155 / 314
春編③『緑涼やか、若竹の囁き』
第三話「忘却の嵐」⑷
しおりを挟む
車のドアを全開にし、由良は助手席、〈探し人〉の女性は後部座席に腰掛ける。どちらも田んぼに面した座席で、遠巻きに田んぼが見えた。
由良は大きな保冷バッグからメロンパンを二つ取り出し、女性に手渡した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
女性は大事そうに、両手でメロンパンを受け取る。メロンパンを目にした瞬間、暗かった瞳が期待で輝いた。
たまらず、一口食べる。皮が分厚くて中のクリームまで達しなかったのか、続け様に二口目を食べた。
今度はクリームにたどり着いたらしく、パッと表情が明るくなった。
「ん~っ!」
「美味しいですか?」
女性は何度も頷く。メロンパンがお気に召したらしい。
由良は女性の反応を見て、一安心した。メロンパンを食べ切るまではここを離れないだろう。
「紅茶もどうぞ。砂糖とミルクはお好みで入れてください」
紅茶を魔法瓶からコップへ注ぎ、女性が座っている席の肘掛けにあるジューススタンドへ差し込む。紅茶の華やかな香りが湯気と共に立ち上った。
女性は軽く会釈し、コップにシュガースティックを注いだ。使い捨てのマドラーで混ぜ、ひと口飲む。口をコップから離した瞬間、思わず「ほう」と息が漏れた。
「……美味しい。貴方のおっしゃった通り、メロンパンに合いますね」
「でしょう?」
由良も自分のコップに紅茶を注ぎ、口をつける。茶葉本来の旨味を楽しむため、まずは無糖で飲む。その次は砂糖を、最後はミルクを入れ、三つのパターンで紅茶を楽しむつもりだった。
メロンパンを二つに割り、生地とクリームを一緒に食べる。こうすることで皮だけを食べる、という悲劇を避けられるのだ。無糖の紅茶はさっぱりとしていて、メロンパンの甘味を爽やかにかき消してくれた。
「のどかな景色を眺めながら食べるオヤツは、格別ですね」
「えぇ」
二人は目の前に広がる田んぼを眺めながら、黙々とメロンパンを食べた。
女性は由良より一足早くメロンパンを食べ終わったが、田んぼを見つめたまま立ち去ろうとはしなかった。
「私、思い出しました。風が私の想いを攫ったんじゃない……嫌なことを忘れるまで、あの場所に留まっていただけだったんだって」
「どうしてそこまで必死に忘れようとしたんです?」
「帽子を失くして落ち込んでいた時、親から"まだそんなことで悩んでるの?"と責められたんです。それ以来、いつまでも嫌なことを気にするのは良くないことだと思い、必死に忘れようとしたんです」
由良は先程の風に当たっても平気だった。
風が特殊だったのではなく、彼女自らが忘れるよう努力していたのだ。
「会社の上司さんから褒められた時は、どうして忘れようとしたんですか? 褒められて嬉しかったんでしょう?」
女性は「その理由も思い出しました」と暗い面持ちで答えた。
「上司は褒めると同時に、ダメ出しもしてきたんです。そこで、"あぁ、本当はダメ出しがしたかったんだな"って冷めちゃったんです。上司はそんなつもりじゃなかったんでしょうけど、最初の褒め言葉も嘘のように思えて……ただダメ出しを言われるよりも辛かったです」
「分かる。褒めときゃ何でもいうこと聞くと思っているんですかね、あの人達」
由良は会社員時代の記憶がよぎり、深く頷いた。
「貴方はどうして覚えていられるんですか? 嫌な記憶なんでしょう?」
由良は「んー」と紅茶のお代わりを注ぎつつ、答えた。
「いずれその上司が平気な顔してうちの店に来た時に、全部暴露してやろうと思っているんですよ。友人に、優秀な記者がいましてね。失脚こそしないでしょうが、その上司が青ざめて慌てる姿が見られたら、少しは胸がスッとするなぁと目論んでいるのです。なので、忘れませんよ。絶対に」
「は、はぁ。たくましいですね」
由良は過去を嘆くどころか、うっすら笑みすら浮かべる。
女性は表情を引きつらせながらも、由良を羨ましがった。
「私もそれくらい思えるようになりたいです。忘れてしまったら何も残らないって、よく分かりましたから」
「せめて、そのメロンパンと紅茶の味は覚えていてくださいね。滅多に食べられないものなんですから、忘れたらもったいないですよ」
「えぇ、忘れません。今度は自分で買って食べようと思います」
女性は紅茶の残りを飲み干すと、「ありがとうございました」と由良に礼を言い、消えた。
彼女が〈心の落とし物〉を見つけて消えたのか、彼女の主が未練を忘れて消えたのか、由良には判断がつかない。しかし女性が最後に見せた笑顔は、風に舞い上がった時に見せた諦めの笑顔ではなく、希望に満ちた笑顔だった。
