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最終編『蛍火明滅、〈探し人〉のゆく先』
第十話「惑わしの水路」⑵
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船頭がオールを漕ぎ、ボートは真っ暗な水路を進む。
水路は地上で見るより広い。天井はアーチ型になっていて高いし、川幅はボートをあと二、三艘は浮かせられそうなほど余裕がある。古びたレンガ造で、それなりに年季が入っているようだった。
「この水路、実在するものなんですか?」
「はい。旧鏡面ヶ淵地下水路と申しまして、明治時代に作られ、近年まで利用されていました。大部分は取り壊されたそうですが、現在も一部区画は残ったままで、隠れ心霊スポットとして親しまれているようです」
「隠れ……心霊スポット?」
「実際、年に何人かは水路に入ったまま戻ってこないのだとか。もしかしたら、〈未練溜まり〉の水路とつながっていて、人の身でありながら迷い込んでしまったのかもしれませんね」
「……」
風がヒュルルと音を立て、吹き抜ける。心なしか、水路内の温度が下がった気がする。
中林が聞いたら、
「ギャーッ! 怖い!」
と悲鳴を上げるか、
「キャー、怖い! 由良さん、私達も行きましょう!」
と喜んでいただろう。
「私達は迷いませんよね?」
「ご心配なく。私がついておりますもの」
その言葉どおり、船頭はオールを巧みに操り、入り組んだ水路をためらいなく進んでいく。
何度か角を曲がり、水路の入口が完全に見えなくなった頃、歩道に黄緑色の光が落ちていた。進むにつれて光は増え、壁や天井にも見られるようになる。
それらはヒカリゴケだった。水路全体を照らせるほどの光量はなく、ぼんやりとした光を放っている。
水路にいる生き物は、ヒカリゴケだけではない。目の前をホタルが飛び交い、水中では金魚や熱帯魚などの多種多様な魚が泳いでいる。魚達も〈心の落とし物〉らしく、黄緑色に輝きながら、水中で光の波を作り出してい。
「ここ、魚がいるんですね」
「あれらはかつて人間に捕らえられ、飼われ、死に、忘れられた魚達です。鑑賞用に大通りで売られていますが、増え続ける一方です。一応生き物なので、心果の肥料にもできませんし」
水路のどこかで電話が鳴った。
一台や二台ではない。無数のコール音が反響している。
(この音、いったいどこから?)
歩道に明かりが点る。電話ボックスだ。等間隔に並び、ぼんやりとした黄緑色の光で辺りを照らしている。
暗がりで見えなかったのか、天井にもさまざまな年代の受話器がツタのごとく吊り下がっていた。音は反響し、どれが鳴っているのか判別できない。
「この電話はいったい……」
「電話?」
船頭は首を傾げる。黒猫は興味深そうに、天井の受話器を目で追う。
その時、
「……で、……な」
(人の声?)
歩道から、かすかに人の声が聞こえた。
並んでいる電話ボックスを順に目で追っていくと、そのうちのひとつに男性が入っていた。大事そうに受話器を握り、笑顔で話し込んでいる。
街中ならともかく、ここは大人の立ち入りを制限されている。誤って、水路へ迷い込んでしまったのかもしれない。
由良は男性を指差し、船頭に言った。
「あそこに人が。助けないと」
しかし、船頭は「無駄です」とボートを漕ぎ続けた。
「我々が何を言ったところで、あの方は離れませんよ」
「このまま見過ごせと?」
「やむを得ません。それがあの方の望みなのですから」
由良は船頭の言葉を無視し、歩道へ飛び移った。男性がいる電話ボックスをノックする。
男性は最初、由良に気づいていなかったが、めげずにノックし続けていると、煩わしそうにこちらを向いた。由良の存在に驚いた様子で、慌てて耳から受話器をずらし、電話ボックスのドアを開いた。
「すみません、まだ彼女と話していたいんです。他の電話ボックスを使ってもらえませんか?」
「私は電話しに来たんじゃありません。魔女の家へ向かう途中なんです」
「魔女の家?」
「ともかく、ボートに乗ってください。いっしょにここから出ましょう」
男性はボートを一瞥したものの、首を横に振った。
「……出たくない」
「どうして。貴方、ここから出られなくて困っているんじゃないんですか?」
「迷い込んだ当初はそうでした。でも、今はここにいたいんです。彼女の声が聞けるのはもう、この場所しかないから」
受話器から音が聞こえる。
「彼女」の声かと思いきや、曲だった。由良の祖母が好きだったという「蛍の集会所」だ。
以前、渡来屋に聞かせてもらった蓄音機と同じもので、人の声は一切入っていない。「彼女」=蓄音機という可能性もあるが、それでは会話が成り立たない。
「どうしました?」
「いえ……」
男性は再び受話器を耳に当て、「彼女」との会話を再開する。電話の相手が「彼女」だと、全く疑っていない。
