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本編後番外
『プレゼント』
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地方領主に娶られた元奴隷の朝は相変わらず早い。誰に言われずとも主人より遅く寝て先に起きる。根底に奴隷根性の根付いているアドルフにはわけないことだが、リチャードはそれが心配でたまらない。
「アドルフ、お前に休暇をやる」
善意から来るその言葉を聞いたとき、従者だった男は手に持っていたフォークを床に落とした。
「わた、わたしはお暇に出されるのですか……」
常ならば追いすがる真似はしない。そうしてはいけないと躾けられているからだ。だが、自分でも我慢ならない感情に支配されて口から勝手に声が出た。アドルフは平生ならば失態と呼べるその態度に気付く余裕すらなく、わなわなと震えている。床のフォークはリチャードの側仕えが拾ってくれた。
「旦那様、誤解がありますよ。こいつが死にそうです」
リチャードの側仕え──アドルフが雇われるまでの間、そしてリチャードの側仕えの任を降りて以降、側仕えをしている彼はアドルフに遠慮がない。およそ雇い主の奥方への言葉遣いとしては正しいと思えない「こいつ」呼びにリチャードは目を眇めるが、確かに目の前には死にそうな顔をしたアドルフがいる。何を間違えたのかとしばし考え込んだ。
難しい顔と沈黙をどう捉えたのか言うに及ばず。アドルフは瞳いっぱいの涙で金の瞳を揺らしながら、最近ほんの少しだけ肉づきの良くなった頰をつり上げた。
「ご主人様のお言葉ならば従う他ありません。ご主人様に与えられたもの以外何も持たないのですから、今日中に屋敷を出ます」
にこり、と普段あまり見せない笑みにリチャードはそうかと満足げに頷いた。そんなに休暇を喜ぶならばもっと頻繁に休日を設ければよかったな。そんな言葉さえ、表情筋が死に気味の顔から読み取れる。
周りが見えない二人の背後で側仕えが「あとでどうなっても知らねえからな」と溜め息を吐いた。
「……おい待て! 私はそんなつもりは……アドルフは雇っているのではないのだぞ!?」
「気付くのが遅すぎます、旦那様……」
アドルフの行動は早かった。今は彼のために拵えられた執事服ではなく上等な貴族向けのシャツとボトムスに身を包んでいるのに、着の身着のまま街へ降りるのだと言うからせめて馬車を使えと言って送り出したのが数時間前。
側仕えにとっては想定していた通り、リチャードにとっては予想外なことに、大切な人を乗せていた馬車はキャリッジの中を空にして帰って来た。
「探せ!」
「ちゃんと護衛をつけていますから。日が暮れるまでには帰らせますから」
こんなに冷静さを欠いた旦那様をあいつは知らないだろうな、と言葉を飲み込む。
アドルフの自認がどうであれ、あの子供のような見た目の大人は頼りないながらも雇い主の大切な方だ。出自がどうであれ、馴れ初めがどんなものであれ、旦那様の奥方なのだ。ほいほい危ない目に遭わせる訳がない。
「あいつは今頃、私に捨てられたと思っているのか……」
「いやまあ、それはあいつの語彙力の無さも問題ですね。でも分からないながらに学習してる。前に、俺のこと休暇に出したと言ったのでしょう? それを覚えていたんですよ」
「お前のせいか……」
「流石に理不尽です旦那様」
書類なぞ片付けてられないとばかりに、握りっぱなしのペン先は動かない。震えるリチャードの前に淹れたばかりの紅茶を置いた。
「あいつが旦那様の傍を離れて喜ぶわけがないでしょうに。喜ばせたいなら今日中に明日の仕事を片付けて、明日は二人で街へ降りたらどうですか?」
「私が近くにいてはあいつはずっと休まらないだろう」
「それが幸せなんです。生まれながらの奴隷ですよ? 人に尽くさぬならば死ねってのが植え付けられた価値観です」
「彼はもう奴隷ではない」
「存じております」
根幹にあるものは変えられない。リチャードは頑なにアドルフを真人間へと近づけようとするが、万一自我を得たそのとき逃げられるとは思わないのだろうか。
側仕えは疑問に思ったが、藪蛇とばかりに首を振る。どうせ逃すはずがない。
「せめて気取られないように甘やかしてやってくださいよ」
わかっている、と答えたリチャードの声は感情の読み取れない声色をしていた。
予想より早く帰宅したアドルフはリチャードに与えられた自室のベッドに伏せていた。人酔いし、動けなくなったところを回収されたのだ。
「アドルフ」
「うぅ、ご主人様……」
「リチャードだろう」
声に反応し起き上がろうとするのを制し、寝かせたまましっとりと汗ばんだ額を撫でる。
「休暇というのはただの休日のことだ。仕事をしなくていい日のことを指す」
「聞きました……わたし、まだリチャード様の傍に居られるのですね」
「お前を喜ばせたかったのだが、恥ずかしながら何を与えればいいかわからない」
「何もいりません。わたしは、貴方が居てくれたら他に何も」
澄んだ金の瞳がリチャードを映す。この曇りなく煌めく狼の瞳に惹かれたのだ。同じ色をしているはずなのに全く違う己の目を伏せ、溜め息を吐く。アドルフが身を起こした。
「リチャード様?」
「明日は私と街に出よう。ほしいものがあればその場で言いなさい、何でも買ってやる。お前が望まずとも私が与えたいものは何でも買い揃える」
