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本編後番外

『梅雨』

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「うええ……雨じゃん……」

6月といえば梅雨入りの時期である。日本人として17年も生きていてすっかり忘れていた。俺にとって6月といえば紫陽花が綺麗な季節だ。そんなことを思い出すのは、多分俺がよそ見ばかりして歩いているからだろう。人の家の花壇とか、走ってる車のナンバーとか、そういうのを意味もなく見てしまう。なにせ昔から人と行動するのが好きじゃない。一人で行動ばかりしていたから、自ずと視線は前か横にしか向かなかったのだ。
それが最近は変わりつつある。

「あれ、まさか雪さん傘持ってないんですか? 天気予報で夕方から100%でしたよ」
「俺が朝から天気予報見るくらい元気あるように見えるか」
「元気がなくてもそれくらい確認しましょうよ」

歳下の恋人である朝凪は苦笑いをして俺の肩を抱き寄せた。自分の傘に入れてくれるらしい。
朝と夕方、特に用事もないのに待ち合わせをして隣を歩く。手を繋いだり別れ際にキスをしたり、そういう行為は一切ない。ただ並んで歩いて会話をするだけだ。俺はあまり人と喋るのが好きじゃないから、朝凪が黙れば会話は止まってしまう。だが、そんな時々訪れる長めの沈黙も居心地が悪いと感じたことはなかった。
今も傘に入れてもらったあと、俺が礼を言って朝凪が相槌を打った。それから10分ほど沈黙が保たれている。このペースで歩けば、駅の改札を抜けるまで残り5分もないだろう。
ちらりと横に視線を向ける。目が合ったので慌てて逸らした。こいつ、いつから俺のこと見てたんだろう。もう一度目を向けると、顔の向こうにある濡れた肩が目に入った。

「……朝凪、肩濡れてね? もっと寄れば。つか俺が持つよ」
「いいですよ、俺のが背高いですし」
「そこまで変わんねえよ喧嘩売ってんのか」
「身長低いは悪口じゃないと思うんですけどね、脚が短いと言うなら悪口ですけど」

男子高生を相手に身長が低いも悪口だと思う。
そこまで変わらないと言ったが、近くに立つと目測で10センチは違う。俺は自分の身長が平均より少し低いことを知ってるし、朝凪は少し高い。わかってはいるが、見栄でも意地というものがある。

「傘貸せよ」
「わっ、急に動くと濡れますよ」
「冷てっ」

朝凪の警告も虚しく、傾いた傘からボタボタと大粒の雨滴が落ちた。衣替えをしたばかりだった夏服のワイシャツがじっとり肩にはりつく。

「あーあー」
「少しあそこの軒下で雨宿りさせてもらいましょう」
「いいよ、それよか早く帰りてえ……」
「多分ですけど、早く拭かないと被害広がりますから」

げんなりとした俺以上にやってしまったという顔をした朝凪が、シャッターの降りた店先を指差した。早く帰りたかったが、傘を持ったままの彼が歩き始めてしまったので大人しくついて行く。

「雪さんって結構、ぼんやりしてますよね。あと人との間合いが普通に下手。普段並んで歩いてても肩とかぶつかりますし」
「すごいdisるじゃん」

付き合ってみるとわかるが、こいつは案外口に容赦がない。女と見間違うたおやかな振る舞いと顔立ちに似合わず中身は男だ。そういう周りからの評価が鬱陶しいらしいから、俺が口に出して言えば嫌がるだろうけど。

「俺人と行動すんの昔から無理なんだよね。だから慣れてないんじゃね」
「……いじめられてたんですか?」
「や、自業自得っつーか、そもそもいじめってほどじゃない。強いて言うなら空気感?」

嘘じゃない。大抵のことは誰にでも訊けば返事が返ってくる。簡単にまとめると、雑談はしないけど会話はする関係だろうか。
うちのクラスは42人だから二人組を作っても三人組を作っても六人組を作っても余らないし、運悪く誰か休んで奇数になったときにも俺が余るか田中くんが余るかの確率は大体半々だ。ちなみに田中くんとは俺が「二人組作って」と言われたときにだけ会話をするクラスメイトである。多分向こうも俺のことそう思ってる。
そんなことを言うと、的を得てない回答だったのか朝凪は呆れた目でこちらを見ていた。

