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最終編『蛍火明滅、〈探し人〉のゆく先』
第三話「ナナシのナナコ」⑴
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「目、すっご」
「普段は怖がられないよう、伏し目がちにしております」
由良はイムラの目を覗き込む。見れば見るほど不思議な瞳だった。
そこへ、女性のウェイターがおずおずと近寄ってきた。黒髪をアップにした、幸の薄そうな美人だった。
「店長、上がります」
「はい。お疲れ様、ナナコさん」
女性は階段を下り、しばらくすると着替えて戻ってきた。ドレスタイプの喪服姿で、ウェイターの時よりも雰囲気があった。客達は慣れているのか、一瞥しただけで特に気に留めない。
「ライムシャーベットをひとつください」
「かしこまりました」
女性は客としてイムラに注文すると、シャーベットを手に、ひと気の少ない隅の席へ座った。
柄の長い銀のスプーンで物憂げにシャーベットをすくい、口へ運ぶ。
(絵になるなぁ)
と由良が見入っていると、女性はおもむろにシャーベットに添えられていたキーライムの輪切りを手に取り、口へ運んだ。
物憂げだった表情が、一気に崩れる。由良もキーライムの酸味を思い出し、口が自然と窄んでいた。
「お客様、」
「ふぁい?」
イムラに呼ばれ、口を窄ませたまま振り向く。イムラはなぜ由良がそんな口をしているのか分からず、困惑した。
「ど、どうしました?」
「いえ、大したことではないんです。ライムの酸味を思い出してしまって、つい。何かご用でしたか?」
イムラは女性に目をやり、言った。
「私的なお願いで申し訳ないのですが、もしお時間があるのでしたら、ぜひ彼女に話しかけてやってはくれませんか?」
「彼女って、あの喪服の?」
イムラは頷いた。
「彼女、記憶喪失なんです。おそらく〈探し人〉らしいのですが、自分がどこの誰の〈探し人〉なのか、何を探していたのか、そもそも自分はなんという名前なのか、何もかも全く覚えていないのです。便宜上、ナナコと呼んではいますが、それも本当の名ではありません。少しでも何か思い出すキッカケになればと、当店にお越しになったお客様には彼女とお話していただけるよう、ご協力をお願いしているのです」
女性の表情が暗いのはそのせいなのかもしれない。記憶がないことへの不安、探すべき〈心の落とし物〉が分からない不安……そんな、他人には計り知れないほどの不安を抱えているに違いない。
「分かりました。私で良ければ、お手伝いさせてください」
イムラは「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。
「ところで、なぜナナコと名付けられたんです?」
「……最初はシトロンが名付けようとしたんですが、どの候補もハイカラ過ぎて呼びにくかったんです。そのうち、お客様のどなたかが『名前がないなら、ナナシのナナコだな』とおっしゃられまして。それがいつのまにか定着していました」
「安直ですけど、シンプルでいいですね」
「私も呼びやすいので使っています。不満に思っているのは、シトロンだけです。もっとも、無意味な攻防だったとは思っておりませんよ。少なくとも彼女の名前は、ナナコでもハイカラな名前でもないと分かったのですから。あぁ、ちょうど候補に挙げていた名前の曲を弾いていますね」
会話が聞こえていないはずのシトロンが不服そうに眉をひそめ、こちらを見ている。さすがの腕前で、手元を見ずともショパンのノクターン第二番を流暢に弾いていた。
彼女と目が合った瞬間、由良とイムラは揃って視線を明後日の方向へそらした。
由良はナナコの前に立ち、声をかけた。
「こんばんは」
「こ、こんばんは」
ナナコはおっかなびっくりスプーンを置く。
ずいぶん警戒されているようだ。彼女は由良が声をかける少し前から、由良の接近に気づき、怯えていた。
「イムラさんに頼まれたんです。貴方の記憶が戻る手伝いをして欲しいって」
「そうだったんですか」
その一言で、ナナコは胸を撫で下ろした。
「てっきり、またナンパされたのかと思いました」
「しませんよ」
とはいえ、声をかける男性の気持ちも分からないでもない。