由良はなんだか不気味になり、男性を置いてボートへ戻ることにした。
水路は地上で見るより広い。天井はアーチ型になっていて高いし、川幅はボートをあと二、三艘は浮かせられそうなほど余裕がある。古びたレンガ造で、それなりに年季が入っているようだった。
「この水路、実在するものなんですか?」
「はい。旧鏡面ヶ淵地下水路と申しまして、明治時代に作られ、近年まで利用されていました。大部分は取り壊されたそうですが、現在も一部区画は残ったままで、隠れ心霊スポットとして親しまれているようです」
「隠れ……心霊スポット?」
「実際、年に何人かは水路に入ったまま戻ってこないのだとか。もしかしたら、〈未練溜まり〉の水路とつながっていて、人の身でありながら迷い込んでしまったのかもしれませんね」
「……」
風がヒュルルと音を立て、吹き抜ける。心なしか、水路内の温度が下がった気がする。
中林が聞いたら、
「ギャーッ! 怖い!」
と悲鳴を上げるか、
「キャー、怖い! 由良さん、私達も行きましょう!」
と喜んでいただろう。
「私達は迷いませんよね?」
「ご心配なく。私がついておりますもの」
その言葉どおり、船頭はオールを巧みに操り、入り組んだ水路をためらいなく進んでいく。
何度か角を曲がり、水路の入口が完全に見えなくなった頃、歩道に黄緑色の光が落ちていた。進むにつれて光は増え、壁や天井にも見られるようになる。
それらはヒカリゴケだった。水路全体を照らせるほどの光量はなく、ぼんやりとした光を放っている。
水路にいる生き物は、ヒカリゴケだけではない。目の前をホタルが飛び交い、水中では金魚や熱帯魚などの多種多様な魚が泳いでいる。魚達も〈心の落とし物〉らしく、黄緑色に輝きながら、水中で光の波を作り出してい。
「ここ、魚がいるんですね」
「あれらはかつて人間に捕らえられ、飼われ、死に、忘れられた魚達です。鑑賞用に大通りで売られていますが、増え続ける一方です。一応生き物なので、心果の肥料にもできませんし」
水路のどこかで電話が鳴った。
一台や二台ではない。無数のコール音が反響している。
(この音、いったいどこから?)
歩道に明かりが点る。電話ボックスだ。等間隔に並び、ぼんやりとした黄緑色の光で辺りを照らしている。
暗がりで見えなかったのか、天井にもさまざまな年代の受話器がツタのごとく吊り下がっていた。音は反響し、どれが鳴っているのか判別できない。
「この電話はいったい……」
「電話?」
船頭は首を傾げる。黒猫は興味深そうに、天井の受話器を目で追う。
その時、
「……で、……な」
(人の声?)
歩道から、かすかに人の声が聞こえた。
並んでいる電話ボックスを順に目で追っていくと、そのうちのひとつに男性が入っていた。大事そうに受話器を握り、笑顔で話し込んでいる。
街中ならともかく、ここは大人の立ち入りを制限されている。誤って、水路へ迷い込んでしまったのかもしれない。
由良は男性を指差し、船頭に言った。
「あそこに人が。助けないと」
しかし、船頭は「無駄です」とボートを漕ぎ続けた。
「我々が何を言ったところで、あの方は離れませんよ」
「このまま見過ごせと?」
「やむを得ません。それがあの方の望みなのですから」
由良は船頭の言葉を無視し、歩道へ飛び移った。男性がいる電話ボックスをノックする。
男性は最初、由良に気づいていなかったが、めげずにノックし続けていると、煩わしそうにこちらを向いた。由良の存在に驚いた様子で、慌てて耳から受話器をずらし、電話ボックスのドアを開いた。
「すみません、まだ彼女と話していたいんです。他の電話ボックスを使ってもらえませんか?」
「私は電話しに来たんじゃありません。魔女の家へ向かう途中なんです」
「魔女の家?」
「ともかく、ボートに乗ってください。いっしょにここから出ましょう」
男性はボートを一瞥したものの、首を横に振った。
「……出たくない」
「どうして。貴方、ここから出られなくて困っているんじゃないんですか?」
「迷い込んだ当初はそうでした。でも、今はここにいたいんです。彼女の声が聞けるのはもう、この場所しかないから」
受話器から音が聞こえる。
「彼女」の声かと思いきや、曲だった。由良の祖母が好きだったという「蛍の集会所」だ。
以前、渡来屋に聞かせてもらった蓄音機と同じもので、人の声は一切入っていない。「彼女」=蓄音機という可能性もあるが、それでは会話が成り立たない。
「どうしました?」
「いえ……」
男性は再び受話器を耳に当て、「彼女」との会話を再開する。電話の相手が「彼女」だと、全く疑っていない。
由良はなんだか不気味になり、男性を置いてボートへ戻ることにした。
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