最推しと結婚できました!

葉嶋ナノハ

文字の大きさ
上 下
51 / 61

51 千影視点 僕の女神へ(2)

しおりを挟む
 一番古い記憶を辿ってみても、張り詰めた空気しかない家の中で、両親の顔色を窺っていたことしか思い出せない。その後も、仲が良かった両親の姿を見ることはなかった。

 千影が中学生になると、父は家に帰ってこなくなり、母も恋人と泊まりに行き、何日も帰らないことがあった。
 必然的にひとりで過ごす時間が多かったため、この時期にさまざまな知恵を身につけていく。起業に興味を持ち始めたのもこの頃だ。
 一刻も早く独立したい、この家を出て行きたいと、千影はそれだけを強く願っていた。

「――千影、大学は行っておかないとダメだぞ?」

 高校二年の夏休み。千葉で農業を営んでいる祖父に呼ばれた千影が泊まりに行くと、いきなり祖父にそう言われた。

「おじいちゃん、今は大学に行かなくたって会社は作れるんだよ。だから僕は――」

「いーや、ダメだ。せっかくお前は頭がいいんだ。俺の金で行きなさい。あいつの……、誠二(せいじ)のせいで、お前には苦労を掛けっぱなしなんだ。せめておじいちゃんに、息子の愚行を償わせてくれ。だから絶対に行くんだぞ?」

 祖父は苦々しい顔をして、千影に言った。誠二とは千影の父である。

「学業が無駄になることはない。友だちもたくさん作って、お前が会社を作るときに協力してもらえ。仲間は大事なんだから、な?」

 祖父は決して豊かな暮らしをしているわけではなかった。五年前に祖母が亡くなり、彼はこの片田舎でひとり、野菜や、千葉名産の落花生などを作りながら暮らしている。

 細々と貯めたお金を自分のために使わせるのは忍びないが、祖父の好意をありがたく受けることにした。自分が稼いでその倍以上のお金を祖父に返せば良い。そのように思ったからだ。

「ありがとう。じゃあ、そうさせてもらうね」

「おう、頑張れ、千影!」

 祖父はニカッと嬉しそうに笑い、親指をグッと立てた。

 その後まもなく両親は離婚し、千影はひとりとなる。

 母の籍に入っていた千影は高校卒業と同時に分籍し、縁を切った。父の顔はここ数年、一度も見ていない。母はすでに恋人と暮らしており、父には新しい妻との間に子どもができたようだ。
 父母の生活の妨げにならないよう、そして今後の面倒事を避けるための分籍だった。

 祖父の援助を受けて大学に入学した千影は、格安のアパートを借り、生活費を切り詰めながら金を貯めて起業の準備をする。
 最終目標は祖父に恩返しをするため、地方創生事業に関わる会社を作ることだ。
 そして努力の甲斐あってか、起業の目処が付き、共同経営をする友も見つけ、数人の仲間もできた。

 しかし大学三年の夏頃。祖父の様子を見に行った千影に対して、彼が急に怒り出したり、同じものをいつくも買ってきたりと、認知症の症状が見え始めた。
 数年ぶりに父と連絡を取り、祖父の症状を伝えると、祖父は病院に入院後、施設に入る。
 父は祖父の貯金を使った。祖父が千影の学費を出していることを知らなかった父は、「お前は金食い虫だ」と千影を罵り、そこで学費は打ち切りとなった。祖父に会うことも禁じられたのである。

「事業は上手くいってるんだ。この後絶対に軌道に乗る。奨学金も受けてるんだしさ、免除してもらえる方法もいくらでもあるだろ。今さら中退なんて考えるなよ?」

 鹿島田(かしまだ)が千影の肩を叩いて励ました。
 彼は千影の友人であり、起業した会社の共同経営者だ。
 何事も考え込んでしまう千影とは反対で、鹿島田は明るく楽観的な性格。それでいて仕事上の細かい管理をしっかりとやってくれるので、経理を彼に任せていた。
 調子の良いところもあるが、彼のそんな軽さに助けられることも多かった。

