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本編
32)やっぱり子守の悪魔じゃないか!
しおりを挟む翌朝、案の定ぱんぱんに腫れていたグレンのまぶたをささっと魔法で治し、元気になっていた股間も対処してやり、朝食を食べさせ、仕事服に着替えさせ寝癖を直し、執務室に送り出してからドーヴィはようやく一息ついた。これのどこがインキュバスだと言うのだろうか。
書類を読みながら政務官に指示を飛ばしているグレンを見つつ、ドーヴィはそっと執務室の隅で仁王立ちしている。ただ立っているように見えて、室内で交わされる会話を全て把握し、コサコレ男爵屋敷内で不穏な活動がないか魔法で常時チェックしているのが、クランストン宰相の護衛兼秘書官の仕事だ。
少しでもグレンの事を軽んじる発言があれば、こっそりと嫌がらせをするのも忘れない。例えば洗濯物が突然風に吹き飛ばされて泥まみれになるだとか。ドアノブが突然壊れ、部屋に閉じ込められるだとか。その他いろいろ。
……果たしてそれが本当に護衛兼秘書官の仕事なのかは謎だが、まあとにかく。
そうしてドーヴィが無表情でいるところに、マリアンヌがそっと近づいてきて声を掛ける。グレンは他の政務官との会話に夢中で気が付いていないようだ。
「ドーヴィ殿」
マリアンヌの呼びかけに小さく頷き、ドーヴィはマリアンヌの方へ向き直った。こうして内緒話のように話しかけてくるという事は、たいていがグレンに関することだ。
「何用だ」
短くドーヴィは応える。無愛想とも言える態度だが、ビジネスライクのやり取りを好むマリアンヌにはこの程度の短い返事で十分らしい。むしろ貴族夫人に対する大仰な挨拶をされるのは好きではないのだとか。
ドーヴィは平民だが、貴族であるマリアンヌよりも役職としては上の立場になる。幸いにしてまともな人間性を持つマリアンヌは、ドーヴィの事を平民だと言って侮った事はなかった。アンドリューも合わせて、グレンを支える会の良き仲間である。
「昨日の事、解決した様ね?」
「ああ。そっちのフォローも助かったぜ」
「ほんの少しアドバイスをしただけだから……今日の閣下の顔を見ていれば、憂いも無くなったとよくわかるわ」
そう言うマリアンヌは、いつもの厳しい仕事人間の顔とは打って変わって、ずいぶんと柔らかい表情でグレンの事を眺めていた。
「例の使用人二人については俺が昨日のうちに釘を差しておいた。ついでに他のやつらにも言っておけってな」
「そう、だから今日は朝から使用人が大人しいのね。……今のうちに、コサコレ男爵の使用人達への聞き取りも始めた方が良いかしら」
困ったように首を傾けるマリアンヌだが、その口調はどこか苛烈さを滲ませている。ドーヴィはそんな見た目以上に恐ろしさを抱えた女性を前に、肩を竦めるだけだった。
と、その時、書類を見ていたグレンが頭を抱えた後、顔を上げて室内をきょろきょろと見渡す。
「――マリアンヌ、は……」
「こちらにおります」
すぐに反応してマリアンヌが声を上げた。目的の人物を見つけたことでグレンは顔を明るくするが、マリアンヌがドーヴィと並び立っていたことで口がへの字に曲げられる。
それを見てドーヴィは思わず目を細めた。違う言葉で言えば「噴き出すのは何とか我慢したが、目で笑うのは我慢できなかった」である。
もちろん、それに気づいたグレンは頬を少しだけ赤くして、口をますますへの字に曲げてしまった。
「ドーヴィ殿。仕事中の閣下で遊ぶのはおやめください」
「……わかった」
ぴしゃり、とマリアンヌに叱られ、さすがのドーヴィも思わず背筋を伸ばして反応する。小気味良い気の強さだ。
呼ばれたマリアンヌはグレンの元へと行き、一緒になって書類を覗き込んでいる。そのうち、ペンを取り出して何やらメモを取り始めた。
(ありゃあ長くなるかね……)
そうっと遠くから魔法を使って中身を覗き込むと、どうやらコサコレ男爵が国に納めるべき税金を横領していた件について、らしい。横領額の全容はまだ不明だというのだから、どれほど杜撰な財務を行ってきたのだろう。そして、コサコレ男爵から税金を徴収するはずの税務担当も、恐らく男爵とはグルだと思われていた。
