迷走★ハニーデイズ

葉嶋ナノハ

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1巻

1-2

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 地下鉄の切符を買ってもらい、銀座まで移動すると、雨はすっかりやんでいた。雲間から光が差し込む街をふたり並んで歩く。
 彼は誰もが知っているであろう高級ブランドショップに入った。主に安いネット通販やファストファッションブランドを利用している私には、全く不慣れな場所だ。人の少ない静かな空間に必要以上に緊張してしまう。

「いらっしゃいませ、本日は――」
「いや、いいんだ」

 こちらを見るなり急ぎ足でやってきた男性店員を、彼が片手を上げて制した。

「今日は、彼女とゆっくり見て回りたいので」
「かしこまりました。ご用がおありのときは、何なりとお申しつけください」
「ありがとう」

 もしや彼はここの常連客なのだろうか。こんな高級ブランド店で!?
 一体、何を購入するのかと疑問に思う私の腰に、彼がそっと手を添えた。そしてレディースウェアのコーナーに連れていかれる。品のよい服が、ひとつひとつゆったりとポールにかかっていた。大切にディスプレイされたその素敵さに、ため息がれそうだ。

「こういうのはどうでしょう? あなたはお好きですか?」

 彼が示したのは、袖とえりぐりがシフォン素材の黒いシルクワンピースだった。

「ええ、とても素敵ですね」
「ではこれにしましょう」
「は?」
「すみません、試着したいのですが」

 振り向いた彼が、そばにいる店員に声をかける。何のことやらわけがわからず、彼にたずねた。

「あの、試着って」
「着てみてください。きっと似合う」
「え!? わ、私が着るんですか!?」

 どういうこと!? 彼の買い物にきたんじゃないの!?

「もちろん、あなたが着るんですよ。早く着て見せてほしいな」
「ちょ、ちょっとそれは、いくら何でもあの」

 うろたえる私をものともせず、彼は店員へワンピースを渡してしまった。

「試着室へご案内いたしますので、こちらへどうぞ」
「さぁ行きましょう」

 こんな場所で騒がしくするわけにはいかない。雰囲気に呑まれて断れない私は、彼と一緒にサロンのようなところへ通された。
 大きなソファが置かれ、壁の一面が巨大な鏡になっている。彼はそこのソファに座って待ち、私は三つ並んだ個室のひとつに案内された。個室は全ていていて私たちの他には誰もいない。中に入ると、私のアパートの部屋よりも広かった。

「お手伝いいたしますので、いつでもお声をおかけください」
「は、はい……」

 カーテンが閉まった。仕方なく、着ている服を脱ぐ。大きな鏡が私の下着姿を映し出した。
 ああ、広すぎて落ち着かない。どうしてこんなことに。それよりも、こんなブランドショップの服を私が買えるわけがない。試着すれば彼の気も済むのだろうか。
 ぐるぐる考えながら、素晴らしく肌触りのいいワンピースを着てみる。
 胸元はほどよくひらき、背中や腰のラインが美しく見えるようにカッティングされている。丈はひざに少しかかるくらいでとても上品だ。ワンピースのおかげで、いつもの自分と全く違って見える。
 けれど、気持ちがこうようしたのは一瞬だった。着替えながら三十六万円という値札を見つけてしまった私は、そればかりが頭にチラついて一刻も早く脱ぎたくて仕方がなくなる。
 汚してしまったらどうしよう。想像するだけでおそろしい。

「ああ、やはりとてもよく似合っている。綺麗だ」

 着替えた私を、待っていた彼が目を細めて称賛した。後ろから両肩にそっと手を置かれ、壁面の鏡の前へ進んでいく。私と彼の姿が鏡に映った。
 この人、とても背が高いんだ。私は百六十センチそこそこだから、彼は百八十センチくらいだろうか。足が長く、スタイルがとてもいい。