「ああ、そうだな」

「暗くなるなって。ポジティブに行こうぜ! どうしようもなくなったら俺が全部どうにかしてやるからさ、なんとかなる」

「ありがとう。頼りにしてるよ」

「おう、任せとけ!」

 屈託なく笑う彼の表情は、どこか祖父に似ていた――。

 その後、鹿島田が言った通り事業は軌道に乗り、目が回るほど忙しくなったが、すべてが順調に進んでいった。祖父の援助を受けずとも十分な余裕ができ、生活にも潤いが生まれる。

 しかし千影が絶対的に信頼していた鹿島田は、事業用の金を持ち出して行方をくらませた。さらに経費を私的に使い込んでいたことも発覚する。
 そして知らぬ間に鹿島田は大学を辞めており、彼の実家に連絡を取るも、わからないの一点張りで協力をしてもらえない。
 千影と付き合っていた取引先の女性も連絡が取れなくなる。彼女は、鹿島田が大学を辞めた時と同じ日に会社を辞めていた。ここ数ヶ月、彼女とふたりで会うことを断られていたのは、鹿島田と密会していたからだろう。彼らは裏で間抜けな千影を笑っていたのか――。

 鹿島田は実に用意周到な男だということも、この時になって思い知らされた。
 彼は法人の口座やメールなどの認証パスワードを勝手に変更してから、いなくなっている。時間をかけないと、どれだけの金を使い込んだのかわからないようにするためだ。
 それだけのことをしているのに、数人いた他の仲間たちは全員鹿島田の味方で、悪いのは千影だと言って離れていった。鹿島田が千影の悪口を吹き込んでいたというのは、ずいぶんと後になって知ったことだが……。

 どうにかして鹿島田を探し出すことはできたのかもしれないが、千影にはそんな気力も金も残っていなかった。帰る実家もなく、頼れる仲間もいない。当然のごとく事業の資金繰りが立ちゆかなくなり、廃業に追い込まれる。廃業後に残った借金の処理に追われ、自身の生活費すらも底を突きそうだった。

 希望に満ちていた未来は、輝きの一片も残さずに、消えていた。

 ――それなら、自分も消えなければならない。

 関係のあった企業へ迷惑をかけたことの謝罪に行こうとスーツに着替えていた千影だが、「自分も消えなければならない」という思いつきに従い、玄関でジャケットを脱ぎ捨てた。
 部屋に戻ってクローゼットを開け、リュックと山用の薄手のジャケットを取り出す。リュックに最低限の荷物と山用のジャケットを押し込み、伊達メガネをかけ、アパートを飛び出した。

 学業と仕事に邁進していた千影の、唯一の趣味は自然に触れること。田舎に住んでいた祖父の影響かもしれないが、自然の中にいると心が安らいだ。
 普段は大きな公園に行くのだが、連休などはハイキング程度に歩いたり、低山に登ることもあった。何も考えず、緑の匂いを吸い込みながら歩くのは至福の時だった。

 どうせ消えるのなら好きな場所でーー。

 突然、光が見えた気がした千影は、夏の照りつける日差しの中を小走りで駅に急いだ。急いで急いで……。次に気づいた時には、すでに電車に乗っていた。新幹線ではなく在来線である。
 ふと顔を上げると、車内のデジタルサイネージに「次は高尾駅――」と表示された。

「中央線……?」

 千影は力なくつぶやく。
 どこか自然の多い場所へ行きたいと、東京駅から乗ったのだろう。高尾駅で乗り換えれば高尾山駅口だが、もっと遠くへ……、遠くの山へ行きたい。

 高尾からいくつか乗り換えていけば、長野に到着できる。長野は、起業する直前に悩みが多かった頃、ひとりで訪れたことがあり、素晴らしい自然を堪能できた場所だ。

「……そこがいいね」

 千影は死に場所が決まったことによる安堵の笑みを浮かべ、高尾駅で電車を降りた。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

腹黒上司が実は激甘だった件について。

あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。 彼はヤバいです。 サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。 まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。 本当に厳しいんだから。 ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。 マジで? 意味不明なんだけど。 めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。 素直に甘えたいとさえ思った。 だけど、私はその想いに応えられないよ。 どうしたらいいかわからない…。 ********** この作品は、他のサイトにも掲載しています。

