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第1部 第3章「蓄積悪夢」
第2話『天から地獄へ』前編
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落合は昨年、会社の子会社へ出向し、管理職に就いた。いわゆる天下りというやつだ。
要職といっても、部下の仕事ぶりをチェックしたり、書類にハンコを押す程度の簡単な仕事ばかりで、イマイチ張り合いがない。落合がハンコをひとつ押すごとに、本社にいる同期はプロジェクトをひとつ成功させているのかと思うと、腹立たしかった。
そんな落合のストレス解消の矛先は、決まって天下り先の部下だった。
「お前はこんなことも知らないのか?! 社会の常識だぞ?!」
その日も、落合はミスをした部下で憂さ晴らししていた。最近はパワハラだのモラハラだのが問題になっているが、「俺に反発したら、本社に言いつけて解雇させるからな」と常々言い含めているため、皆黙って落合の説教を聞いていた。
今日の落合の被害者は、ツネトキという眼鏡の痩せこけた男性社員だった。
寡黙ではあるものの、勤務態度は真面目。
一方で人間関係を築くのは苦手で、前の部署では人間関係でトラブルを起こし、ここへ追い出されてきたらしい。今の部署でも親しい人間はいないようで、誰も彼をかばおうとはしなかった。
説教が始まってから、じきに一時間が経とうとしている。
その間、落合は椅子にもたれて説教していたが、ツネトキは説教が始まってからずっと立たされっぱなしだ。ツネトキは何を言っても無言を貫くので、落合にとっては格好の標的だった。
「黙ってないで、"はい"と返事しろ! ホウレンソウは社会人の基本だろ? お前には口がないのか? ハハハ」
落合は愉快そうに嗤う。何を言っても平気だと、すっかり安心しきっていた。
すると何が癇に障ったのか、ツネトキは唐突に落合の机を「バンッ!」と叩いた。
「ひぃッ?!」
突然のことに、落合は椅子の上で跳び上がる。ツネトキを見放していた同僚達もビクッと肩を震わせ、視線を向けた。
ツネトキはそれまで見せたことのない、怒りの形相で落合を睨んだ。
「だったら、お前は何でも知ってんのかよ?! 大して何も知らねぇだろ?! そもそも、天下りのくせに威張ってんじゃねぇッ!」
机に叩きつけた手を握り、落合の顔面を殴りつける。
大した威力ではなかったが、今まで彼を従順な標的だと思っていた落合にとっては衝撃的な一撃だった。
「な……な……な……ッ!」
あまりのショックに、言葉を失う。
オフィスから出ていくツネトキを罵倒することも、追いかけて殴り返すこともできず、彼の痩せ細った背中をただ呆然と見送った。
翌日、落合はツネトキを解雇した。上司に歯向かったのだ、当然の処分だろう。
ツネトキは落合や同僚に一切挨拶をせず、荷物をまとめ、去っていった。
反乱分子であるツネトキがいなくなり、部署には平和が戻った。ツネトキが担っていた「ストレスのはけ口」の役割は他の社員へと受け継がれ、落合の心身は健やかに保たれていた。
「部長、アンケートお願いします」
「アンケート?」
ツネトキがいなくなって数日が経ったある日、事務員の女性からホチキスで角を止められた紙の束を渡された。他の社員も、同様の紙の束を受け取っている。
「きみ、なんだねこれは?」
「? ご存知ありませんか?」
事務員の女性は不思議そうに首を傾げた。
「こちらは『職務能力テスト』です。今後の人事に関わる大事なアンケートですので、早急に提出をお願いします」
「そんなテスト、前からあったか?」
「えぇ。本社でも実施しているはずですが」
落合は半信半疑ながらも、暇つぶしにアンケートに答えていった。簡単な国語や数学の問題に始まり、性格に関わる質問、仕事への意欲を問うものまで、幅広かった。
最後に「海外赴任に興味はありますか?」という質問に「はい」と答え、アンケート用紙を事務員の女性に渡した。他の社員は仕事が忙しいようで、アンケートに答えるどころではなかった。
要職といっても、部下の仕事ぶりをチェックしたり、書類にハンコを押す程度の簡単な仕事ばかりで、イマイチ張り合いがない。落合がハンコをひとつ押すごとに、本社にいる同期はプロジェクトをひとつ成功させているのかと思うと、腹立たしかった。
そんな落合のストレス解消の矛先は、決まって天下り先の部下だった。
「お前はこんなことも知らないのか?! 社会の常識だぞ?!」
その日も、落合はミスをした部下で憂さ晴らししていた。最近はパワハラだのモラハラだのが問題になっているが、「俺に反発したら、本社に言いつけて解雇させるからな」と常々言い含めているため、皆黙って落合の説教を聞いていた。
今日の落合の被害者は、ツネトキという眼鏡の痩せこけた男性社員だった。
寡黙ではあるものの、勤務態度は真面目。
一方で人間関係を築くのは苦手で、前の部署では人間関係でトラブルを起こし、ここへ追い出されてきたらしい。今の部署でも親しい人間はいないようで、誰も彼をかばおうとはしなかった。
説教が始まってから、じきに一時間が経とうとしている。
その間、落合は椅子にもたれて説教していたが、ツネトキは説教が始まってからずっと立たされっぱなしだ。ツネトキは何を言っても無言を貫くので、落合にとっては格好の標的だった。
「黙ってないで、"はい"と返事しろ! ホウレンソウは社会人の基本だろ? お前には口がないのか? ハハハ」
落合は愉快そうに嗤う。何を言っても平気だと、すっかり安心しきっていた。
すると何が癇に障ったのか、ツネトキは唐突に落合の机を「バンッ!」と叩いた。
「ひぃッ?!」
突然のことに、落合は椅子の上で跳び上がる。ツネトキを見放していた同僚達もビクッと肩を震わせ、視線を向けた。
ツネトキはそれまで見せたことのない、怒りの形相で落合を睨んだ。
「だったら、お前は何でも知ってんのかよ?! 大して何も知らねぇだろ?! そもそも、天下りのくせに威張ってんじゃねぇッ!」
机に叩きつけた手を握り、落合の顔面を殴りつける。
大した威力ではなかったが、今まで彼を従順な標的だと思っていた落合にとっては衝撃的な一撃だった。
「な……な……な……ッ!」
あまりのショックに、言葉を失う。
オフィスから出ていくツネトキを罵倒することも、追いかけて殴り返すこともできず、彼の痩せ細った背中をただ呆然と見送った。
翌日、落合はツネトキを解雇した。上司に歯向かったのだ、当然の処分だろう。
ツネトキは落合や同僚に一切挨拶をせず、荷物をまとめ、去っていった。
反乱分子であるツネトキがいなくなり、部署には平和が戻った。ツネトキが担っていた「ストレスのはけ口」の役割は他の社員へと受け継がれ、落合の心身は健やかに保たれていた。
「部長、アンケートお願いします」
「アンケート?」
ツネトキがいなくなって数日が経ったある日、事務員の女性からホチキスで角を止められた紙の束を渡された。他の社員も、同様の紙の束を受け取っている。
「きみ、なんだねこれは?」
「? ご存知ありませんか?」
事務員の女性は不思議そうに首を傾げた。
「こちらは『職務能力テスト』です。今後の人事に関わる大事なアンケートですので、早急に提出をお願いします」
「そんなテスト、前からあったか?」
「えぇ。本社でも実施しているはずですが」
落合は半信半疑ながらも、暇つぶしにアンケートに答えていった。簡単な国語や数学の問題に始まり、性格に関わる質問、仕事への意欲を問うものまで、幅広かった。
最後に「海外赴任に興味はありますか?」という質問に「はい」と答え、アンケート用紙を事務員の女性に渡した。他の社員は仕事が忙しいようで、アンケートに答えるどころではなかった。
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