由良もメロンパンを食べ終えると、再び車を走らせ、帰路についた。田んぼを横目に、車道を走り抜ける。
しばらくは快調に走っていたが、分かれ道に差しかかったところで、頭の中が真っ白になった。どちらに曲がれば帰れるのか、ど忘れしたのだ。
「まさか、さっきの風の影響じゃ?」
最悪の事態が脳裏をよぎる。
慌てて、記憶を確認した。自分の名前、何処で何をしている人か、今日は何しに来たのか、好きな食べ物は何か、趣味は何か、好きな人はいるか……考えているうちに、帰り道を思い出した。
「……うん、大丈夫。私は何も奪われてないし、そんなことを望んでない。良い感情も悪い感情も、全部ひっくるめて思い出よ」
由良は帰り道の方向へと、ハンドルを切った。
(春編②『緑涼やか、若竹の囁き』第四話へ続く)
由良は大きな保冷バッグからメロンパンを二つ取り出し、女性に手渡した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
女性は大事そうに、両手でメロンパンを受け取る。メロンパンを目にした瞬間、暗かった瞳が期待で輝いた。
たまらず、一口食べる。皮が分厚くて中のクリームまで達しなかったのか、続け様に二口目を食べた。
今度はクリームにたどり着いたらしく、パッと表情が明るくなった。
「ん~っ!」
「美味しいですか?」
女性は何度も頷く。メロンパンがお気に召したらしい。
由良は女性の反応を見て、一安心した。メロンパンを食べ切るまではここを離れないだろう。
「紅茶もどうぞ。砂糖とミルクはお好みで入れてください」
紅茶を魔法瓶からコップへ注ぎ、女性が座っている席の肘掛けにあるジューススタンドへ差し込む。紅茶の華やかな香りが湯気と共に立ち上った。
女性は軽く会釈し、コップにシュガースティックを注いだ。使い捨てのマドラーで混ぜ、ひと口飲む。口をコップから離した瞬間、思わず「ほう」と息が漏れた。
「……美味しい。貴方のおっしゃった通り、メロンパンに合いますね」
「でしょう?」
由良も自分のコップに紅茶を注ぎ、口をつける。茶葉本来の旨味を楽しむため、まずは無糖で飲む。その次は砂糖を、最後はミルクを入れ、三つのパターンで紅茶を楽しむつもりだった。
メロンパンを二つに割り、生地とクリームを一緒に食べる。こうすることで皮だけを食べる、という悲劇を避けられるのだ。無糖の紅茶はさっぱりとしていて、メロンパンの甘味を爽やかにかき消してくれた。
「のどかな景色を眺めながら食べるオヤツは、格別ですね」
「えぇ」
二人は目の前に広がる田んぼを眺めながら、黙々とメロンパンを食べた。
女性は由良より一足早くメロンパンを食べ終わったが、田んぼを見つめたまま立ち去ろうとはしなかった。
「私、思い出しました。風が私の想いを攫ったんじゃない……嫌なことを忘れるまで、あの場所に留まっていただけだったんだって」
「どうしてそこまで必死に忘れようとしたんです?」
「帽子を失くして落ち込んでいた時、親から"まだそんなことで悩んでるの?"と責められたんです。それ以来、いつまでも嫌なことを気にするのは良くないことだと思い、必死に忘れようとしたんです」
由良は先程の風に当たっても平気だった。
風が特殊だったのではなく、彼女自らが忘れるよう努力していたのだ。
「会社の上司さんから褒められた時は、どうして忘れようとしたんですか? 褒められて嬉しかったんでしょう?」
女性は「その理由も思い出しました」と暗い面持ちで答えた。
「上司は褒めると同時に、ダメ出しもしてきたんです。そこで、"あぁ、本当はダメ出しがしたかったんだな"って冷めちゃったんです。上司はそんなつもりじゃなかったんでしょうけど、最初の褒め言葉も嘘のように思えて……ただダメ出しを言われるよりも辛かったです」
「分かる。褒めときゃ何でもいうこと聞くと思っているんですかね、あの人達」
由良は会社員時代の記憶がよぎり、深く頷いた。
「貴方はどうして覚えていられるんですか? 嫌な記憶なんでしょう?」
由良は「んー」と紅茶のお代わりを注ぎつつ、答えた。
「いずれその上司が平気な顔してうちの店に来た時に、全部暴露してやろうと思っているんですよ。友人に、優秀な記者がいましてね。失脚こそしないでしょうが、その上司が青ざめて慌てる姿が見られたら、少しは胸がスッとするなぁと目論んでいるのです。なので、忘れませんよ。絶対に」
「は、はぁ。たくましいですね」
由良は過去を嘆くどころか、うっすら笑みすら浮かべる。
女性は表情を引きつらせながらも、由良を羨ましがった。
「私もそれくらい思えるようになりたいです。忘れてしまったら何も残らないって、よく分かりましたから」
