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秋編③『誰ソ彼刻の紫面楚歌(マジックアワー)』
第四話「渡せなかった指輪」⑷
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「みっ……!」
由良と中林は思わず、水無月の名前を口にしそうになった。とっさに、互いの口を手でふさぐ。
水無月は丸めていた背を伸ばすと、嬉しそうにカップを手に取った。
「あー、キツかった。これでやっとコーヒーが飲める」
つい見入ってしまうほど美しい所作で、カップを持ち上げ、音もなくコーヒーを口にする。由良は映画のワンシーンでも見ているような気分になった。
「あ、あ、あの……後で、あちらのポスターにサインをいただけますか? 以前、扇さんにもしていただいたんですけど」
中林は「桜花妖」のポスターを指差し、小声で尋ねる。
水無月も「いいよ」と小声で囁いた。
「洋燈町の人には撮影でお世話になったからね。ぜひ、書かせてもらうよ」
「うはー! ありがとうございます!」
中林はるんるんで、サインペンを取りにバックルームへ向かう。
その間に、由良は指輪のことを水無月に尋ねた。
「そちらの指輪、もしや玉蟲匣で購入されたのでは?」
「そうだよ。よく分かったね」
「玉蟲匣の店主から頼まれていたのです。もし、自分が出発した後に水無月様が来られたら対応しておいて欲しい、と」
水無月は目を見張った。
「……驚いたな。俺が来ることを予知していたと? どうりで、何も言っていないのに指輪を持ってきたはずだ」
水無月は珠緒に何らかの特殊能力が備わっているのだと考えているらしい。指輪を手に入れるまでの経緯を、事細かに話してくれた。
「知っての通り、私と華恋は元夫婦だったんだが、夫婦らしいことは何ひとつしてこなかった。籍こそ入れたが、式は挙げなかったし、婚約指輪も結婚指輪も渡していなかった。当時は映画の製作費を稼ぐのに精いっぱいでそれどころではなかったし、想いが通じ合っていれば、物で繋ぎとめる必要もないと思っていた」
「……」
扇は黙って、水無月の話を聞いている。
初めて聞く話なのか、既に聞いたのかは分からないが、心なしか寂しげだった。
「だが後になって、華恋と結婚していた証が何もないことに気づき、後悔した。思い出を物として残そうとする人の気持ちが、初めて分かったよ。思い出は私達の記憶の中にしかない……私達が忘れたら、永遠に失われてしまうんだってね」
だから、と水無月ははめているパープルサファイアの指輪を撫でた。
「玉蟲匣でこの指輪を見つけた時、『これを華恋と結婚"していた"証にできないだろうか?』と考えた。華恋の好きなピンクと、私の好きな水色を混ぜ合わせた紫の宝石は、私達が結婚していた証として、この上なく相応しかったからね。その時は、『今の彼女には不要だろう』と買わなかったけど、一夜明けて思い直した。自己満足に思われようが渡したい、断られたら自分でつければいいって。そしたら彼女、すごく喜んでくれてね。『私も同じように思ってた』って、泣きながら受け取ってくれたんだ」
「涼馬ッ!」
扇は顔を真っ赤にし、ヒールで水無月のつま先をぐりぐりと踏む。
水無月は踏まれ慣れているのか、あるいはよほど丈夫な靴を履いているのか、「こらこら、足癖が悪いぞ」と涼しい顔で笑っていた。
「では、なぜ指輪をされているんです? 店主はもう片方の指輪は先に売れた、と言っておりましたが」
「その一方を、華恋がネットで購入していたんだよ。なんでも、私との結婚指輪の代わりに買って、密かに愛でていたらしい。私が指輪を渡したら、『代わりに私のをあげる』と譲ってくれたよ。まさか、式を挙げずに、指輪だけ交換することになるとは思わなかったなぁ」
水無月が桜花妖のポスターにサインをし終えると、二人はLAMPを後にした。
水無月は「何分でバレるかチャレンジ」と称し、変装せずに外へ出たが、ちょうど店に入ろうとしていた女子高生とばったり出くわし、黄色い悲鳴を上げられていた。
「ほら、見なさい。あの子達、絶対よそでも話すわよ。妙なウワサが広まっても知らないからね?」
「いいじゃないか。僕らは夢を売る仕事なんだ、好きなだけ踊らせてやればいい」
「……それもそうね」
扇も水無月の誘いに乗り、彼と腕を組んだ。顔を見合わせ、ニヤリと笑う。
別れてもなお、心で深く通じ合っている二人を見て、由良は少し羨ましくなった。
