上 下
52 / 60

52 千影視点 僕の女神へ(3)

しおりを挟む
 駅のホームに降り立った時、東京とは違う涼やかな風が印象的だった。夏とはいえ、山間部は日が落ちるのが早い。急がなければ夜になってしまう。消える前に自然の美しさだけは堪能しておきたい。

 千影は宿泊先のロッジに向かうため、一時間に二本しかないバスに乗り込んだ。バス停を降りたあとは、ロッジまでさらに二十分は歩くらしい。

 千影の他には一人の高齢者しか乗っていないバスに揺られながら、畑や木々や近くに見える山々をぼんやり眺めていると、涙が流れ落ちた。

 しかしそれは一筋流れただけで、すぐに止まった。悲しいだとか悔しいだとかいう感情は、とうにどこかへ置いてきたはずなのに、涙が出たことに理解が追いつかず、戸惑う。

 千影は伊達メガネを外し、涙を拭った。この頃は外出のたびに、このメガネをかけている。知り合いを避けるための、ささやかな変装だ。

 眠ったのはいつだろう? と思った。ここのところ、浅い眠りさえも訪れていない。まともな食事もしていない。髪を切る暇さえなく……。

「疲れた……、疲れた疲れた疲れた疲れた……」

 ブツブツと独り言を言いながら俯き、片手で頭を掻きむしった。ボサボサの頭をほったらかしたままで目を閉じてみたものの、やはり眠くはならない――。



 ――ひぐらしの声が、うるさいくらいに耳の中へ響いてくる。緑と土のむせ返るような匂いが千影を取り囲んでいた。

 どうやら自分は、いつの間にか目的地に到着していたようである。

 頭をぶるりと振って、つい今しがたのことを思い出そうとしたがよくわからない。
 誰かと会話をしたような気はするし、リュックも持っていないので、チェックインは済ませてきたのだろう。 

 千影はロッジのそばにあった小道を進み、森の奥へと入っていった。
 森の木々の間から、美しい山々が見渡せる。あたりはすでに薄暗くなっているが、夕暮れはきっと素晴らしい景色だっただろう。もう生涯見ることはないのだが。

 とはいえ、日が落ちたばかりの空を背景に、遠くの高い山がくっきりと黒い影になって見える姿は、素晴らしいものだった。

 荘厳な景色に吸い込まれるようにして、千影はさらに歩みを進めていく。涼しさは冷え込みに近くなっていた。どうやらすぐそこは崖になっているようだ。

 この美しい景色を最後の記憶にして、消えてしまおう……。

「……よ~」

 道から外れて、森の土と草を踏みしめていく。ぶん、という虫の羽ばたきが近くで聞こえた。信じられないほどの速さで、薄暗がりが濃くなっていく。

「お客さん、そっちは崖になってるから危ないですよ!」

「っ!!」

 まさかこんな場所で呼び止められるとは思っておらず、驚いた千影の体が反射的にビクッと揺れた。

「もうごはんです、戻ってくださーい!」

 振り向くと、薄暗がりの中、若い女性が片手を大きく振りながら千影のそば駆け寄ってきた。

「あ、ああ……すみません」

「……うちのお客さん、ですよね?」

 はぁ、と苦しそうに深呼吸した彼女が、千影を見て訝しげな表情をする。

「……」

 周辺に宿泊施設を見なかったので、千影が予約したロッジのスタッフだろう。しかし千影は咄嗟に返事ができず、目を泳がせた。

「もう夕ご飯の時間になるので、ロッジに戻ってくださいね」

 何か答えないと彼女はこの場から離れてくれないだろう。千影は小声で返事をした。

「僕は、夕ご飯なしでお願いしてるので……」

「嘘です」

 こちらを睨むようにして彼女が言った。
 ネットで予約した内容は、ロッジの場所しか覚えておらず、チェックインした時の記憶もないので適当に答えたのだが、見破られている。

