英雄の帰還。その後に

亜桜黄身

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3(完結)

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目が覚めたら一人だった。事に及んだのは朝のことだったのに、部屋へと差し込む日が既に傾き始めていることに気づき呆然とする。
あれから何度か失神のような眠りと突き動かされる衝撃での覚醒を繰り返し、最後には揺さぶられようと完全に起きなくなったところでようやくイーサンは動くのをやめたらしい。

「痛え……」

普段ですら寝心地の良くない寝台から痛む全身を引き摺り出ると、食卓の上に紙が置かれているのが目に付いた。あの折り方は燃やしてしまったイーサンの手紙と同じ折り方だ。

置き手紙の中身はなんてことない。俺の望んだ通りの内容だった。
今から首都に向かうこと。お姫様に会ってくること。彼女に、俺との約束を話すのだと。

「馬鹿だな……お姫様はとっくに知ってる」

それどころか、先にこの話を持ち出したのはお姫様だ。彼女の計画ではその後イーサンの人生に関わることなくひっそりと姿を消す算段となっているが。
俺を村から追い出すのは勿論イーサンの出自を隠す為のものではあるが、結局のところ強かな女が俺を牽制するために打った手と言って過言ではない。

5年前。あの頃の俺たちは従兄弟でしかなかった。少なくとも俺はイーサンのことをそうとしか認識していなかったからだ。
自分がイーサンのことをそういう意味で好きだと認識したのは、彼と離れて数年経ってのことだった。あれだけ別れを惜しんだくせに手紙の一つも寄越さない薄情な従兄弟に悪態を吐くのも落ち着いた頃、隣町まで出稼ぎに行っていた村人がとある話を俺の耳まで届けた。
それが今や誰もが知る、勇者と姫の恋物語。
その中のイーサンは勿論脚色されていただろうが、それでも様子を知ることはできた。軽い気持ちで送り出したわけではなかったが、どれほど大変な旅路だったのか、人伝に聞く物語でしか窺い知ることができなかった。だから以来、どんな些細な物語も聞いて回ったものだ。

吟遊詩人の誦んじる物語の中に、一つ俺のとっておきのお気に入りがある。
とある町を訪れたイーサンが孤児の兄弟に手を差し伸べたというものだ。俺はその兄弟に自分たちを重ね、イーサンもそうであっただろうと当然のように考えた。
勿論イーサンが辺鄙な村の孤児であるという事実を隠す為、物語の中で詳しいイーサンの胸中は語られない。ただ可哀想な子供たちを憐れんで助けただけだ。聞くところによればもっとインパクトのある、例えばドラゴンを倒す話や迷宮の最奥に眠っていたエルフのお姫様を助けた話のほうが人気らしい。

『勇者様が初めてご自身のことを語ったわ。そのあとに続いた話は全て貴方のことでしたが。』

ある日来訪者が俺に届けた手紙は、そう書き出されていた。
手紙は封蝋に王家の紋様が使われており、身内より先に届いた面識のない高貴なお方からの手紙は俺を動揺させるには十分だった。そのときお姫様の遣いがどんな話をしていたのか、正直なところよく覚えていない。
ただ物語に聞くほどお姫様は穏やかで優しいだけの人物ではないこと、思うほどイーサンは他の仲間と打ち解けていないことをぼんやりと理解した。
そして覚えているのはイーサンが俺に会いたいとこぼしたこと、それにお姫様がひどく腹を立てているということだった。

──お姫様の寵愛も勇者としての名声と地位も、その全てが彼の中では俺より価値がないものなのか。

それに気づいた瞬間、自覚した優越感と思慕の情。

「……嫌な記憶」

あのとき感じた優越感は自分自身をひどく失望させた。だから記憶に蓋をしたのだ。
たとえイーサンが俺のことを好きじゃなくても俺は彼を好きなのか、イーサンが俺を好きだからそう思ってしまったのか。イーサンが取るに足らない人間なら、俺は彼を好きにならなかったのか。その答えを出すのが怖かったから。

俺が感じていいのは彼らに対する罪悪感だけだ。
イーサンが命懸けで戦争に参加しているとき、俺は安全な家の中にいた。たとえそれが俺たち孤児を疎む村の隅に建てられたボロ小屋の、薄汚れたシーツに包まれた中だとしても。それは彼の過ごした日々よりもずっと命の危険がない場所だった。

『毎晩呪うように貴方の名前を呼んでいるの。彼は貴方を憎んでいるのかもしれない。』

今や俺よりもイーサンの傍らに連れ添う彼女が発した手紙の言葉は、俺の心に深く刺さった。
俺はイーサンに嫌われるのが怖い。彼は唯一俺を必要としてくれる家族だ。俺が誰よりも信頼して必要とする彼が俺を拒んだら、疎み憎み嫌ったら。考えるだけで残りの人生を諦めるには十分なほどの絶望を与えた。
たとえ今は杞憂のものでも、愛は永遠じゃない。イーサンが結婚して子供が生まれ、そうして彼の腕に抱かれる家族がたった一人の従兄弟から妻子に変わったとき、誰にも必要とされなくなった俺はどうすればいい。

