心の落とし物

緋色刹那

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春編③『緑涼やか、若竹の囁き』

第三話「忘却の嵐」⑷

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 車のドアを全開にし、由良は助手席、〈探し人〉の女性は後部座席に腰掛ける。どちらも田んぼに面した座席で、遠巻きに田んぼが見えた。
 由良は大きな保冷バッグからメロンパンを二つ取り出し、女性に手渡した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 女性は大事そうに、両手でメロンパンを受け取る。メロンパンを目にした瞬間、暗かった瞳が期待で輝いた。
 たまらず、一口食べる。皮が分厚くて中のクリームまで達しなかったのか、続け様に二口目を食べた。
 今度はクリームにたどり着いたらしく、パッと表情が明るくなった。
「ん~っ!」
「美味しいですか?」
 女性は何度も頷く。メロンパンがお気に召したらしい。
 由良は女性の反応を見て、一安心した。メロンパンを食べ切るまではここを離れないだろう。
「紅茶もどうぞ。砂糖とミルクはお好みで入れてください」
 紅茶を魔法瓶からコップへ注ぎ、女性が座っている席の肘掛けにあるジューススタンドへ差し込む。紅茶の華やかな香りが湯気と共に立ち上った。
 女性は軽く会釈し、コップにシュガースティックを注いだ。使い捨てのマドラーで混ぜ、ひと口飲む。口をコップから離した瞬間、思わず「ほう」と息が漏れた。
「……美味しい。貴方のおっしゃった通り、メロンパンに合いますね」
「でしょう?」
 由良も自分のコップに紅茶を注ぎ、口をつける。茶葉本来の旨味を楽しむため、まずは無糖で飲む。その次は砂糖を、最後はミルクを入れ、三つのパターンで紅茶を楽しむつもりだった。
 メロンパンを二つに割り、生地とクリームを一緒に食べる。こうすることで皮だけを食べる、という悲劇を避けられるのだ。無糖の紅茶はさっぱりとしていて、メロンパンの甘味を爽やかにかき消してくれた。
「のどかな景色を眺めながら食べるオヤツは、格別ですね」
「えぇ」



 二人は目の前に広がる田んぼを眺めながら、黙々とメロンパンを食べた。
 女性は由良より一足早くメロンパンを食べ終わったが、田んぼを見つめたまま立ち去ろうとはしなかった。
「私、思い出しました。風が私の想いを攫ったんじゃない……嫌なことを忘れるまで、あの場所に留まっていただけだったんだって」
「どうしてそこまで必死に忘れようとしたんです?」
「帽子を失くして落ち込んでいた時、親から"まだそんなことで悩んでるの?"と責められたんです。それ以来、いつまでも嫌なことを気にするのは良くないことだと思い、必死に忘れようとしたんです」
 由良は先程の風に当たっても平気だった。
 風が特殊だったのではなく、彼女自らが忘れるよう努力していたのだ。
「会社の上司さんから褒められた時は、どうして忘れようとしたんですか? 褒められて嬉しかったんでしょう?」
 女性は「その理由も思い出しました」と暗い面持ちで答えた。
「上司は褒めると同時に、ダメ出しもしてきたんです。そこで、"あぁ、本当はダメ出しがしたかったんだな"って冷めちゃったんです。上司はそんなつもりじゃなかったんでしょうけど、最初の褒め言葉も嘘のように思えて……ただダメ出しを言われるよりも辛かったです」
「分かる。褒めときゃ何でもいうこと聞くと思っているんですかね、あの人達」
 由良は会社員時代の記憶がよぎり、深く頷いた。
「貴方はどうして覚えていられるんですか? 嫌な記憶なんでしょう?」
 由良は「んー」と紅茶のお代わりを注ぎつつ、答えた。
「いずれその上司が平気な顔してうちの店に来た時に、全部暴露してやろうと思っているんですよ。友人に、優秀な記者がいましてね。失脚こそしないでしょうが、その上司が青ざめて慌てる姿が見られたら、少しは胸がスッとするなぁと目論んでいるのです。なので、忘れませんよ。絶対に」
「は、はぁ。たくましいですね」
 由良は過去を嘆くどころか、うっすら笑みすら浮かべる。
 女性は表情を引きつらせながらも、由良を羨ましがった。
「私もそれくらい思えるようになりたいです。忘れてしまったら何も残らないって、よく分かりましたから」
「せめて、そのメロンパンと紅茶の味は覚えていてくださいね。滅多に食べられないものなんですから、忘れたらもったいないですよ」
「えぇ、忘れません。今度は自分で買って食べようと思います」
 女性は紅茶の残りを飲み干すと、「ありがとうございました」と由良に礼を言い、消えた。
 彼女が〈心の落とし物〉を見つけて消えたのか、彼女の主が未練を忘れて消えたのか、由良には判断がつかない。しかし女性が最後に見せた笑顔は、風に舞い上がった時に見せた諦めの笑顔ではなく、希望に満ちた笑顔だった。



 由良もメロンパンを食べ終えると、再び車を走らせ、帰路についた。田んぼを横目に、車道を走り抜ける。
 しばらくは快調に走っていたが、分かれ道に差しかかったところで、頭の中が真っ白になった。どちらに曲がれば帰れるのか、ど忘れしたのだ。
「まさか、さっきの風の影響じゃ?」
 最悪の事態が脳裏をよぎる。
 慌てて、記憶を確認した。自分の名前、何処で何をしている人か、今日は何しに来たのか、好きな食べ物は何か、趣味は何か、好きな人はいるか……考えているうちに、帰り道を思い出した。
「……うん、大丈夫。私は何も奪われてないし、そんなことを望んでない。良い感情も悪い感情も、全部ひっくるめて思い出よ」
 由良は帰り道の方向へと、ハンドルを切った。



(春編②『緑涼やか、若竹の囁き』第四話へ続く)
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