「せめて、そのメロンパンと紅茶の味は覚えていてくださいね。滅多に食べられないものなんですから、忘れたらもったいないですよ」
「えぇ、忘れません。今度は自分で買って食べようと思います」
女性は紅茶の残りを飲み干すと、「ありがとうございました」と由良に礼を言い、消えた。
彼女が〈心の落とし物〉を見つけて消えたのか、彼女の主が未練を忘れて消えたのか、由良には判断がつかない。しかし女性が最後に見せた笑顔は、風に舞い上がった時に見せた諦めの笑顔ではなく、希望に満ちた笑顔だった。
由良もメロンパンを食べ終えると、再び車を走らせ、帰路についた。田んぼを横目に、車道を走り抜ける。
しばらくは快調に走っていたが、分かれ道に差しかかったところで、頭の中が真っ白になった。どちらに曲がれば帰れるのか、ど忘れしたのだ。
「まさか、さっきの風の影響じゃ?」
最悪の事態が脳裏をよぎる。
慌てて、記憶を確認した。自分の名前、何処で何をしている人か、今日は何しに来たのか、好きな食べ物は何か、趣味は何か、好きな人はいるか……考えているうちに、帰り道を思い出した。
「……うん、大丈夫。私は何も奪われてないし、そんなことを望んでない。良い感情も悪い感情も、全部ひっくるめて思い出よ」
由良は帰り道の方向へと、ハンドルを切った。
(春編②『緑涼やか、若竹の囁き』第四話へ続く)
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
黒蜜先生のヤバい秘密
月狂 紫乃/月狂 四郎
ライト文芸
高校生の須藤語(すとう かたる)がいるクラスで、新任の教師が担当に就いた。新しい担任の名前は黒蜜凛(くろみつ りん)。アイドル並みの美貌を持つ彼女は、あっという間にクラスの人気者となる。
須藤はそんな黒蜜先生に小説を書いていることがバレてしまう。リアルの世界でファン第1号となった黒蜜先生。須藤は先生でありファンでもある彼女と、小説を介して良い関係を築きつつあった。
だが、その裏側で黒蜜先生の人気をよく思わない女子たちが、陰湿な嫌がらせをやりはじめる。解決策を模索する過程で、須藤は黒蜜先生のヤバい過去を知ることになる……。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
冬の水葬
束原ミヤコ
青春
夕霧七瀬(ユウギリナナセ)は、一つ年上の幼なじみ、凪蓮水(ナギハスミ)が好き。
凪が高校生になってから疎遠になってしまっていたけれど、ずっと好きだった。
高校一年生になった夕霧は、凪と同じ高校に通えることを楽しみにしていた。
美術部の凪を追いかけて美術部に入り、気安い幼なじみの間柄に戻ることができたと思っていた――
けれど、そのときにはすでに、凪の心には消えない傷ができてしまっていた。
ある女性に捕らわれた凪と、それを追いかける夕霧の、繰り返す冬の話。
アラサー独身の俺が義妹を預かることになった件~俺と義妹が本当の家族になるまで~
おとら@ 書籍発売中
ライト文芸
ある日、小さいながらも飲食店を経営する俺に連絡が入る。
従兄弟であり、俺の育ての親でもある兄貴から、転勤するから二人の娘を預かってくれと。
これは一度家族になることから逃げ出した男が、義妹と過ごしていくうちに、再び家族になるまでの軌跡である。
おにぎり屋さんの裏稼業 〜お祓い請け賜わります〜
瀬崎由美
キャラ文芸
高校2年生の八神美琴は、幼い頃に両親を亡くしてからは祖母の真知子と、親戚のツバキと一緒に暮らしている。
大学通りにある屋敷の片隅で営んでいるオニギリ屋さん『おにひめ』は、気まぐれの営業ながらも学生達に人気のお店だ。でも、真知子の本業は人ならざるものを対処するお祓い屋。霊やあやかしにまつわる相談に訪れて来る人が後を絶たない。
そんなある日、祓いの仕事から戻って来た真知子が家の中で倒れてしまう。加齢による力の限界を感じた祖母から、美琴は祓いの力の継承を受ける。と、美琴はこれまで視えなかったモノが視えるようになり……。
第8回キャラ文芸大賞にエントリー中です。
応援をよろしくお願いいたします。
せやさかい
武者走走九郎or大橋むつお
ライト文芸
父の失踪から七年、失踪宣告がなされて、田中さくらは母とともに母の旧姓になって母の実家のある堺の街にやってきた。母は戻ってきただが、さくらは「やってきた」だ。年に一度来るか来ないかのお祖父ちゃんの家は、今日から自分の家だ。
そして、まもなく中学一年生。
自慢のポニーテールを地味なヒッツメにし、口癖の「せやさかい」も封印して新しい生活が始まてしまった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる