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本編
3(完結)
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目を覚ましたとき、何が起きたのか状況を理解できなかった。
見慣れた主人の寝室は既にカーテンが引かれており、自然光がアドルフを目覚めさせた。泣きすぎて瞬きするたびに痛む瞼と叫びすぎて枯れた喉を抑えて部屋を見渡す。主人の姿はない。
何も身につけておらず裸だったが、身体は清められていた。脱がされた際床に落とされた執事服は回収されてしまったらしく、身に付けるものがない。
どうしよう、このままシーツをお借りして一旦部屋に戻ってもよいだろうか。けれどその姿を見咎められたら……言い逃れのできない失態だと、アドルフは痛む目元をまた濡らし始める。
「う、うぅ……っ」
ぐすぐすと鼻を鳴らし始めた頃、寝室と廊下の繋がる扉が開いた。
「アドルフ? 起きたか」
「ッ、ご主人様……っ」
「ふ、もうリチャード様とは呼んでくれないのか?」
「……っ」
アドルフは顔を赤くして押し黙った。薄っすらとした記憶の中で、懸命に名前を呼んだことを何となく覚えている。
リチャードは咎めることもなく、目を細めてそれを見るとサイドテーブルの水差しに手を伸ばした。
「まだ身体が痛むか? 腹は? 空いていなくとも水は飲め」
「こ、このような姿で申し訳ございません、今ごしゅ、旦那様の前に出るには少し格好が……」
「ああ、そうだった。アドルフ、もうあの服を着るのはやめなさい」
アドルフは息を呑み目を見開く。ヒュ、と軋む喉が鳴ったのを感じた。
あの服といえば、アドルフが決まって着る服は一着しかない。上等に仕立てられた執事服は彼の誇りだ。
「皆(みな)に話してきた。アルバが煩かったが……もう遅い。一度手を出せば二度も三度も変わりないだろう」
「わた、わたしは……」
どうなってしまうのですか。
その言葉は飲み込んだ。主人が不要と判断した奴隷の扱いなど決まっている。生きたまま自由にされれば路頭に迷いそのまま死ぬか、また奴隷として売り物になる。温情で『処分』してもらったほうが幸せかどうか、アドルフにははかりかねる。だが、幸せな記憶を抱いたまま死ねるならそれは幸福なことかもしれない。
「邸の奥に囲ったままでもよいのだが、どうもそうはいかなくてな。アドルフ、近々お前の教育係を招く。知った顔だ、緊張しなくていい」
「……?」
どうやら話は違うようだ。アドルフの頭の回転も平生より鈍いらしく、お陰でいつもの色よい返事もできなかった。
だが、リチャードはさして気にする様子もなく話を続ける。
「アドルフ。私はな、お前に出逢ったとき、命を一つ、責任を持つことにした」
「命……ですか」
「領主として家督を継いだときから、私の肩にはこの地に住まう全ての命が載っている。それは父より受け継いだものであり、いずれは後継である甥が引き継ぐものだ」
リチャードは領主様として慕われている。この地を愛し、守ることを常に考えている。そこにあるのは義務や責務だけでないことを、傍で見ているアドルフも知っていた。
「だが、 私が責任を持つその命は私だけの物だ。父から受け継いだものではなく、私が望んで手に入れた。土地を、邸を、爵位を与えようとそれだけは与えない。私が没するときその命も運命を共にする」
俯き加減だった彼が顔を上げ、金糸が揺れる。金に縁取られた切れ長い瞳が真っ直ぐとアドルフを捉えた。
「私の棺にお前も入れるようにと、託けてある」
アドルフにとってうっとりと溜め息を吐くその告白は、リチャードにとって懺悔だ。ぱちりと瞬く幼気な瞳を受けて逸らしそうになる衝動を抑えた。
「私は歪んだ人間だ。私が先に老いて死んだあと、残されたお前の幸せを願ってやることもできない狭量な人間だ。……それでも」
リチャードがその場に跪く。上から見下ろす彼はとても新鮮で、アドルフは不謹慎ながら胸の高鳴りを感じた。主人を見下ろして喜ぶなんて、と己を叱咤する。
けれど、見下ろされたときは彼を天使か神だと思ったものだが、上から見る彼の姿はまるで王子様のようだった。
「アドルフ、私の手を取ってくれるか」
縋る声色だった。何も持たない奴隷に、主人が向けてよい言葉ではなかった。アドルフは彼の言葉を咀嚼して飲み下し、たっぷりの沈黙を作ったあと、口を開く。
「ご主人様……リチャード様。わたしの全てはとうにリチャード様の手の中にあります。貴方に名前を頂いたあの喜びを、どのように表現したら伝わりますか。どのように伝えれば、この気持ちを貴方に届けられるのでしょう」
アドルフに難しい言葉はわからない。好意の大きさを述べようにも万より大きい数字の数え方を知らないし、万と答えても足りない。何よりも好きだ、誰よりも好きだと言ったところで、そもそも比較対象が存在しない。リチャードが与えてくれた執事服より、昨日食べさせてくれた甘い焼き菓子より好きだと言ったところで本心から外れている。あれが好きなのは、それらを与えてくれたのがリチャードだからだ。
「貴方がわたしの全てなのです」
この言葉で想いが伝わったかはわからない。伝わるといい。