「雪さんの教室の雰囲気から察してはいましたけど……」
「いじめられてないって言ってんだろ。何でうちの親と似たような反応すんの?」

「あんたは昔っから協調性がないって通信簿に書かれてた」とは母親の弁である。実際確認すると本当に書かれてた。
昔から集団行動が苦手だった。皆で集まって登校するのも、短い休み時間に外へ出てボールを投げ合ったりするのも。昔は楽しくないけど取り敢えずやっておく程度の意識はあったのに、今ではそれが薄れてギリギリ最低ラインの協調性しか発揮しなくなっただけだ。

「言っとくけど、もしあんたがここでもっと人と仲良くしましょうとか言うなら、俺たちの関係終わりだから」
「そこまで言います?」
「朝凪、仮に今俺があんたは女顔なのも顔と性格が合ってないのも事実なんだから少しは顔に合わせた性格に矯正しろよって言ったらどうよ?」
「……嫌ですね。すみません、俺が軽率でした」

朝凪は素直に謝りながら俺の濡れた肩にハンドタオルを当てた。布地自体が少しだけ湿って感じる。飾り気のない黒地のハンドタオルは彼の普段使いの物だからだろう。彼の使っている香水の匂いが移ったのか、ほのかにサンダルウッドの香りがした。
また俺が短く礼を言って、場に沈黙が落ちる。相変わらず保たれた沈黙を破るのは朝凪の役割だった。

「俺、梅雨って結構好きなんですよね」
「雨ばっかで鬱陶しくねえ?」
「湿気とかは嫌なんですけど、雨の日は……傘持って歩く日は、通りすがりに顔じろじろ見られなくて済むので」

初めて付き合った日の朝を思い出した。朝凪は駅のホームに紛れ込んだ野良猫か何かのように遠巻きに視線を掻っ攫っていたし、誰も彼に話しかけようとはしなかった。それが慣れているという顔をしていたし、事実そうなのだろう。

「嫌なことを強制する真似はしません。というより、俺が嫌なことは絶対好きな人にもしないって決めてたんですけどね。すみませんでした」
「そんな何度も謝んなよ」

俺と朝凪は付き合った直後に色々あって、そのとき彼の一生分の謝罪を受けている。
居心地が悪くなって身を捩らせると、逸らした顔の両頬を固定された。顔が上を向く。一瞬、唇と唇が引っ付いて離れた。

「……避けられると思ったんですけど」
「別に避ける必要ないだろ。けど事前言えよ、あと場所考えろ。ここ通学路」

力任せにされたわけではない。ただ俺が抵抗しなかっただけだ。それが意外だったのか、朝凪の顔は元より丸い瞳を更に丸くして口が幼げに半開きになっていた。正直、本当に女にしか見えない。俺より頭の位置が高いけど。

「機嫌なおった?」
「キスで機嫌が直ると思って受け入れたんですか?」
「違うのかよ」

むっとした顔をしている。だが、少し考えたあと「そうだとしたらもっとさせてくれますか?」と来た。結構現金なやつだ。

「朝凪がやりたいならすりゃいいよ。でも言っとくけど俺からはやんないからな」

別に誰が相手でも許す訳ではない。これでも俺は朝凪のことが好きだ。じゃなきゃ毎日、毎時間纏わり付かれるような人付き合いには耐えられない。好きでもないなら一緒にいるわけないだろ。
でもこいつは、俺が朝凪の顔しか好きじゃないと思ってそうだと度々思う。そもそも朝凪が顔にしか自信を持ってないせいかもしれないし、その評価自体今まで周りが顔ばっか褒めてたせいかもしれない。しかも、俺が顔を好きなのは事実だから、強く否定もできないけれど。

「そろそろ帰るか」

傘を広げた朝凪の手に自分の手を重ねた。ほっそりとしているのに自分の手より大きくて、滑らかなのに少し骨を感じる。顔は女みたいだけど、部分的に切り取って見ればどこもかしこも明らかな男だ。
俺が朝凪のこと、女みたいだから好きなわけじゃないって早く気付けばいいのに。
頬を染めてうっとりとした横顔を見ながら、そう思った。
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