「これに合う靴もお願いします」

 見とれていた私をよそに、彼が言った。

「かしこまりました、少々お待ちくださいませ。本当によくお似合いでいらっしゃいますよ」

 美人の女性店員がにこやかに言い、そこを離れる。

「いやあの、ちょっと」

 あせって店員を呼びとめようとするも、彼女はすでに行ってしまった。

「気に入りませんか? では別の服にしましょうか」
「ま、待ってください! そうじゃないんです」

 振り向いた私を、彼がきょとんとした表情で見つめる。

「気に入りました、とても。でも、食事中にお話しした通り、今の私は持ち合わせがないんです。それに、あとでお支払いするにしても、こんなに高価な服は買えません」
「あなたが買う必要はありませんよ。これは全ておびなんです。だから気にしないでください」
「き、気にするなと言われてもですね」
「夜のコンサートへは、オシャレして行きましょう。そうしたらもっと元気が出るかもしれませんよ。ね?」

 私をさとすような優しい笑みを受けて、何も言えなくなってしまう。
 試着室に置いた私服が脳裏のうりをよぎった。カジュアルなパンツにジャケット、足元はスニーカー。おまけに雨で汚れている。夜のオーケストラに行くよそおいとしては適当じゃない。誘ってくれた彼に恥をかかせてしまうかもしれないのはわかる。落ち着いたら分割してでも返そう。
 あきらめた私は彼の申し出を一旦受けることにして、靴の試着を始めた。
 支払いの際、彼が提示したブラックカードが見えてしまった。スマホを購入したときは見間違えたのかと思ったけど、確かに見た……!
 この人一体、何者なんだろう。私と変わらないくらいの年に見えるのに、ブラックカードを所持する、高級ブランドショップの常連客――

「そろそろどうでしょうか」

 お店を出たところで彼が質問をしてきた。急な話題についていけない。

「どう、というのは?」
「いえ、まだかなぁと思って」
「……?」

 何が「まだ」なのかわからない。困惑する私に彼は楽しそうに笑いかけ、説明することもなく、また別のお店へ連れていく。
 バッグまで購入してもらい、タクシーで赤坂にある音楽ホールへ向かった。私が着ていた服はブランドショップの袋に入れられ、彼が持ってくれている。
 豪華なよそおいをして、こんなに素敵な人とこれからオーケストラに……。今さらだけど、ここまでしてもらっていいのだろうか。

「申し訳ありません」
「ん? どうしました?」
「スマホの代金を立て替えてくださっただけで十分なのに、これではかえって申し訳なさすぎて」
「スマホは弁償ですよ。それに僕がしたいことにあなたを付き合わせているだけですので、お気になさらず。それとも、やはり気に入りませんでしたか」
「い、いえ! そんなことは全然!」
「それならよかった。コンサート楽しみですね」
「えっと……はい」

 またもや嬉しそうにされて、うなずくしかなかった。それにしても私、この笑顔に弱いなぁ……
 音楽ホールへ到着した私たちは、二階のバルコニー席へ案内される。時間はぎりぎりだったようで、座って間もなく開演のベルが鳴り響いた。一階も二階もほぼ満席だ。

「中央ではなくて申し訳ないのですが」
「いえ、とんでもないです。とてもいい席で舞い上がっています。嬉しい!」

 謝る彼に興奮しながら伝える。私は広い音楽ホール独特の匂いを胸に吸い込んだ。
 演奏者たちがそれぞれの席へ集まり、調音が始まる。

「プログラムの一曲目なんですが、見えますか」

 ひらいたパンフレットのページを、彼が指さした。

「ええ。ボロディンの……『韃靼人だったんじんの踊り』ですね」
「皆でこの曲を聴いたのを覚えてる?」
「え?」

 急にくだけた彼の口調に驚いた。それだけじゃない。彼は今、何て……?

「あ、始まりますよ」

 コンサートマスターと指揮者が登場し、大きな拍手が響き渡る。私も彼も同じように手を叩いた。
 指揮者がタクトを振り、ゆったりとした演奏が始まる。静かなオーボエの旋律せんりつが流れると同時に、私の脳裏のうりにある光景が現れた。
 部活のない日。学校帰りに寄った部活仲間の家。録画されたコンサート。皆でお菓子を食べながら、思い思いに曲の感想を述べた。今、ホールに流れているのは、その中の一曲――
 今朝見た夢を思い出す。
 もしかして私の隣に座るこの人は、あこがれのホールへ一緒に行こうと約束した、初恋の人……?
 そんなことが、あるのだろうか。彼の言う「皆」が、私の思う部活仲間だということが。
 隣に座る彼へ視線を送った。横顔に面影おもかげはある。特徴的だった指の形も似ている。細身とはいっても肩幅も胸板も、当時よりがっしりとして、大人の男性に成長している。あの頃は私より少し背が高いくらいだったのに。革靴を履いている足も、私と比べてずっと大きい。懐かしさを感じていたのは、彼が神谷くんだったから……?
 激しく叩かれるティンパニーのように、私の心臓が音を立てた。
 名前を聞いて確認してみたい。でも私の思い込みだったら、とてつもなく恥ずかしい。勘違いするほどに初恋を引きずっている自分に出会うことが、怖い。
 オーケストラを聴きながら、私はどこかうわの空でいた。休憩時間がきても、彼の口から言葉の続きは語られない。彼はホールを出て、ホワイエと呼ばれる劇場のロビーへドリンクを取りにいってしまう。ホワイエでは、コンサートの客が歓談できるようにテーブルが置かれ、シャンパンや軽食が売られている。一方私は、スマホを確認するためにレストルームへ。やはり管理会社からの連絡が入っていた。今夜中にはどうにもならないらしい。友人らのSNSに既読マークがつき、「どうしたの?」とそれぞれ返事がきている。コンサートの終了は九時近い。平日の夜遅くに彼女らの部屋へお邪魔するのは気が引ける。結局、今夜はビジネスホテルに泊まることになりそうだ。
 ため息をつきながら、私はホワイエにいる彼のもとに戻った。

「どうしました?」

 待っていた彼は私にシャンパンを差し出し、心配そうにたずねてくる。

「えっ、いえ。素晴らしい演奏でした。私、『アルルの女』の『ファランドール』が大好きなんです。とてもかっこいい舞曲ですよね」

 私は受け取ったシャンパンに口をつけた。細かな泡と甘い香りが舌の上ではじける。

「そうですね。あなたが楽しんでいらっしゃるならよかった」

 彼が嬉しそうに微笑んだ。
 せっかくのコンサートなのに暗い顔なんてしていたら失礼だ。それに、私にとってはビジネスホテルよりも、もっと重要なことがある。彼に確かめなければいけない大事なことが。
 意識して彼の顔を見れば、やはり神谷くんに似ている。神谷くんと離れてから、何度も見つめた部活の集合写真やグループ写真を思い出した。……確かめたい。

「『韃靼人だったんじんの踊り』も、好きです」

 この曲を、皆で部活の帰りに聴いたんだよね?
 そうたずねようとしたとき、シャンパンを飲み干した彼が私をまっすぐ見つめた。

「まだ、クラシックが好きだったんだね。伊吹さん」

 名字を呼ばれてどきんとする。この人……!

「そろそろ僕のことを思い出してくれましたか」
「あの、お名前を教えてください。もしかしてあなたは」
「僕は神谷たかです。中学では、あなたと同じ吹奏楽部でした」
「やっぱり……! 本当に本物の……神谷くん、なの?」

 思いもよらなかった偶然に声が震えてしまう。

「うん、本物だよ。忘れられてたらどうしようかと思ったけど、やっと思い出してくれたんだね」

 彼がとても嬉しそうに笑った。ああ、神谷くんだ。食事中にこの笑顔を見て懐かしくなったのは、当然のことだったのだ。

「だって、だって全然違うんだもの。すっかり大人の男性だし、背もすごく伸びてるし、体型も」
「あれから十年以上もてば変わるよ。でも僕は、すぐに君のことをわかったけどね」
「すぐにって、いつ? 出会ってすぐのこと?」

 もしかして、スマホを拾ったときにこちらを見てしばらく黙っていたのは、私に気づいたから?

「ヒミツ。まぁでも、携帯ショップで君が受付に名字を言っていたのを聞いて確信したというのはあるね。これだけじゃまだ疑わしいかもしれないだろうから、ふたりにしかわからないことを伝えようか」

 悪戯いたずらっぽい笑い方をして私の顔をのぞき込んだ神谷くんに、小さな痛みが胸をおそった。
 もしや私、ときめいてる……?

「ふたりにしかわからないことって」
「大人になったら軽井沢のコンサートホールへ一緒に行こう。そう約束した」
「覚えて、たの?」
「もちろんだよ。絶対に忘れないと約束したんだ。君も忘れないでいてくれたんだね」
「うん……うん!」

 嬉しさが込み上げて、思わず涙ぐむ。中学生のときに交わした頼りない約束を覚えていてくれたなんて感動だ。
 神谷くんは目を細め、私の背中に優しく触れる。

「そろそろ後半が始まる。行こう」
「……はい」

 それにしても何という縁だろう。誕生日に神様に見放されるどころか、素晴らしすぎるサプライズプレゼントをもらってしまった。だってあれから、何年がった? 十四年だよ? こんな偶然って、ある?


 テンポのよいアンコール曲を楽しんだあと、私たちは大勢の人たちとともにホールから出た。少しの雲を残した夜空に月が光っている。外気はゆるい暖かさで満ちていた。

「すごくよかった! 誘ってくれてありがとう」
「どういたしまして。伊吹さんはコンサートによく行くの?」
「時間とお金に余裕があれば。本当はもっと行きたいんだけど滅多に、ね。神谷くんは?」
「結構聴きにいくほうだと思うよ。演奏自体は中学以来、全くしてないけどね」
「私も同じ」

 楽器は大切に持っていても、演奏する場所や機会はなかった。いつかまたトランペットを吹いてみる日がくるのだろうかと思ったそのとき、彼が立ち止まった。

「ずっと、どこにいたんだ……?」

 真剣な表情で私を見つめている。誰にも告げずにいなくなった私を責めているわけではない、切なげな声だった。
 雨後の湿しめった風がワンピースのすそを揺らす。道路を行き交う車の赤いテールランプがやけにまぶしく感じた。広い歩道にたたずむ私たちの横を、コンサート帰りの人々が追い越していく。

「どこ、って」
「いや、ごめん。話したくないか」
「ううん、大丈夫。引っ越し先のことだよね? 何も言わないで転校して、ごめんなさい」
「君が謝ることはない。僕のほうこそ無神経なことを聞いて、ごめん」

 再び歩き出した彼の隣に私は並ぶ。

「伊吹さん、結婚は?」
「してないよ。神谷くんは?」
「僕もしてない。独身だよ、ほら。恋人もいない」

 彼は指輪のない左手を、私の前に差し出した。

「君は? 結婚はしていなくても、付き合ってる人はいるの?」
「私もいない、けど」

 そんなふうに質問されると困ってしまう。彼は今の私に興味があるのだろうか。
 駅が見えてきた。彼が神谷くんだとわかったならなおのこと、お金についてはきちんとしておきたいと思った。それに、このままお別れというのは正直……少し寂しい。

「神谷くん、連絡先を教えてくれる? いいとは言ってくれたけど、支払わせてほしいの」
「本当にいらないんだが……」
「スマホを弁償してもらっただけで十分よ。洋服やバッグ代は、ちゃんと払わせて」
「いや、あれは僕が強引に買ったんだから君は気にしなくていい」
「ダメ。そこまでしてもらうのは申し訳なさすぎるもの」
「困ったなぁ。どうしても引いてくれる気はなさそうだね。頑固なところも変わってない」

 笑った彼は、歩道脇にある公園へ私を引っ張り込んだ。入口近くの外灯の下で向き合う。

「それじゃあ取引しようか」
「取引?」
「実は……見合いを勧められていてね。僕にその気は全くないんだが、強引にし進められそうなんだ。君にその見合いを壊す協力をしてほしい。それで洋服代はチャラにしようよ」
「お見合いを壊す協力って、何をすればいいの?」
「僕のニセの恋人になってくれないか」
「え」

 ニセの恋人……? 思いもよらない提案にしばし呆然とする。

「僕に恋人がいれば、相手側もあきらめるはずだ。その役を引き受けてほしい」
「でも……そんなことして大丈夫なの?」
「ただ断るだけじゃ説得力がないからね。離れられない恋人がいるとわかればあきらめるだろう。前から考えていたんだが、誰にでも頼めることではないから悩んでいたんだよ」

 それで、私に恋人がいないかどうかを確かめたんだ。最初から私にニセの恋人役を頼むつもりだったとか。まぁ、そういうことなら納得。……のはずなのに、何だろうこの拍子抜け感は。やっぱり心のどこかで期待していたのかな。