「今のうちに、出て行かないと」

けれど足が動かない。手紙を手にしたままぼんやりと立ち尽くしていると、外から馬の嘶きが聞こえた。
何か問題があってイーサンが戻って来たか、招かれざる客の来訪か。どうか前者であってほしい。そう思う俺を嘲笑うかのように無情にも、外から俺を呼ぶ声は違う男のものだった。渋々扉を開けると、挨拶もなしに押し入るように土足で上がり用件を切り出す。

「勇者様がこちらに向かわれたそうだな」
「もう出て行った。入れ違ったんじゃないのか?」
「匿ってもどうせすぐ知れることだぞ」

相手と同じく俺も遠慮のない口調で「なら探してみたらどうだ? 見ての通り、この家じゃ隠れる場所もないが」と言い返せば、忌々しげに顔を歪めるのが見えた。
お互い顔を知らない仲ではない。彼はお姫様の信頼する側近らしく、ここ数年何度も俺の所へお姫様の手紙を届けに来た使者だ。とはいえ、無遠慮な態度は親しさの表れではなく互いの悪感情がそうさせるものではあるが。

「相変わらず口だけは威勢がいいな」
「そっちこそ今日はよく喋るな? 遊びに来たのか?」

用事が済んだならもう帰れよと言外に責めると、彼はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「王女様からの伝言だ。貴族らしい言い回しでは平民のお前に通じないだろうからそれらしく意訳してやるが、早い話が早くここを去れと」
「……言われなくても」
「はっ、結局金を受け取ったお前にはそうするしかないからな」
「殴られた治療費と壊された家を弁償するためのものじゃないとわかってたら突き返してた」
「だろうな。だが受け取った事実は変わらない」

王女様は嫌なくらい頭の回る女だった。それも5年にわたる旅路を続けたせいか、王族らしからぬごろつきじみた発想で俺に金を受け取らせたのだ。

「今だから言ってやるが、俺はお前のことを買ってるんだ。15、6だった子供が騎士であり大人の俺に殴られた上に怯まず、その直後何の躊躇いもなく掴んだ瓶で殴り返そうとしたところとかな」
「その割には即押さえつけられて捻挫した覚えしかない」
「跳ねっ返りで軽率なガキだということは否めないが、その根性は認めている」
「何が言いたい?」

眉間に皺を寄せて睨みつけると、男が目を伏せた。ばつの悪そうな表情でしばらく唸り、やがて意を決したように顔を上げる。

「俺のところに来ないか?」
「はあ?」
「どちみち王女様からは監視を任されている。だったら最初から目の届く範囲にいてくれたほうが管理しやすい」
「それはお前の都合だろ。俺の知ったことじゃない」
「……俺は良識のある大人だし、お前はこの家から出れば外の世界を何も知らないだろう。いくら命令とはいえ、そのまま外に放り出すのは気が進まない。あくまで勇者様に近づけなければ問題ないし、手を貸すこと自体は命令にも背かないしな」
「本当に良識のある大人ならそもそも追い出したりしない。急にいい人ぶるなよ、白々しい」

据わった目で見上げれば、目前の男は僅かにたじろいだ。その口がもう一度開きかけたそのとき、玄関の扉を叩く音が響いた。

「……?」

トントン、トントンと控えめで規則的な音。それが徐々に大きくなる。

「おい、何年もここに足を運んでるが、この家に人が訪ねてくるのは初めてだぞ。誰が呼んだのか?」
「呼んでない……」

俺の強張った表情と同じく固い声色に何かを感じ取ったのか、男が「俺の背後に隠れてろ」と庇う。邪魔にならないよう身一つ分距離を置き、促されるまま男の陰から玄関扉を睨みつける。
扉に拳を叩きつける音はもはや暴力と呼べるものに変わっていた。

「誰だ!」

男の短く鋭い声が響いた直後、一際激しい音と風圧に身体を圧される。扉が蹴破られたのだ。それがわかるのとほとんど時を同じくして、何かが床に叩きつけられる音と男の呻き声が聞こえた。思わず上げそうになる悲鳴を飲み込み目を凝らす。視界に映る金色のあれは──

「……イーサン?」
「無事かヨハネスッ!?」

目立つ金髪は言うまでもなくイーサンのものだった。床でうつ伏せに倒れた男を上から押さえつけ、手には短刀まで持っている。男は捕まれた手首を背後に回され、肩を押さえつけられて動けそうにない。

「と、とにかく離せイーサン! 誤解だ、その人は……」
「ああ、俺から君を奪い去ろうとした不届き者だな?」

イーサンが肩を押さえつける力を強めた。悲鳴を押し殺したうめき声がきつく結んだ口の端から漏れる。

「ゆ、勇者様……そいつの言う通りだ、俺は王女様の……」
「彼女はヨハネスの護衛を頼んでいてくれたそうだな。お陰で俺が不在の間、彼に無体を強いる人間が近づかなかったことは感謝している。だが、」