契約結婚のはずなのに、冷徹なはずのエリート上司が甘く迫ってくるんですが!? ~結婚願望ゼロの私が、なぜか愛されすぎて逃げられません~

猪木洋平@【コミカライズ連載中】
恋愛
「俺と結婚しろ」  突然のプロポーズ――いや、契約結婚の提案だった。  冷静沈着で完璧主義、社内でも一目置かれるエリート課長・九条玲司。そんな彼と私は、ただの上司と部下。恋愛感情なんて一切ない……はずだった。  仕事一筋で恋愛に興味なし。過去の傷から、結婚なんて煩わしいものだと決めつけていた私。なのに、九条課長が提示した「条件」に耳を傾けるうちに、その提案が単なる取引とは思えなくなっていく。 「お前を、誰にも渡すつもりはない」  冷たい声で言われたその言葉が、胸をざわつかせる。  これは合理的な選択? それとも、避けられない運命の始まり?  割り切ったはずの契約は、次第に二人の境界線を曖昧にし、心を絡め取っていく――。  不器用なエリート上司と、恋を信じられない女。  これは、"ありえないはずの結婚"から始まる、予測不能なラブストーリー。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

恋に異例はつきもので ~会社一の鬼部長は初心でキュートな部下を溺愛したい~

泉南佳那
恋愛
「よっしゃー」が口癖の 元気いっぱい営業部員、辻本花梨27歳  ×  敏腕だけど冷徹と噂されている 俺様部長 木沢彰吾34歳  ある朝、花梨が出社すると  異動の辞令が張り出されていた。  異動先は木沢部長率いる 〝ブランディング戦略部〟    なんでこんな時期に……  あまりの〝異例〟の辞令に  戸惑いを隠せない花梨。  しかも、担当するように言われた会社はなんと、元カレが社長を務める玩具会社だった!  花梨の前途多難な日々が、今始まる…… *** 元気いっぱい、はりきりガール花梨と ツンデレ部長木沢の年の差超パワフル・ラブ・ストーリーです。

真面目ちゃんは溺愛されている【完結】

恋愛
優等生で真面目過ぎてまわりから浮いてしまう未智と、そんな未智を溺愛している幼馴染で社長の夏樹の恋模様

甘過ぎるオフィスで塩過ぎる彼と・・・

希花 紀歩
恋愛
24時間二人きりで甘~い💕お仕事!? 『膝の上に座って。』『悪いけど仕事の為だから。』 小さな翻訳会社でアシスタント兼翻訳チェッカーとして働く風永 唯仁子(かざなが ゆにこ)(26)は頼まれると断れない性格。 ある日社長から、急ぎの翻訳案件の為に翻訳者と同じ家に缶詰になり作業を進めるように命令される。気が進まないものの、この案件を無事仕上げることが出来れば憧れていた翻訳コーディネーターになれると言われ、頑張ろうと心を決める。 しかし翻訳者・若泉 透葵(わかいずみ とき)(28)は美青年で優秀な翻訳者であるが何を考えているのかわからない。 彼のベッドが置かれた部屋で二人きりで甘い恋愛シミュレーションゲームの翻訳を進めるが、透葵は翻訳の参考にする為と言って、唯仁子にあれやこれやのスキンシップをしてきて・・・!? 過去の恋愛のトラウマから仕事関係の人と恋愛関係になりたくない唯仁子と、恋愛はくだらないものだと思っている透葵だったが・・・。 *導入部分は説明部分が多く退屈かもしれませんが、この物語に必要な部分なので、こらえて読み進めて頂けると有り難いです。 <表紙イラスト> 男女:わかめサロンパス様 背景:アート宇都宮様

人生を諦めた私へ、冷酷な産業医から最大級の溺愛を。

海月いおり
恋愛
昔からプログラミングが大好きだった黒磯由香里は、念願のプログラマーになった。しかし現実は厳しく、続く時間外勤務に翻弄される。ある日、チームメンバーの1人が鬱により退職したことによって、抱える仕事量が増えた。それが原因で今度は由香里の精神がどんどん壊れていく。 総務から産業医との面接を指示され始まる、冷酷な精神科医、日比野玲司との関わり。 日比野と関わることで、由香里は徐々に自分を取り戻す……。

処理中です...