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最終編『蛍火明滅、〈探し人〉のゆく先』
ある男の日記②
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由良は祖父の日記を開いた。
1985年 7月××日
美麗が入院した。過労で倒れたらしい。
私は妻の美緑と見舞いに行った。美麗とは友人で、仕事でもプライベートでも世話になっている。名前が似ている縁から、美緑も彼女とは親しかった。
美麗が好きな黄色と橙色の薔薇の花と、懐虫電燈でも出しているメロンゼリーを差し入れた。さすがにベラドンナは連れては行けず、店の留守番を任せた。
美麗は顔色こそ悪かったものの、思いのほか元気だった。ベッドから起き上がり、お気に入りの日本画家の画集を眺めていた。息子の秀麗君が届けてくれたらしい。
ところどころページが破れ、テープで雑に補修してある。破ったのは幼い頃の秀麗君、直したのは美麗だ。画集をおもちゃ代わりにして破ってしまい、美麗が自力で直したのだ。自分にもそんな時代があったと、秀麗君は知るよしもない。
「蛍太郎、私はこの病院に本を寄贈しようと思う。ここの図書室にはろくな本がない。秀麗がこれを届けてくれなければ、退屈で死ぬところだった」
美麗は個室なのをいいことに、堂々と嘆いていた。テーブルには画集の他に、仕事で使う書類も置いてあった。画集といっしょに、秀麗君が持ってきたそうだ。
彼は美麗漆器の役員だった。今回の見舞いも、美麗の「息子」としてではなく、美麗の「部下」として、上司の様子を見に来たのだろう。会話の内容も、仕事のことばかりだった。
「退屈で死ぬところだった」と言う美麗に、私達は「死ぬなんて縁起でもない」と慌てた。
当の美麗は、
「冗談を真に受けるんじゃない。会社と秀麗を残して死ねるもんか」
と、笑っていた。
1985年 10月××日
美麗が……器楽堂社長が亡くなった。
原因は三ヶ月に倒れたときと同じく、過労だ。どうやら入院していた間に溜まった仕事を消化しようと、周りの目を欺き、徹夜で働いていたらしい。発見されたときも、デスクに突っ伏し、眠るように意識を失っていたそうだ。
告別式は昨日だったが、とても日記を書く気にはなれなかった。美緑も、すっかり塞ぎ込んでしまっている。美麗を知る誰もが、彼女の死を受け入れきれず、悲しみに暮れているはずだ。
いくらなんでも、早すぎる。病室で「会社と秀麗を残して死ねるもんか」と意気込んでいたのは、嘘だったのか? 知りたくとも、本人はもういない。美麗の〈探し人〉か〈分け御霊〉でも見つかれば別だが、彼女はこの世に未練を残すタイプではない。
美麗漆器は秀麗君が継いだ。会社を大幅に改革し、黒字経営を目指すつもりらしい。何を企んでいるかは知らないが、なんだか嫌な予感がする。
明日から店を開けようと思う。美緑はしばらく休むだろう。
1986年 8月××日
美緑が「〈未練溜まり〉へ行く」と言って出て行ったきり、帰ってこない。無駄だろうが、今日中に帰ってこなければ、警察に捜索願いを出しに行くつもりだ。
美麗が亡くなって、じきに一年。あれから、いろんなものが失われた。
路面電車の廃線工事が始まり、大通りから線路が消えた。蚤の市は「オータムフェス」と名を変え、毎年秋にだけ開催するようになった。その開催地である商店街も、駅前の再開発に伴い、店が相次いで移転しつつある。
秀麗が社長になってから、美麗漆器も変わってしまった。彼は赤字だった経営を黒字にするため、美麗が今まで大事にしてきた「こだわり」を全て捨てた。
職人を大勢解雇し、工場で大量生産する方針に変えてしまったのだ。デザインも唯一の個性をもつ一点ものではなく、万人受けするありふれたデザインを採用するようになった。方針に従わない社員は、皆辞めていった。
おかげで、美麗漆器の経営は黒字に回復した。だが、かつて多くの人々に愛された「美麗漆器」は失われてしまった。蚤の市ではまだ見かけるが、それもいつまで続くかは分からない。
そして……ベラドンナ。あの猫が、美緑の最後の心のよりどころだった。ベラドンナも、自分が美緑にとってどんな存在か分かっていたはずだ。
なのに、ベラドンナはある夜を境に、姿をくらました。ベラドンナを最後に見た美緑によれば、「商店街が黄緑色に染まって、路面電車がやってきた」「ベラドンナはその路面電車に乗って、どこかへ行ってしまった」らしい。
商店街に路面電車は走っていない。何かの見間違いだと思っていたが、たまたま店に来た〈探し人〉が「あの電車は〈未練溜まり〉へ通じている」と話していたそうだ。
その〈探し人〉は、路面電車の乗り方も知っていた。
「洋燈商店街の明かりが黄緑色に変わったら、〈未練溜まり〉行きの路面電車が来る。あとは電車が止まるまで、その場で手を挙げて待っていればいい」
と。
いなくなる直前、美緑は泣きながら言った。
「私はもうこれ以上、何かを失うことに耐えられない。貴方や子供達、懐虫電燈や洋燈商店街まで失ってしまったら、今度こそどうにかなってしまう」
私は薄々、彼女が〈未練溜まり〉へ行ってしまうと気づいていた。だが、あんな彼女を見て、引き留められるはずがない。
〈未練溜まり〉は〈心の落とし物〉の終着点だときく。この目で実際に見たことはないが、そこに美緑が失った思い出が集まっているのなら、今頃幸せに生きているのかもしれない。