ナナコはどこか存在が危うく、目を離すと消えてしまいそうな、儚げなオーラをまとっていた。現に、客の何人かはナナコに熱い視線を送っていた。
「普段は怖がられないよう、伏し目がちにしております」
由良はイムラの目を覗き込む。見れば見るほど不思議な瞳だった。
そこへ、女性のウェイターがおずおずと近寄ってきた。黒髪をアップにした、幸の薄そうな美人だった。
「店長、上がります」
「はい。お疲れ様、ナナコさん」
女性は階段を下り、しばらくすると着替えて戻ってきた。ドレスタイプの喪服姿で、ウェイターの時よりも雰囲気があった。客達は慣れているのか、一瞥しただけで特に気に留めない。
「ライムシャーベットをひとつください」
「かしこまりました」
女性は客としてイムラに注文すると、シャーベットを手に、ひと気の少ない隅の席へ座った。
柄の長い銀のスプーンで物憂げにシャーベットをすくい、口へ運ぶ。
(絵になるなぁ)
と由良が見入っていると、女性はおもむろにシャーベットに添えられていたキーライムの輪切りを手に取り、口へ運んだ。
物憂げだった表情が、一気に崩れる。由良もキーライムの酸味を思い出し、口が自然と窄んでいた。
「お客様、」
「ふぁい?」
イムラに呼ばれ、口を窄ませたまま振り向く。イムラはなぜ由良がそんな口をしているのか分からず、困惑した。
「ど、どうしました?」
「いえ、大したことではないんです。ライムの酸味を思い出してしまって、つい。何かご用でしたか?」
イムラは女性に目をやり、言った。
「私的なお願いで申し訳ないのですが、もしお時間があるのでしたら、ぜひ彼女に話しかけてやってはくれませんか?」
「彼女って、あの喪服の?」
イムラは頷いた。
「彼女、記憶喪失なんです。おそらく〈探し人〉らしいのですが、自分がどこの誰の〈探し人〉なのか、何を探していたのか、そもそも自分はなんという名前なのか、何もかも全く覚えていないのです。便宜上、ナナコと呼んではいますが、それも本当の名ではありません。少しでも何か思い出すキッカケになればと、当店にお越しになったお客様には彼女とお話していただけるよう、ご協力をお願いしているのです」
女性の表情が暗いのはそのせいなのかもしれない。記憶がないことへの不安、探すべき〈心の落とし物〉が分からない不安……そんな、他人には計り知れないほどの不安を抱えているに違いない。
「分かりました。私で良ければ、お手伝いさせてください」
イムラは「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。
「ところで、なぜナナコと名付けられたんです?」
「……最初はシトロンが名付けようとしたんですが、どの候補もハイカラ過ぎて呼びにくかったんです。そのうち、お客様のどなたかが『名前がないなら、ナナシのナナコだな』とおっしゃられまして。それがいつのまにか定着していました」
「安直ですけど、シンプルでいいですね」
「私も呼びやすいので使っています。不満に思っているのは、シトロンだけです。もっとも、無意味な攻防だったとは思っておりませんよ。少なくとも彼女の名前は、ナナコでもハイカラな名前でもないと分かったのですから。あぁ、ちょうど候補に挙げていた名前の曲を弾いていますね」
会話が聞こえていないはずのシトロンが不服そうに眉をひそめ、こちらを見ている。さすがの腕前で、手元を見ずともショパンのノクターン第二番を流暢に弾いていた。
彼女と目が合った瞬間、由良とイムラは揃って視線を明後日の方向へそらした。
由良はナナコの前に立ち、声をかけた。
「こんばんは」
「こ、こんばんは」
ナナコはおっかなびっくりスプーンを置く。
ずいぶん警戒されているようだ。彼女は由良が声をかける少し前から、由良の接近に気づき、怯えていた。
「イムラさんに頼まれたんです。貴方の記憶が戻る手伝いをして欲しいって」
「そうだったんですか」
その一言で、ナナコは胸を撫で下ろした。
「てっきり、またナンパされたのかと思いました」
「しませんよ」
とはいえ、声をかける男性の気持ちも分からないでもない。
ナナコはどこか存在が危うく、目を離すと消えてしまいそうな、儚げなオーラをまとっていた。現に、客の何人かはナナコに熱い視線を送っていた。
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