短刀の刃が徐々に皮膚へと押し付けられる。一線の筋を描きぷつりと切れたそこから赤い鮮血が垂れた。

「それ以上のことを俺は望んでいないし、近づくことも許可していない」
「……ッ」
「やめろイーサンッ!」

俺の制止の声が届いたのか、短刀を押す手はそれ以上動かなかった。しかし下げられもしない。

「君は幸運だ。城で彼女の側に控えていたのならこんなところで油を売る暇なんてできなかっただろう。城は今頃大盛り上がりだ」
「ッ、王女様に何をした?」
「なに、ヨハネスに渡して嫌がられた土産を王女様に渡してあげただけだ。城まで近道をするため直線距離で魔族の土地を突っ切ったせいか、随分後ろから追ってくる輩が多かったが」

俺が嫌がる土産。その言葉にハッとして周囲を見渡す。無い。こいつに手渡された魔王の首。

「お前、わざと魔族を集めて城に行ったな……!?」

討ち取った敵将の首を晒して自分たちの土地を突っ走る人間。元より魔族は人間より好戦的だと言われている。士気を上げるには十分だ。
男の悲鳴じみた叫びににこりと笑いかけ、イーサンはようやくその場に立ち上がった。すぐにうつ伏せになっていた男も立ち上がり駆け出す。

「王女様ッ!」

蒼白の男が家を出たあとすぐに馬の嘶きが聞こえ、やがて蹄の音が遠のいていった。
嵐が過ぎたあとのように、静寂が支配した部屋で詰めていた息を吐き出す。

「言っておくが、本当に危ない相手なら俺が始末をつけてきた。それに彼女もただ守られるだけの人ではない」
「何のフォローにもならないだろ! 何考えてんだ本当……ッ!」

城に攻め入ったということは、王都では多くの人がそれを見たということだ。城のみならず城下の被害も少なくないだろう。そして今や時の人となった勇者様の顔を知らない人のほうが少ない。
呆然とする俺を宥めるように、イーサンが肩をさする。

「どうして怒るんだ? 俺は彼女との結婚に相応しい人間でないと知らしめたに過ぎない」
「だからって無関係の人を巻き込むような真似をするなんて……!」
「先に君を巻き込んだのは彼女のほうだった」

肩に置かれた手に力が込めれた。指が肩に食い込むのを感じて顔を歪める。
イーサンの顔を見上げられなかった。耳元で囁かれる彼の声がひどく低く、冷たかったから。

「正しいつもりで剣を振るっていない。正しくありたいと思ったこともない。ただ君を守る手段がそれだっただけだ」

吐かれた息が耳輪を掠め、心臓がうるさく鳴り出す。

「答えてくれヨハネス。君の目に映る俺は、英雄と呼ばれる男か? 或いは勇者と予言を受けた若者? 聖剣に選ばれた最高の剣士なのか?」

答えてくれと言ったくせに、返事は求められなかった。むしろ俺が答えるのを阻むように肩に食い込む指が首へと流れ、顎を伝い唇に辿り着く。
少しの間を置き、場に沈黙が落ちる。静寂を作ったのはイーサンで、それを裂いたのもまた彼だった。

「俺はもう、君の目に何者でもないイーサンとして映らないのか?」

それは市井に伝わる恋物語では決して語られない勇者の本心。ただの男が秘めた感情の吐露。

俺たちは長く離れ過ぎていた。言いたいことも聞きたいことも相手の耳に届けることができずにいた。そんなイーサンの心の内に、初めて触れている。

「英雄と呼ばれなくていいのか? 勇者と持て囃されることに未練はないのか?」
「どうしてそれが良いことだと思える? 君が名前を呼んでくれないのならそんなものに価値など無い」
「俺はイーサンに何もしてやれない。何もあげられない。……貰ってばかりの関係じゃ、対等ではないだろ。俺はずっと、お前に」

その先を口にするのが怖くなり言葉に詰まる。だが、イーサンも心の内を打ち明けてくれた。俺もそれに応えなければフェアではないだろう。
「教えてくれ」とイーサンが耳元で囁く。

「お前に、必要とされなくなるのが怖かった。俺の隣にいたイーサンはもうどこにも居なくて、居るのはお姫様と幸せになるはずの英雄様だ。その幸せを俺は邪魔することしかできない」
「俺は君を愛してる。君が俺を守ってくれたように、俺も君を守れる人間になりたかった。だが、対等と呼べないことがヨハネスの重みになると考えもしなかった」
「……ありがとう。俺もお前を愛してる」
「地位も栄誉も、君の為に得たものが邪魔になるとわかっていたら、君のそばで人類が滅ぶのを待っていてもよかったんだ」

背中に熱を感じる。イーサンが腕の中へ俺を強く抱き締めたからだ。

「ヨハネス。君には申し訳ないことをしたと思ってる。それでも俺は、君を手放してやれない」
「謝るなよ、俺も謝らない」

どうか世界が終わってしまえばいいのに。今すぐに、跡形もなく、何も残さず。
次はお前を英雄と呼ばない世界で、隣で笑っていたい。
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