心の落とし物

緋色刹那

文字の大きさ
上 下
153 / 314
春編③『緑涼やか、若竹の囁き』

第三話「忘却の嵐」⑵

しおりを挟む
「想い?」
 女性の言葉に、由良は訝しげに眉をひそめる。
 女性は田んぼを見つめたまま頷いた。
「中学生の頃、好きな男の子がいました。思い切って告白しましたが、呆気なくフラれてしまいました。男の子は既に、私の友人と付き合っていたのです。友人は私の気持ちを知っていながら、そのことをずっと隠していました」
「それは……お気の毒に」
「構いません。今は二人のこと、なんとも思っていませんから」
 女性はキッパリと言った。
 強がりで言っているのではなく、本当になんとも思っていないようだった。言葉に一切の感情がこもっていない。
 由良は不思議に思った。
(昔のこととはいえ、そこまで割り切れるものなのかしら?)
 その答えを、女性は自ら話してくれた。
「二人の関係を知った帰り道、私はうっかりこの田んぼの横を通ってしまいました。帽子を攫われたトラウマで、いつもは避けて帰っていたのですが、あまりにもショックで頭が働いていませんでした。そのまま歩道を進み、田んぼの中頃まで来た時です。突然、車道の方から強い風が吹きつけてきました。そして風がやんだ頃には、男の子への未練や友人への怒りといった感情を、全て失っていたのです」
「無意識のうちに吹っ切れたのでは?」
「子供の頃に失くした帽子の行方を未だに気にしている私が、そんなすぐに吹っ切れるわけないですよ。少なくとも田んぼの横を通るまでは、明日から二人とどう接すればいいのか本気で悩んでいたんですから」
 女性は自嘲気味に笑った。
 帽子の件と言い、本来の彼女は嫌なことを引きずってしまうタイプなのかもしれない。
「それ以来、嫌なことがあると田んぼの横を通って帰るようになりました。友人と言い争い、絶交した日も、テストの点数が良くなかった日も、志望校に落ちた日も、何社も受けているのに内定がもらえない日も……あれだけ避けていたはずの道を、好んで通るようになったのです。風も私に応えるかのように、不安を取り除いてくれました」
 でも、と女性は怯えた様子で自らの体を抱きしめ、震えた。
「仕事で上司から褒められた帰り道、うっかり田んぼの横を通ってしまったんです。滅多にないことだったので浮かれていたのでしょう。気づいた時には、田んぼの中頃まで来ていました。すぐに引き返そうとしましたが、風は待ってはくれませんでした」
 大型トラックが背後の車道を騒々しく走り抜ける。
 遅れて、ぬるい走行風が由良と女性に吹きつけた。風はすぐにやんだが、女性は短時間の風すらも恐ろしいようで悲鳴を上げていた。
「……風がやむと、心に満ちていた喜びはすっかり失っていました。ただ、"仕事を褒められた"という事実だけが、記録として心に残ったのです。その瞬間、私は帽子を飛ばされた時の恐怖が蘇り、戦慄しました。この場所の恐ろしさは誰よりも知っていたはずなのに……嫌なことを忘れられる便利な場所だなんて、一時でも思っていた自分が憎らしい」
 女性は立ち上がり、田んぼに近づく。
 街路樹の葉が先程の走行風で舞い、女性の体をすり抜けた。
「それ以来、私は奪われた感情を探し、さまよっています。でも……もう諦めることにしました」
 直後、ひときわ強い風が二人を吹きつけた。
 女性の体は風で舞い上がり、空に向かって飛ぶ。彼女はそれまでの陰鬱な表情とは違い、穏やかに微笑んでいた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる

三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。 こんなはずじゃなかった! 異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。 珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に! やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活! 右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり! アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

妻への最後の手紙

中七七三
ライト文芸
生きることに疲れた夫が妻へ送った最後の手紙の話。

古屋さんバイト辞めるって

四宮 あか
ライト文芸
ライト文芸大賞で奨励賞いただきました~。 読んでくださりありがとうございました。 「古屋さんバイト辞めるって」  おしゃれで、明るくて、話しも面白くて、仕事もすぐに覚えた。これからバイトの中心人物にだんだんなっていくのかな? と思った古屋さんはバイトをやめるらしい。  学部は違うけれど同じ大学に通っているからって理由で、石井ミクは古屋さんにバイトを辞めないように説得してと店長に頼まれてしまった。  バイト先でちょろっとしか話したことがないのに、辞めないように説得を頼まれたことで困ってしまった私は……  こういう嫌なタイプが貴方の職場にもいることがあるのではないでしょうか? 表紙の画像はフリー素材サイトの https://activephotostyle.biz/さまからお借りしました。

貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。

黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。 この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。

処理中です...