「私でお役に立てるなら」

 思いがけず浮かんだ気持ちを否定するように私は平静をよそおった。

「いいの?」
「うん、いいよ」

 昔の同級生が困っているのなら助けてあげたい。うん、恋人のフリくらい何でもないことじゃない。

「ありがとう! 助かるな」

 イケメンにそんな無邪気な笑顔を見せられたら、誰だって断れないよ。

「では早速。恋人としてお願いしたいことがある」
「はい、どうぞ」
「僕が泊まる予定の部屋においでよ。今夜はずっと一緒にいよう」
「……はい?」
「仕事の都合でね。今夜は家に帰らないんだ」
「本気で言ってるの?」
「本気だよ。恋人らしくするためには、まず一緒にいないとどうしようもない。恋人関係の空気に慣れてもらうにも必要なことだ。見合いの相手サイドにうそを見破られないためにもね」
「そ、それはそうかもしれないけど」

 お見合い当日に恋人のフリをするだけじゃないの!?

「この件を承諾してくれるなら、君の職場も住むところも僕が用意させてもらう。いや、させてくれ」
「いくら何でも、そこまでお世話になるわけには」
「ニセとはいえ、僕の恋人役を演じてもらうんだ。君の生活にだって支障が出るだろう。これくらいのことをするのは当然だよ。それに」

 言葉を止めた神谷くんが、優しげに笑った。

「今夜はこのあと、どうするつもりだったのかな。コンサートの休憩時間に、管理会社からの連絡を確認したのでは? 僕の予想を言わせてもらえば、君が言っていたような部屋の浸水がある場合、今夜中にもとへ戻すことはまず不可能だ。こんなに遅い時間では、友人の家に押しかけるのも気が引ける、そこでどこかのビジネスホテルにでも泊まるつもりだった。違う?」
「っ!」

 何から何までお見通しの彼に、返す言葉がない。

「図星だね。さあ行こう」
「ちょ、ちょっと待って。子どものお泊まりじゃないんだから、そんな簡単に」

 つかまれた手首を引いて足を踏ん張った。
 神谷くんとこのまま会えないのは寂しい。そう思ったことを否定はしない。でも私たちは「ニセ」の恋人になるのよね? そこには恋も愛もないのよね? だから気軽においでと言われても困る。誘われてすぐに男と寝るような女だと思われるのも嫌だ。初恋の彼にだけはそんなふうに思われたくない。
 その場から動こうとしない私に、神谷くんが小さくため息をく。観念したのか、つかんでいた私の手首を離した。

「さっきの質問の答えだよ。僕の連絡先だ」

 彼はスーツのジャケットの胸元から名刺入れを取り出した。受け取った名刺を見て思わず目を見ひらく。

「その年で専務取締役!? 神谷グループって……え、ちょっとまさか」

 神谷グループといえば国内の不動産部門における大企業だ。都心の高層ビル建設や都市再生事業にもかかわっている総合デベロッパーのはず。新聞やネットニュースでよく見かける名前で間違いはない。所在地はゆうらくちょうと記されていた。こんな大きな会社の専務取締役って……

「僕のそうが社の創設者、祖父が理事をしている。父が現在の代表取締役だ。僕がいずれそのポストを継ぐ」

 彼は神谷グループの御曹司だったの!? 
 神谷くんの正体に驚きながら考える。大きな組織の上に立つ人がこんなことを頼んでくるなんて、よっぽど困っているとしか思えない。私だって協力してあげたいのは山々だ。

「言い方は悪いが、僕のような地位にある人間の恋人だと見合い相手に信じさせるためには、それなりの服装や生活が必要だ。それもあって君に職場や住まいを提供したいと思っているんだよ」
「そこはわかるんだけどね。でも――」
「だがそれ以上に、恋人として君が困っているのは見すごせない。今夜は一緒にいよう。何もしないよ、きてくれるね?」

 なぜか彼の声色こわいろと言動が切羽詰せっぱつまっているように感じる。

「ニセの恋人でも心配なの?」
「そうだ」

 当然だと言わんばかりの返答だった。ここまで言われたら信じてみようか。素性を明かしてくれたこともあり、私は神谷くんについていくことに決めた。彼を助けてあげたいと思った気持ちは本物だ。一度引き受けたからには責任だってある。
 見上げた空には星がまたたいている。その光は思い出の日を彷彿ほうふつとさせた。


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