私は共に行くわけにはいかない。いつか美緑が帰ってくるまで、懐虫電燈を守らなくては。
由良は祖父の日記を閉じた。
1985年 7月××日
美麗が入院した。過労で倒れたらしい。
私は妻の美緑と見舞いに行った。美麗とは友人で、仕事でもプライベートでも世話になっている。名前が似ている縁から、美緑も彼女とは親しかった。
美麗が好きな黄色と橙色の薔薇の花と、懐虫電燈でも出しているメロンゼリーを差し入れた。さすがにベラドンナは連れては行けず、店の留守番を任せた。
美麗は顔色こそ悪かったものの、思いのほか元気だった。ベッドから起き上がり、お気に入りの日本画家の画集を眺めていた。息子の秀麗君が届けてくれたらしい。
ところどころページが破れ、テープで雑に補修してある。破ったのは幼い頃の秀麗君、直したのは美麗だ。画集をおもちゃ代わりにして破ってしまい、美麗が自力で直したのだ。自分にもそんな時代があったと、秀麗君は知るよしもない。
「蛍太郎、私はこの病院に本を寄贈しようと思う。ここの図書室にはろくな本がない。秀麗がこれを届けてくれなければ、退屈で死ぬところだった」
美麗は個室なのをいいことに、堂々と嘆いていた。テーブルには画集の他に、仕事で使う書類も置いてあった。画集といっしょに、秀麗君が持ってきたそうだ。
彼は美麗漆器の役員だった。今回の見舞いも、美麗の「息子」としてではなく、美麗の「部下」として、上司の様子を見に来たのだろう。会話の内容も、仕事のことばかりだった。
「退屈で死ぬところだった」と言う美麗に、私達は「死ぬなんて縁起でもない」と慌てた。
当の美麗は、
「冗談を真に受けるんじゃない。会社と秀麗を残して死ねるもんか」
と、笑っていた。
1985年 10月××日
美麗が……器楽堂社長が亡くなった。
原因は三ヶ月に倒れたときと同じく、過労だ。どうやら入院していた間に溜まった仕事を消化しようと、周りの目を欺き、徹夜で働いていたらしい。発見されたときも、デスクに突っ伏し、眠るように意識を失っていたそうだ。
告別式は昨日だったが、とても日記を書く気にはなれなかった。美緑も、すっかり塞ぎ込んでしまっている。美麗を知る誰もが、彼女の死を受け入れきれず、悲しみに暮れているはずだ。
いくらなんでも、早すぎる。病室で「会社と秀麗を残して死ねるもんか」と意気込んでいたのは、嘘だったのか? 知りたくとも、本人はもういない。美麗の〈探し人〉か〈分け御霊〉でも見つかれば別だが、彼女はこの世に未練を残すタイプではない。
美麗漆器は秀麗君が継いだ。会社を大幅に改革し、黒字経営を目指すつもりらしい。何を企んでいるかは知らないが、なんだか嫌な予感がする。
明日から店を開けようと思う。美緑はしばらく休むだろう。
1986年 8月××日
美緑が「〈未練溜まり〉へ行く」と言って出て行ったきり、帰ってこない。無駄だろうが、今日中に帰ってこなければ、警察に捜索願いを出しに行くつもりだ。
美麗が亡くなって、じきに一年。あれから、いろんなものが失われた。
路面電車の廃線工事が始まり、大通りから線路が消えた。蚤の市は「オータムフェス」と名を変え、毎年秋にだけ開催するようになった。その開催地である商店街も、駅前の再開発に伴い、店が相次いで移転しつつある。
秀麗が社長になってから、美麗漆器も変わってしまった。彼は赤字だった経営を黒字にするため、美麗が今まで大事にしてきた「こだわり」を全て捨てた。
職人を大勢解雇し、工場で大量生産する方針に変えてしまったのだ。デザインも唯一の個性をもつ一点ものではなく、万人受けするありふれたデザインを採用するようになった。方針に従わない社員は、皆辞めていった。
おかげで、美麗漆器の経営は黒字に回復した。だが、かつて多くの人々に愛された「美麗漆器」は失われてしまった。蚤の市ではまだ見かけるが、それもいつまで続くかは分からない。
そして……ベラドンナ。あの猫が、美緑の最後の心のよりどころだった。ベラドンナも、自分が美緑にとってどんな存在か分かっていたはずだ。
なのに、ベラドンナはある夜を境に、姿をくらました。ベラドンナを最後に見た美緑によれば、「商店街が黄緑色に染まって、路面電車がやってきた」「ベラドンナはその路面電車に乗って、どこかへ行ってしまった」らしい。
商店街に路面電車は走っていない。何かの見間違いだと思っていたが、たまたま店に来た〈探し人〉が「あの電車は〈未練溜まり〉へ通じている」と話していたそうだ。
その〈探し人〉は、路面電車の乗り方も知っていた。
「洋燈商店街の明かりが黄緑色に変わったら、〈未練溜まり〉行きの路面電車が来る。あとは電車が止まるまで、その場で手を挙げて待っていればいい」
と。
いなくなる直前、美緑は泣きながら言った。
「私はもうこれ以上、何かを失うことに耐えられない。貴方や子供達、懐虫電燈や洋燈商店街まで失ってしまったら、今度こそどうにかなってしまう」
私は薄々、彼女が〈未練溜まり〉へ行ってしまうと気づいていた。だが、あんな彼女を見て、引き留められるはずがない。
〈未練溜まり〉は〈心の落とし物〉の終着点だときく。この目で実際に見たことはないが、そこに美緑が失った思い出が集まっているのなら、今頃幸せに生きているのかもしれない。
私は共に行くわけにはいかない。いつか美緑が帰ってくるまで、懐虫電燈を守らなくては。
由良は祖父の日記を閉じた。
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