「う、嘘なんかじゃないですよ。夕飯あり、なしで選べるじゃないですか」

 焦って返事をするも、彼女の表情は揺らがない。せっかくここまで来たのに「消える」という計画が崩れてしまう。千影は話をごまかすために、自分の左手首に右手で触れた。

「でも嘘です。私にはわかり――」

「君に、これあげるよ。もう必要ないんだ」

 彼女の言葉を待たずに、千影は手首に着けていた腕時計を外す。事業が軌道に乗り始めたとき、さらに高見を目指すために、自分に気合いを入れる意味で購入した唯一の高級品だ。その後も新しい物は買わずに大切に使ってきた。しかしこれはもう必要ない。自分と一緒に壊れるのなら、最期に出会った彼女に渡すのが最善に思えた。

 千影は腕時計を彼女の前に差し出す。いつの間にかひぐらしの鳴き声が止み、夜が迫っていることを教えてくれた。

「……そんな高価そうなもの、いりません」

 彼女は眉根を寄せて、小さく首を横に振った。
 確かに、彼女の判断は妥当だろう。どこの誰かもわからぬ男にもらった物など気持ちが悪いのは当たり前だ。
 心の中で自嘲しながら、千影は投げやりに彼女へ言った。

「そう。じゃあ、捨てといて」

「あなたが元気になったら、その時にもらいます」

「……え?」

「だから、その時まで預かっていてください。楽しみにしていますね」

 言いながら、彼女がニコッと笑った。

 ――約束をしたら、生きなければならない。

 そんな考えがよぎり、彼女の提案を否定しようとしたその時。

「……あっ、お客さん到着した!」

 彼女が目線を向けたほうから、車の音が届いた。

「さぁ、戻りましょう。夕ご飯、後付けでも食べられるので、私が伝えておきます。お金が足りなければ、私のおごりで」

 明るく溌剌とした瞳が千影の心を刺す。

「い、いや……それは……」

 こちらに向けられた笑顔が眩しすぎて、直視できない。
 目を逸らして戸惑いつつも、この瞬間から千影の中で何かが変わったような気がしていた。

 坂を上がってきた車が停まり、客と思われる数人が出て来る。話し声がここまで届いた。
 ぼやけていた現実が、徐々にはっきりと千影の前に現われてくる。

「ほら、早く行きましょう。ご飯を食べたら元気も出ますから」

 暗闇に、ほんの少しだけ光が灯った気がした。まだすがりつきたいと思ってしまうような、温かな光りが。

「……ありがとう」

 気づけば、そうつぶやいていた。
 そんな言葉を発したのは久しぶりだったと気づく。

「え?」

「いや、なんでもないです……」

 涙が出そうになるのを知られたくなくて、俯いたまま、ぼそりと返した。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

ハイスペック上司からのドSな溺愛

鳴宮鶉子
恋愛
ハイスペック上司からのドSな溺愛

【R18】深層のご令嬢は、婚約破棄して愛しのお兄様に花弁を散らされる

奏音 美都
恋愛
バトワール財閥の令嬢であるクリスティーナは血の繋がらない兄、ウィンストンを密かに慕っていた。だが、貴族院議員であり、ノルウェールズ侯爵家の三男であるコンラッドとの婚姻話が持ち上がり、バトワール財閥、ひいては会社の経営に携わる兄のために、お見合いを受ける覚悟をする。 だが、今目の前では兄のウィンストンに迫られていた。 「ノルウェールズ侯爵の御曹司とのお見合いが決まったって聞いたんだが、本当なのか?」」  どう尋ねる兄の真意は……

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~

ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。 2021/3/10 しおりを挟んでくださっている皆様へ。 こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。 しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗) 楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。 申しわけありません。 新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。 お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。 修正していないのと、若かりし頃の作品のため、 甘めに見てくださいm(__)m

地味女で喪女でもよく濡れる。~俺様海運王に開発されました~

あこや(亜胡夜カイ)
恋愛
新米学芸員の工藤貴奈(くどうあてな)は、自他ともに認める地味女で喪女だが、素敵な思い出がある。卒業旅行で訪れたギリシャで出会った美麗な男とのワンナイトラブだ。文字通り「ワンナイト」のつもりだったのに、なぜか貴奈に執着した男は日本へやってきた。貴奈が所属する博物館を含むグループ企業を丸ごと買収、CEOとして乗り込んできたのだ。「お前は俺が開発する」と宣言して、貴奈を学芸員兼秘書として側に置くという。彼氏いない歴=年齢、好きな相手は壁画の住人、「だったはず」の貴奈は、昼も夜も彼の執着に翻弄され、やがて体が応えるように……

処理中です...