どこまで調査の手を伸ばすか、支払い能力はコサコレ男爵一族にあるのか、とグレンとマリアンヌは難しい顔をして話を続けている。
それを見つつ、ドーヴィは屋敷の見回りに出かける、と近くの政務官に言伝を頼んでから、部屋の外に出た。見回りと言えば聞こえはいいが要は使用人たちの監視だ。
昨日の件が早くも噂になっているのか、これまでドーヴィに対して熱い視線を送ってきた使用人達が、一斉に顔を背けてドーヴィの視界から1秒でも早く逃げ出そう、と足早に通り過ぎていく。
(俺だってそんな手当たり次第に殺すなんてこと、滅多にやらねえんだけどな)
やらないとは言い切らないドーヴィだ。理由があれば、やる。グレンにかかわる事なら、手当たり次第に人間を殺して回ることぐらいは余裕でする。やると言ったらやる。
代官としての役職を持ち、それなりに前公爵から重宝されていたからなのか、コサコレ男爵の屋敷で働く使用人の数はかなり多い。恐らく、タバフ男爵やクランストン辺境家で雇っていた使用人の数よりも多いだろう。
これら全ての聞き取りも行うとすれば、グレンの滞在はかなり長期間になるはずだ。王都に戻ったアンドリューが、別途人員を手配してくれる段取りは組んであるが……人員の到着から引継ぎ、その後の移動も考えればグレンが王都に戻るのはまだまだ先になりそうだ。
(やれやれ……)
屋敷の窓から見える青空を見上げて、ドーヴィは嘆息した。
☆☆☆
そして、時は経ち一か月後。ようやく、グレンは王都へ向かう馬車の中の人となることができた。
きりっとした顔で王都からアンドリューに派遣された騎士や各種事件に対して専門性の高い政務官達に別れの挨拶をし、馬車に乗り込んだクランストン宰相閣下。
……今は砂浜に打ち上げられたクラゲのごとく、ぐんにゃりと座席に体を投げ出していた。
「いやーひたすらに疲れる一ヵ月だったな、グレン」
「ああ……筆舌に尽くしがたい……虚無だった……」
ぐにゃぐにゃしているのは見た目だけで、まだ頭の方は宰相モードから切り替えられていないらしい。そんな契約主を見て、ドーヴィは苦笑を零す。
グレンが虚無、と表現したのも全くもってその通り。男爵一人の悪事であるはずなのに掘れば掘るほど次から次へと多種多様な悪事が湧いてくる。最初の内こそ「それもか!?」と驚いていたグレンだったが、後半は報告が上がってきても無表情で受け流すまでになるほどだ。
「……コサコレ男爵が極端に酷いだけで、他はまだマシだと信じたい」
「無理じゃねえかなぁ」
「ぐっ……」
喉に何かを詰まらせたような、妙な呻き声とともにグレンは改めて馬車の座席シートに沈み込んだ。ひっそりドーヴィが改造していたふわふわで馬車の揺れを完全に吸収するグレン専用特別シートである。
ドーヴィがそんなグレンの頭を撫でていると、すっかり軟体動物になったグレンがずりずりと移動して、ドーヴィの太ももへ頭突きをした。ドーヴィはその様子に思わず笑い声をあげつつも、グレンをひょいと抱きあげて自らの膝に乗せた。
馬車の移動はドーヴィの膝の上、そういう習慣がついてしまったのかもしれない。それはそれで可愛いので、ドーヴィは特に指摘せず放置しておくことにする。
「王都に戻ったら、アルチェロ陛下とすぐに面会をして……アンドリューと合流したら、新しい視察計画を立てて……」
「しばらくは忙しくなるな」
「うむ。証拠隠滅を図ったコサコレ男爵のように、時間をおけばおくほど証拠も葬られてしまう。その前に片を付けたいところだ」
背中を撫で、腕の中でぐにゃぐにゃしているグレンの口元に辺境の料理長が腕によりをかけて作ったミニパイを差し出す。だらしない姿でぼんやりとミニパイを食べるグレンの口元からは、さくさくのパイ生地がぽろぽろと零れた。それをドーヴィは魔法でささっと掃除する。
「……」
「お、なんだ? お前もこの魔法使ってみたいか?」
