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春編③『緑涼やか、若竹の囁き』
第三話「忘却の嵐」⑵
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「想い?」
女性の言葉に、由良は訝しげに眉をひそめる。
女性は田んぼを見つめたまま頷いた。
「中学生の頃、好きな男の子がいました。思い切って告白しましたが、呆気なくフラれてしまいました。男の子は既に、私の友人と付き合っていたのです。友人は私の気持ちを知っていながら、そのことをずっと隠していました」
「それは……お気の毒に」
「構いません。今は二人のこと、なんとも思っていませんから」
女性はキッパリと言った。
強がりで言っているのではなく、本当になんとも思っていないようだった。言葉に一切の感情がこもっていない。
由良は不思議に思った。
(昔のこととはいえ、そこまで割り切れるものなのかしら?)
その答えを、女性は自ら話してくれた。
「二人の関係を知った帰り道、私はうっかりこの田んぼの横を通ってしまいました。帽子を攫われたトラウマで、いつもは避けて帰っていたのですが、あまりにもショックで頭が働いていませんでした。そのまま歩道を進み、田んぼの中頃まで来た時です。突然、車道の方から強い風が吹きつけてきました。そして風がやんだ頃には、男の子への未練や友人への怒りといった感情を、全て失っていたのです」
「無意識のうちに吹っ切れたのでは?」
「子供の頃に失くした帽子の行方を未だに気にしている私が、そんなすぐに吹っ切れるわけないですよ。少なくとも田んぼの横を通るまでは、明日から二人とどう接すればいいのか本気で悩んでいたんですから」
女性は自嘲気味に笑った。
帽子の件と言い、本来の彼女は嫌なことを引きずってしまうタイプなのかもしれない。
「それ以来、嫌なことがあると田んぼの横を通って帰るようになりました。友人と言い争い、絶交した日も、テストの点数が良くなかった日も、志望校に落ちた日も、何社も受けているのに内定がもらえない日も……あれだけ避けていたはずの道を、好んで通るようになったのです。風も私に応えるかのように、不安を取り除いてくれました」
でも、と女性は怯えた様子で自らの体を抱きしめ、震えた。
「仕事で上司から褒められた帰り道、うっかり田んぼの横を通ってしまったんです。滅多にないことだったので浮かれていたのでしょう。気づいた時には、田んぼの中頃まで来ていました。すぐに引き返そうとしましたが、風は待ってはくれませんでした」
大型トラックが背後の車道を騒々しく走り抜ける。
遅れて、ぬるい走行風が由良と女性に吹きつけた。風はすぐにやんだが、女性は短時間の風すらも恐ろしいようで悲鳴を上げていた。
「……風がやむと、心に満ちていた喜びはすっかり失っていました。ただ、"仕事を褒められた"という事実だけが、記録として心に残ったのです。その瞬間、私は帽子を飛ばされた時の恐怖が蘇り、戦慄しました。この場所の恐ろしさは誰よりも知っていたはずなのに……嫌なことを忘れられる便利な場所だなんて、一時でも思っていた自分が憎らしい」
女性は立ち上がり、田んぼに近づく。
街路樹の葉が先程の走行風で舞い、女性の体をすり抜けた。
「それ以来、私は奪われた感情を探し、さまよっています。でも……もう諦めることにしました」
直後、ひときわ強い風が二人を吹きつけた。
女性の体は風で舞い上がり、空に向かって飛ぶ。彼女はそれまでの陰鬱な表情とは違い、穏やかに微笑んでいた。
女性の言葉に、由良は訝しげに眉をひそめる。
女性は田んぼを見つめたまま頷いた。
「中学生の頃、好きな男の子がいました。思い切って告白しましたが、呆気なくフラれてしまいました。男の子は既に、私の友人と付き合っていたのです。友人は私の気持ちを知っていながら、そのことをずっと隠していました」
「それは……お気の毒に」
「構いません。今は二人のこと、なんとも思っていませんから」
女性はキッパリと言った。
強がりで言っているのではなく、本当になんとも思っていないようだった。言葉に一切の感情がこもっていない。
由良は不思議に思った。
(昔のこととはいえ、そこまで割り切れるものなのかしら?)
その答えを、女性は自ら話してくれた。
「二人の関係を知った帰り道、私はうっかりこの田んぼの横を通ってしまいました。帽子を攫われたトラウマで、いつもは避けて帰っていたのですが、あまりにもショックで頭が働いていませんでした。そのまま歩道を進み、田んぼの中頃まで来た時です。突然、車道の方から強い風が吹きつけてきました。そして風がやんだ頃には、男の子への未練や友人への怒りといった感情を、全て失っていたのです」
「無意識のうちに吹っ切れたのでは?」
「子供の頃に失くした帽子の行方を未だに気にしている私が、そんなすぐに吹っ切れるわけないですよ。少なくとも田んぼの横を通るまでは、明日から二人とどう接すればいいのか本気で悩んでいたんですから」
女性は自嘲気味に笑った。
帽子の件と言い、本来の彼女は嫌なことを引きずってしまうタイプなのかもしれない。
「それ以来、嫌なことがあると田んぼの横を通って帰るようになりました。友人と言い争い、絶交した日も、テストの点数が良くなかった日も、志望校に落ちた日も、何社も受けているのに内定がもらえない日も……あれだけ避けていたはずの道を、好んで通るようになったのです。風も私に応えるかのように、不安を取り除いてくれました」
でも、と女性は怯えた様子で自らの体を抱きしめ、震えた。
「仕事で上司から褒められた帰り道、うっかり田んぼの横を通ってしまったんです。滅多にないことだったので浮かれていたのでしょう。気づいた時には、田んぼの中頃まで来ていました。すぐに引き返そうとしましたが、風は待ってはくれませんでした」
大型トラックが背後の車道を騒々しく走り抜ける。
遅れて、ぬるい走行風が由良と女性に吹きつけた。風はすぐにやんだが、女性は短時間の風すらも恐ろしいようで悲鳴を上げていた。
「……風がやむと、心に満ちていた喜びはすっかり失っていました。ただ、"仕事を褒められた"という事実だけが、記録として心に残ったのです。その瞬間、私は帽子を飛ばされた時の恐怖が蘇り、戦慄しました。この場所の恐ろしさは誰よりも知っていたはずなのに……嫌なことを忘れられる便利な場所だなんて、一時でも思っていた自分が憎らしい」
女性は立ち上がり、田んぼに近づく。
街路樹の葉が先程の走行風で舞い、女性の体をすり抜けた。
「それ以来、私は奪われた感情を探し、さまよっています。でも……もう諦めることにしました」
直後、ひときわ強い風が二人を吹きつけた。
女性の体は風で舞い上がり、空に向かって飛ぶ。彼女はそれまでの陰鬱な表情とは違い、穏やかに微笑んでいた。
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