事だったんでしょ?」
「みたいね。もしかしたら、部屋で死んでたりして」
「まっさかー! アイツの部屋のドア、いつも貼り紙が貼り替えられてるのよ? 死んでたら、張り替えようがないじゃない!」
「あら、そうなの? なーんだ、つまんないの」
母親達が上で治男のことを話している時、一階では歩夢が治男の部屋のドアに貼り紙をしていた。
いつも治男が貼っているものと同じ、「立ち入り禁止」「猛犬注意」「セールスお断り」といった文句が書かれたものだ。利き手でない方で書いたのか、いつも以上に字が歪な形をしている。
そこへ歩夢の行動に気づいた大家が「ちょっと、君!」と声をかけた。
「何をしてるんだい? そこは治男さんの家だよ」
すると歩夢は作業の手を止め、困った様子で振り返った。
「その治男さんに頼まれたんです。風邪を拗らせて布団から起きられないから、代わりに貼ってくれって」
いかにも気の弱そうな青年の雰囲気に、大家も「そうだったのかい」とあっさり信じ、同情した。
「ほどほどでいいからね。あの人、元々変わった人だったけど、奥さんが出て行ってから、さらにおかしくなったんだよね。まともに付き合わなくていいよ」
「はい」
そう言いながらも、歩夢は持っていた全ての紙をドアに貼った。
ドアの向こうで孤独に死に絶えようとしている治男を、覆い隠すように……。
(第4話へ続く)
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