「…………うん」
「はっはっは、残念だがこの魔法は人間にはちょいと無理だな」
「むぅ……ドーヴィのケチ」
ミニパイのおいしさのおかげなのか、グレンはすぽんと音を立てたように宰相モードを抜けて普通の少年に……いや、普通と言うには甘えん坊すぎるかもしれないが、とにかく少年モードに戻った。そのことに、ドーヴィは人知れずほっと安堵の息を吐く。
この一ヵ月、ちょくちょく夜のうちに息抜きをさせてはいたが、それもできないほどにグレンの方がぐったりと寝込むことも多かった。さらには、魘されることもあれば発熱することも……。
いずれも「部下には見せられない」という契約主たっての願いもあり、朝までにはドーヴィがすべて対応を済ませていた。つまり、この一ヵ月の間でグレンはかなり薬と悪魔の魔法のお世話になっていたのだ。それは信頼のおけるマリアンヌも知らぬこと。
「王都に戻って、ある程度調整を付けたら……さすがに、一度辺境に戻って休んだ方がいいぞ、グレン」
「む、しかし……」
「これ以上の無理はだめだ。体に悪すぎる」
珍しく、ドーヴィは強い口調でグレンを窘めた。拗ねたようにグレンの唇が尖る。
納得しないグレンを強制的に納得させるために、ドーヴィは奥の手を出すことにした。
「あー……体に悪いっつーか、どっちかと言えば魔力回路の方な。しばらくマルコ司教にも診てもらってねえし、俺から見てもかなり乱れている。ここ最近、魔力漏れが発生する頻度も上がってるだろ?」
「た、確かに……そう言われてみれば……」
「お前の魔力漏れは普通の人間にとってそばにいるだけでかなり辛いレベルだ。それも考えて、冗談抜きで一度辺境でゆっくりした方がいい。ケガ人が出てからじゃ、遅いぞ」
真面目な顔でドーヴィはそう言った。グレンからしてみれば、「ちょっと漏れてる」ぐらいの感覚だろうが、今やグレンは人外の魔力量を誇っている。ケガ人が出る前にドーヴィが止めていたから、グレンは気づかなかったが……肌を突き刺す痛みに顔を顰めていた人間が何人かいたのは事実だ。
「そうか……そうだな、確かにマルコ司教の診察を受けた方が良さそうだ」
「ああ。アルチェロとも各領の一斉視察は伯爵達にやらせる方向にまとまっているんだろ?」
ドーヴィの言葉に、グレンは頷いた。
転移が簡単にできるドーヴィのおかげで、遠く離れた場所でも王であるアルチェロと宰相であるグレンは緊密な連絡が取れていた。これはこのクラスティエーロ王国最大の強みと言っても良いだろう。
「……伯爵達が視察をしている間に、僕は体を休める」
「そうだ。そして結果が出そろってから、お前が職場に復帰して内容を確認すればいい」
「なるほど……」
「お前の体の状態もアルチェロには伝えてある。後はお前がこの案を飲めば、アルチェロがいいように取り計らってくれるさ」
しばらく難しい顔をしていたが、グレンは大きく息を吐いた。
「休むことも大切、か。このような時期に職務を離れるのも皆に苦労を掛けるが……魔力漏出でケガ人を出すのも、僕の本意ではないし、それもまた迷惑だろう。……しばらく、辺境で大人しくしている事にする」
「それがいい」
ようやく、提案を飲んでくれたグレンを改めて労うようにドーヴィは頭をぽんぽんと軽く叩いた。ドーヴィにぎゅうとしがみついたグレンが、顔を見上げる。
「辺境に戻ったら……新しい魔法を覚えたいのだが」
「っは、お前、それが最初にやりたいことかよ……本当に魔法バカだな」
「バカとは失礼な!」
むっとしたグレンがドーヴィの頬に手を伸ばして薄い頬肉を摘まむ。おいやめろ、とドーヴィは笑いながら、グレンの願い通りに人間が使っても問題なく、グレンが喜びそうな魔法を考えるのだった。
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というわけで長かった視察編も終わり、そろそろ辺境休暇編に入ると思いますたぶん
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