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48 あなたがいた場所を誰にも触れさせたくなくて(2)
しおりを挟む千影の行動に抗えずに、夕美は呆然としながらキッチンに上がった。
「さぁ、行こう」
「ち、千影さ……」
手首を掴まれた夕美は、強引に部屋のほうへと連れて行かれる。上部がすりガラスで出来ている引き戸が彼の手でひらき、明かりのついたそこに足を踏み入れた瞬間、夕美の体が凍り付いた。
「夜はまだ冷えるからね、暖房をつけておいたんだ。温かいでしょ? スプリングコート預かるよ、ハンガーに掛けよう」
「……」
夕美はその場に佇んだまま返事も出来ず、部屋の中を凝視していた。
「夕美、どうしたの? まだ寒い?」
優しい声だ。いつも夕美を包んでくれる、そんな声。
「じゃあ温かい飲み物を作ってくるよ。会社の近くにあるカフェの『ココア』でいい? 甘すぎず、苦みがあって美味しいんだよね。君が気に入っているみたいだから、どこが製造しているココアなのか店に聞いたらさ、ここで購入できますよって教えてもらってね。買っておいたんだ」
「……あ、あ、どう……して……」
「ん? いつものカフェラテのほうが良かった?」
壁際に立っていた千影が、普段と変わらない表情で聞き返した。まるで夕美の疑問がおかしいとでも言うように。
「どう、し、して……私の、ベッドが……こ、こに、ここ……こ」
体が震えているせいか、言葉がまともに出てこない。
目の前にあったのは、引っ越しの際にリサイクル業者へ引き渡したはずの、夕美のベッドだった。
ベッドだけではない。小さな棚も電灯も、同じだ。
よく見れば、自分でゴミの日に捨てたはずのカーテンや座布団も、なぜかそこにある。
引っ越す前とほぼ同じ部屋の状態を前にして、夕美の思考は完全に停止していた。
「ああ、それはね。僕の知り合いの業者に引き取ってもらったじゃない? 彼のところからすぐに買い戻したんだよ。これもそれも、あと、キッチンの物も」
「……」
「夕美が自分で捨てた物もなるべく引き取りたかったんだけど、全部は無理だった。僕が忙しい時に限って、どんどん捨てちゃうんだから」
千影はクスクスと笑いながら、夕美に近づいてくる。
この状況についていけず、夕美は彼をただ呆然と見つめることしかできない。
相変わらず美しい笑顔だ、などとぼんやり思った。しかしこの笑顔は、夕美が知っている千影のそれと同じものなのだろうか?
夕美は浅い呼吸を繰り返しながら、どうにか言葉を押し出した。
「あの、男の人は、どこに……?」
「ああ、隣人の男? そいつって髪がボサッとしてて、メガネをかけた男だよね? 夕美のそばに何度も現われるっていう、さっきもマンションまでついてきたストーカー男」
夕美がわずかに首を動かしてうなずくと、彼は畳に置いていた紙袋を持ち、こちらへ差し出した。
「はい、どうぞ」
「え?」
「中を見てみて。そこに答えが入ってるから。ほら」
恐る恐る紙袋を受け取り、言われるがまま中を覗いた。
「っ!?」
髪の毛が見えて一瞬ドキリとしたが、よく見ればウィッグだった。その下には洋服が入っている。コートを丸めて押し込んでいるように見えた。
「どうして、ウィッグが……?」
「メガネも一緒に入ってるよ」
「どういう意味……?」
「まだわかんないのかぁ。夕美って相当、鈍いんだね。そういうところも可愛いんだけどさ」
千影は肩をすくめて、おどけたように笑う。そんな彼の様子とは逆に、夕美の顔はこわばっていた。
暖房のコーという音が響いている。ちょうど良い室温のはずなのに、夕美の全身にはじっとりした汗が噴き出していた。
「まさか……」
どう考えても回避できそうにない「なぜ」に対する答えが、夕美の脳内を圧迫する。
「嘘よね……?」
知りたくない。認めたくない。違うのだと否定されたい。
しかし彼は、そんな夕美の懇願にも似た希望を、すぐさま打ち砕いた――。
「嘘なんかじゃない。君の手に証拠があるじゃないか。僕がその『隣人の男』だよ」
「……」
夕美の手から力が抜け、紙袋は畳の上にドサリと落ちた。
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