ただそれだけを思い、アドルフは微笑む。彼の主人は何も言わずに、ただ眩しげにその笑顔を見詰めた。
見慣れた主人の寝室は既にカーテンが引かれており、自然光がアドルフを目覚めさせた。泣きすぎて瞬きするたびに痛む瞼と叫びすぎて枯れた喉を抑えて部屋を見渡す。主人の姿はない。
何も身につけておらず裸だったが、身体は清められていた。脱がされた際床に落とされた執事服は回収されてしまったらしく、身に付けるものがない。
どうしよう、このままシーツをお借りして一旦部屋に戻ってもよいだろうか。けれどその姿を見咎められたら……言い逃れのできない失態だと、アドルフは痛む目元をまた濡らし始める。
「う、うぅ……っ」
ぐすぐすと鼻を鳴らし始めた頃、寝室と廊下の繋がる扉が開いた。
「アドルフ? 起きたか」
「ッ、ご主人様……っ」
「ふ、もうリチャード様とは呼んでくれないのか?」
「……っ」
アドルフは顔を赤くして押し黙った。薄っすらとした記憶の中で、懸命に名前を呼んだことを何となく覚えている。
リチャードは咎めることもなく、目を細めてそれを見るとサイドテーブルの水差しに手を伸ばした。
「まだ身体が痛むか? 腹は? 空いていなくとも水は飲め」
「こ、このような姿で申し訳ございません、今ごしゅ、旦那様の前に出るには少し格好が……」
「ああ、そうだった。アドルフ、もうあの服を着るのはやめなさい」
アドルフは息を呑み目を見開く。ヒュ、と軋む喉が鳴ったのを感じた。
あの服といえば、アドルフが決まって着る服は一着しかない。上等に仕立てられた執事服は彼の誇りだ。
「皆(みな)に話してきた。アルバが煩かったが……もう遅い。一度手を出せば二度も三度も変わりないだろう」
「わた、わたしは……」
どうなってしまうのですか。
その言葉は飲み込んだ。主人が不要と判断した奴隷の扱いなど決まっている。生きたまま自由にされれば路頭に迷いそのまま死ぬか、また奴隷として売り物になる。温情で『処分』してもらったほうが幸せかどうか、アドルフにははかりかねる。だが、幸せな記憶を抱いたまま死ねるならそれは幸福なことかもしれない。
「邸の奥に囲ったままでもよいのだが、どうもそうはいかなくてな。アドルフ、近々お前の教育係を招く。知った顔だ、緊張しなくていい」
「……?」
どうやら話は違うようだ。アドルフの頭の回転も平生より鈍いらしく、お陰でいつもの色よい返事もできなかった。
だが、リチャードはさして気にする様子もなく話を続ける。
「アドルフ。私はな、お前に出逢ったとき、命を一つ、責任を持つことにした」
「命……ですか」
「領主として家督を継いだときから、私の肩にはこの地に住まう全ての命が載っている。それは父より受け継いだものであり、いずれは後継である甥が引き継ぐものだ」
リチャードは領主様として慕われている。この地を愛し、守ることを常に考えている。そこにあるのは義務や責務だけでないことを、傍で見ているアドルフも知っていた。
「だが、 私が責任を持つその命は私だけの物だ。父から受け継いだものではなく、私が望んで手に入れた。土地を、邸を、爵位を与えようとそれだけは与えない。私が没するときその命も運命を共にする」
俯き加減だった彼が顔を上げ、金糸が揺れる。金に縁取られた切れ長い瞳が真っ直ぐとアドルフを捉えた。
「私の棺にお前も入れるようにと、託けてある」
アドルフにとってうっとりと溜め息を吐くその告白は、リチャードにとって懺悔だ。ぱちりと瞬く幼気な瞳を受けて逸らしそうになる衝動を抑えた。
「私は歪んだ人間だ。私が先に老いて死んだあと、残されたお前の幸せを願ってやることもできない狭量な人間だ。……それでも」
リチャードがその場に跪く。上から見下ろす彼はとても新鮮で、アドルフは不謹慎ながら胸の高鳴りを感じた。主人を見下ろして喜ぶなんて、と己を叱咤する。
けれど、見下ろされたときは彼を天使か神だと思ったものだが、上から見る彼の姿はまるで王子様のようだった。
「アドルフ、私の手を取ってくれるか」
縋る声色だった。何も持たない奴隷に、主人が向けてよい言葉ではなかった。アドルフは彼の言葉を咀嚼して飲み下し、たっぷりの沈黙を作ったあと、口を開く。
「ご主人様……リチャード様。わたしの全てはとうにリチャード様の手の中にあります。貴方に名前を頂いたあの喜びを、どのように表現したら伝わりますか。どのように伝えれば、この気持ちを貴方に届けられるのでしょう」
アドルフに難しい言葉はわからない。好意の大きさを述べようにも万より大きい数字の数え方を知らないし、万と答えても足りない。何よりも好きだ、誰よりも好きだと言ったところで、そもそも比較対象が存在しない。リチャードが与えてくれた執事服より、昨日食べさせてくれた甘い焼き菓子より好きだと言ったところで本心から外れている。あれが好きなのは、それらを与えてくれたのがリチャードだからだ。
「貴方がわたしの全てなのです」
この言葉で想いが伝わったかはわからない。伝わるといい。
ただそれだけを思い、アドルフは微笑む。彼の主人は何も言わずに、ただ眩しげにその笑顔を見詰めた。
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