「それは……ご容赦くださいね」
リチャードに与えられたものは何でも宝物だ。大切なものが増えすぎて、今ではアドルフ一人の身では抱えきれない。
執事服を仕舞ったその日に与えられた薬指の指輪が光に反射した。
「アドルフ、お前に休暇をやる」
善意から来るその言葉を聞いたとき、従者だった男は手に持っていたフォークを床に落とした。
「わた、わたしはお暇に出されるのですか……」
常ならば追いすがる真似はしない。そうしてはいけないと躾けられているからだ。だが、自分でも我慢ならない感情に支配されて口から勝手に声が出た。アドルフは平生ならば失態と呼べるその態度に気付く余裕すらなく、わなわなと震えている。床のフォークはリチャードの側仕えが拾ってくれた。
「旦那様、誤解がありますよ。こいつが死にそうです」
リチャードの側仕え──アドルフが雇われるまでの間、そしてリチャードの側仕えの任を降りて以降、側仕えをしている彼はアドルフに遠慮がない。およそ雇い主の奥方への言葉遣いとしては正しいと思えない「こいつ」呼びにリチャードは目を眇めるが、確かに目の前には死にそうな顔をしたアドルフがいる。何を間違えたのかとしばし考え込んだ。
難しい顔と沈黙をどう捉えたのか言うに及ばず。アドルフは瞳いっぱいの涙で金の瞳を揺らしながら、最近ほんの少しだけ肉づきの良くなった頰をつり上げた。
「ご主人様のお言葉ならば従う他ありません。ご主人様に与えられたもの以外何も持たないのですから、今日中に屋敷を出ます」
にこり、と普段あまり見せない笑みにリチャードはそうかと満足げに頷いた。そんなに休暇を喜ぶならばもっと頻繁に休日を設ければよかったな。そんな言葉さえ、表情筋が死に気味の顔から読み取れる。
周りが見えない二人の背後で側仕えが「あとでどうなっても知らねえからな」と溜め息を吐いた。
「……おい待て! 私はそんなつもりは……アドルフは雇っているのではないのだぞ!?」
「気付くのが遅すぎます、旦那様……」
アドルフの行動は早かった。今は彼のために拵えられた執事服ではなく上等な貴族向けのシャツとボトムスに身を包んでいるのに、着の身着のまま街へ降りるのだと言うからせめて馬車を使えと言って送り出したのが数時間前。
側仕えにとっては想定していた通り、リチャードにとっては予想外なことに、大切な人を乗せていた馬車はキャリッジの中を空にして帰って来た。
「探せ!」
「ちゃんと護衛をつけていますから。日が暮れるまでには帰らせますから」
こんなに冷静さを欠いた旦那様をあいつは知らないだろうな、と言葉を飲み込む。
アドルフの自認がどうであれ、あの子供のような見た目の大人は頼りないながらも雇い主の大切な方だ。出自がどうであれ、馴れ初めがどんなものであれ、旦那様の奥方なのだ。ほいほい危ない目に遭わせる訳がない。
「あいつは今頃、私に捨てられたと思っているのか……」
「いやまあ、それはあいつの語彙力の無さも問題ですね。でも分からないながらに学習してる。前に、俺のこと休暇に出したと言ったのでしょう? それを覚えていたんですよ」
「お前のせいか……」
「流石に理不尽です旦那様」
書類なぞ片付けてられないとばかりに、握りっぱなしのペン先は動かない。震えるリチャードの前に淹れたばかりの紅茶を置いた。
「あいつが旦那様の傍を離れて喜ぶわけがないでしょうに。喜ばせたいなら今日中に明日の仕事を片付けて、明日は二人で街へ降りたらどうですか?」
「私が近くにいてはあいつはずっと休まらないだろう」
「それが幸せなんです。生まれながらの奴隷ですよ? 人に尽くさぬならば死ねってのが植え付けられた価値観です」
「彼はもう奴隷ではない」
「存じております」
根幹にあるものは変えられない。リチャードは頑なにアドルフを真人間へと近づけようとするが、万一自我を得たそのとき逃げられるとは思わないのだろうか。
側仕えは疑問に思ったが、藪蛇とばかりに首を振る。どうせ逃すはずがない。
「せめて気取られないように甘やかしてやってくださいよ」
わかっている、と答えたリチャードの声は感情の読み取れない声色をしていた。
予想より早く帰宅したアドルフはリチャードに与えられた自室のベッドに伏せていた。人酔いし、動けなくなったところを回収されたのだ。
「アドルフ」
「うぅ、ご主人様……」
「リチャードだろう」
声に反応し起き上がろうとするのを制し、寝かせたまましっとりと汗ばんだ額を撫でる。
「休暇というのはただの休日のことだ。仕事をしなくていい日のことを指す」
「聞きました……わたし、まだリチャード様の傍に居られるのですね」
「お前を喜ばせたかったのだが、恥ずかしながら何を与えればいいかわからない」
「何もいりません。わたしは、貴方が居てくれたら他に何も」
澄んだ金の瞳がリチャードを映す。この曇りなく煌めく狼の瞳に惹かれたのだ。同じ色をしているはずなのに全く違う己の目を伏せ、溜め息を吐く。アドルフが身を起こした。
「リチャード様?」
「明日は私と街に出よう。ほしいものがあればその場で言いなさい、何でも買ってやる。お前が望まずとも私が与えたいものは何でも買い揃える」
「それは……ご容赦くださいね」
リチャードに与えられたものは何でも宝物だ。大切なものが増えすぎて、今ではアドルフ一人の身では抱えきれない。
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