(秋編③『誰ソ彼刻の紫面楚歌(マジックアワー)』第五話へ続く)
由良と中林は思わず、水無月の名前を口にしそうになった。とっさに、互いの口を手でふさぐ。
水無月は丸めていた背を伸ばすと、嬉しそうにカップを手に取った。
「あー、キツかった。これでやっとコーヒーが飲める」
つい見入ってしまうほど美しい所作で、カップを持ち上げ、音もなくコーヒーを口にする。由良は映画のワンシーンでも見ているような気分になった。
「あ、あ、あの……後で、あちらのポスターにサインをいただけますか? 以前、扇さんにもしていただいたんですけど」
中林は「桜花妖」のポスターを指差し、小声で尋ねる。
水無月も「いいよ」と小声で囁いた。
「洋燈町の人には撮影でお世話になったからね。ぜひ、書かせてもらうよ」
「うはー! ありがとうございます!」
中林はるんるんで、サインペンを取りにバックルームへ向かう。
その間に、由良は指輪のことを水無月に尋ねた。
「そちらの指輪、もしや玉蟲匣で購入されたのでは?」
「そうだよ。よく分かったね」
「玉蟲匣の店主から頼まれていたのです。もし、自分が出発した後に水無月様が来られたら対応しておいて欲しい、と」
水無月は目を見張った。
「……驚いたな。俺が来ることを予知していたと? どうりで、何も言っていないのに指輪を持ってきたはずだ」
水無月は珠緒に何らかの特殊能力が備わっているのだと考えているらしい。指輪を手に入れるまでの経緯を、事細かに話してくれた。
「知っての通り、私と華恋は元夫婦だったんだが、夫婦らしいことは何ひとつしてこなかった。籍こそ入れたが、式は挙げなかったし、婚約指輪も結婚指輪も渡していなかった。当時は映画の製作費を稼ぐのに精いっぱいでそれどころではなかったし、想いが通じ合っていれば、物で繋ぎとめる必要もないと思っていた」
「……」
扇は黙って、水無月の話を聞いている。
初めて聞く話なのか、既に聞いたのかは分からないが、心なしか寂しげだった。
「だが後になって、華恋と結婚していた証が何もないことに気づき、後悔した。思い出を物として残そうとする人の気持ちが、初めて分かったよ。思い出は私達の記憶の中にしかない……私達が忘れたら、永遠に失われてしまうんだってね」
だから、と水無月ははめているパープルサファイアの指輪を撫でた。
「玉蟲匣でこの指輪を見つけた時、『これを華恋と結婚"していた"証にできないだろうか?』と考えた。華恋の好きなピンクと、私の好きな水色を混ぜ合わせた紫の宝石は、私達が結婚していた証として、この上なく相応しかったからね。その時は、『今の彼女には不要だろう』と買わなかったけど、一夜明けて思い直した。自己満足に思われようが渡したい、断られたら自分でつければいいって。そしたら彼女、すごく喜んでくれてね。『私も同じように思ってた』って、泣きながら受け取ってくれたんだ」
「涼馬ッ!」
扇は顔を真っ赤にし、ヒールで水無月のつま先をぐりぐりと踏む。
水無月は踏まれ慣れているのか、あるいはよほど丈夫な靴を履いているのか、「こらこら、足癖が悪いぞ」と涼しい顔で笑っていた。
「では、なぜ指輪をされているんです? 店主はもう片方の指輪は先に売れた、と言っておりましたが」
「その一方を、華恋がネットで購入していたんだよ。なんでも、私との結婚指輪の代わりに買って、密かに愛でていたらしい。私が指輪を渡したら、『代わりに私のをあげる』と譲ってくれたよ。まさか、式を挙げずに、指輪だけ交換することになるとは思わなかったなぁ」
水無月が桜花妖のポスターにサインをし終えると、二人はLAMPを後にした。
水無月は「何分でバレるかチャレンジ」と称し、変装せずに外へ出たが、ちょうど店に入ろうとしていた女子高生とばったり出くわし、黄色い悲鳴を上げられていた。
「ほら、見なさい。あの子達、絶対よそでも話すわよ。妙なウワサが広まっても知らないからね?」
「いいじゃないか。僕らは夢を売る仕事なんだ、好きなだけ踊らせてやればいい」
「……それもそうね」
扇も水無月の誘いに乗り、彼と腕を組んだ。顔を見合わせ、ニヤリと笑う。
別れてもなお、心で深く通じ合っている二人を見て、由良は少し羨ましくなった。
(秋編③『誰ソ彼刻の紫面楚歌(マジックアワー)』第五話へ続く)
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