上 下
44 / 61

44 サボテンは大切に育てているから(1)

しおりを挟む

 休日前の金曜日。
 千影はようやく仕事に余裕が出たようで、久しぶりに一緒に朝食を取る。

 出勤前のひとときを目玉焼きとともに味わいながら、夕美は幸福に浸っていた。

(こんなこと思っちゃいけないんだろうけど、仕事でやつれた千影さんも……素敵。なーんて) 

「ねえ、夕美」

「は、はいっ?」

 ニヤけていることを不審に思われたのかと焦りながら返事をするが、それは杞憂だった。

「前に住んでたアパートのサボテンって、結局どうなったんだっけ?」

 彼は夕美が淹れたコーヒーを美味しそうに飲みながら言った。

「あ~、うん。まだ確認してないの。気にはなっているんだけど……」

 玄関のドア横で育てていたサボテンの鉢を引っ越しの時に忘れてしまい、先日そのことを千影に話していたのだ。
 彼と始まった新生活の忙しさから、確認に行く機会を作れなかったのだが……。
 
「大家さんも処分に困ってるかも……」

 夕美は朝食を食べる手を止め、つぶやく。

 サボテンは手のひらに乗るくらいの小さなサイズなので、そもそも大家さんに気づかれていない可能性もありそうだ。

「チラッと見に行ってみたら? まだ玄関の横にあるかもしれないし」

「そうね。今日の帰りに見てきてみる。まだあったら大家さんに言って引き取ってくるね」

「うん、それがいいよ」

 千影はこんなふうに夕美の些細なことまで気にかけてくれる。

 推しだからということを抜きにしても、彼のことを知れば知るほど、好きが積もっていくのを夕美は日々実感していた。


 仕事を終えた後、夕美は千影に約束した通り、アパートに向かっていた。
 最寄り駅から小さな商店街を進んでいく。露店の青果店から「いらっしゃい」の声が響き、揚げたてのコロッケが好評な肉屋の前には人が並んでいた。レトロな喫茶店の窓際の席は、常連で埋まっている。

 ついこの前まで毎日歩いていた道なのに、すでに懐かしさを感じていた。

(大学時代からずっとこの道を通っていたんだもの。ホッとするし、ちょっと寂しくも感じちゃうな)

 夕美はひとり苦笑しながら、帰りに夕飯用のコロッケを買おうと決め、路地に入る角を曲がった。そこから歩いて一分ほどの場所にアパートがある。

 その時、夕美の横を、ついっと誰かが追い抜いていった。 

 今日は定時で会社を出たため、あたりはまだ日が落ちて間もない時間だ。薄明るく、電灯がつき始めていることもあり、見間違えることはない。

 追い抜いていったのは、アパートの隣に住んでいた男性だ。

 そう気づいた瞬間、夕美の背中に悪寒が走ったが、夕美は彼の後ろ姿を凝視した。

 髪はボサッとしており、背丈も記憶に残るものと同じくらいだ。手にはビジネスバッグと紙袋を持っている。

(こんなにじっくり見たことなかったけど……、スタイルがいいのね。歩き方も綺麗。変に思うことがなければ、いい印象なのに)

 彼の歩く速度が速いので細かいところまでは見えなかった。だが、アパートの前でその歩みが止まったため、隣人の男性なのだと確信する。

 距離を取って静かについていった夕美は、アパートの近くで足を止めて彼の動向を見守った。

 ポストをチェックした彼は、自分の部屋のドア前で立ち止まる……はずだった。
 しかし彼は隣の部屋まで歩き、鍵をドアノブに差し入れ、当然のように回したのだ。

(え……え?)

 戸惑う夕美の目に、彼が部屋の中へ入っていった様子が映る。信じられない光景を理解するまで数秒かかったが、現実だと認識したとたん、夕美の動悸と呼吸は呼吸は激しくなり、血の気が引いていった。

「な……なんで? なんであの人が、私の住んでいた部屋に、入ったの……?」

 夕美は震え声でつぶやく。

 そう、何年も住んでいた夕美の部屋に、当然のごとく男性が入っていったのである。

(……落ち着いて。薄明るいとはいえ夕暮れ時なんだから、見間違いかもしれない。彼に遭遇したことで動揺しているんだ、きっと)

 夕美はその場で頭を横に振り、何度か深呼吸をした。
 そしてアパートに近づき、ゆっくりと歩みを進めていく。夕美の住んでいた部屋は一番奥の角部屋だ。手前が男性の部屋である。

 各部屋のドア横にキッチンの窓があるため、部屋に誰かがいればそこから明かりが漏れる。
 男性が住んでいた部屋のキッチンは、真っ暗だった。

(キッチンのドアを閉めて奥の部屋にこもったら、明かりは漏れてこないかもしれない)

 そんな期待を胸に夕美はそこを通り過ぎた。そして慎重に歩みを進めていこうとした次の瞬間。

 夕美の息が止まった。
 角部屋のキッチンから、明かりが漏れているのだ。

 ドア横に掲げられた部屋番号のプレートは、夕美が住んでいた部屋番号と同じだった。
 再び激しくなる心臓の音を抑えるように胸に手を当て、恐る恐る視線を下げる。

「サボテンが……」

 玄関横には手のひらサイズのサボテンがふたつ並んでいた。

「……い、いやっ」

 夕美は小さな悲鳴を上げて後ずさり、急いでその場を離れる。
 混乱した頭と、言い様のない恐怖に襲われながら。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

ハイスペック上司からのドSな溺愛

鳴宮鶉子
恋愛
ハイスペック上司からのドSな溺愛

地味女で喪女でもよく濡れる。~俺様海運王に開発されました~

あこや(亜胡夜カイ)
恋愛
新米学芸員の工藤貴奈(くどうあてな)は、自他ともに認める地味女で喪女だが、素敵な思い出がある。卒業旅行で訪れたギリシャで出会った美麗な男とのワンナイトラブだ。文字通り「ワンナイト」のつもりだったのに、なぜか貴奈に執着した男は日本へやってきた。貴奈が所属する博物館を含むグループ企業を丸ごと買収、CEOとして乗り込んできたのだ。「お前は俺が開発する」と宣言して、貴奈を学芸員兼秘書として側に置くという。彼氏いない歴=年齢、好きな相手は壁画の住人、「だったはず」の貴奈は、昼も夜も彼の執着に翻弄され、やがて体が応えるように……

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

絶体絶命!!天敵天才外科医と一夜限りの過ち犯したら猛烈求愛されちゃいました

鳴宮鶉子
恋愛
絶体絶命!!天敵天才外科医と一夜限りの過ち犯したら猛烈求愛されちゃいました

お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~

ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。 2021/3/10 しおりを挟んでくださっている皆様へ。 こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。 しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗) 楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。 申しわけありません。 新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。 お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。 修正していないのと、若かりし頃の作品のため、 甘めに見てくださいm(__)m

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

ドSな彼からの溺愛は蜜の味

鳴宮鶉子
恋愛
ドSな彼からの溺愛は蜜の味

処理中です...