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36 愛の巣へようこそ(1)

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「長い間、お世話になりました」

 引っ越しの前日、夕美はアパートの大家のところへ行き、挨拶をした。

「わざわざ来ていただいて、すいません。こちらこそ、長い間ありがとうございました」

 大学入学時から住み続けた部屋を出るのは、やはり寂しい。

 大家は六十代の男性で、一戸建てに夫婦ふたりで住んでいる。アパートやマンションをいくつも持っている地主だ。
 普段は滅多に会わないが、たまに実家から帰った際にお土産を持って行くと、とても喜んでくれた。
 そんなことを思い出しながら、夕美は話を切り出す。

「あの……、ちょっとお伺いしたいんですが」

「ええ、どうぞ。何かありましたか?」

 夕美から挨拶の品を受け取った大家が、心配そうに聞き返した。

「私のお隣のお名前って、教えていただけますでしょうか。ご挨拶しようかと思っていて、名前がわからないと失礼かなって」

「ああ、そうですよねぇ……。ただ、申し訳ないんだけど、管理会社さんからダメだと言われているんですよ。プライバシーのなんたらとか、コンプライアンスとかで、本人が表札を掲げていない限り、大家の私が勝手に名前を教えちゃいけないことになっているんです。……すみませんねぇ」

 申し訳なさそうな顔で大家が説明をした。

「いっ、いえっ! それはそうですよね。私が逆の立場だったらイヤですし。こちらこそすみません、ありがとうございました。では……明日引っ越しなので、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします。終わったら、声かけてくださいね」

「はい」

 最後はにこやかに挨拶を交わし、大家のもとを去る。

 三分ほど歩いてアパートに着いた夕美は、コートの合わせをぎゅっと握りながら集合ポストを見つめた。

(私だって、防犯のためにポストもドアの横にも名前を掲げてないんだから、大家さんの言う通りだわ)

 ポストには最初から部屋番号は書かれているが、名前をつけているのは一軒だけだ。もちろん隣人ではない。

(そもそも隣の男性を疑うことが間違ってたのよ。外で会ったのも偶然、帰宅時間が似てるのも偶然、ロッジにいた人とは他人の空似……。うん、そうよ、それでおしまい!)

 この二ヶ月間、推しである千影と距離が縮まり、結婚の約束まで交わしたのだ。劇的な環境の変化によって気持ちが敏感になっていても不思議ではない。

 夕美は自分の部屋へ向かって急ぎ足で歩き出す。
 荷造りはほぼ終わっているものの、まだ片付けはあるのだ。さっさと片付けて、明日千影のもとへ行くことだけを考えよう――。


 翌日。
 午後に引っ越し業者が来て、荷物が運び出された。
 急いで千影のマンションへ行き、荷物を受取り、確認を終える。そしてすぐにアパートへ戻って掃除をして、大家と退去の確認をした。

「千影さん、ありがとう~!」

 マンションで待っていた千影のもとへ帰り、彼にお礼を述べる。
 引っ越し業者とトラックに同乗はできないので、先に到着した業者を千影に招き入れてもらうなど、いろいろお世話になったのだ。

「いえいえ、往復お疲れ様でした。大家さん、大丈夫だった?」

「うん、何も問題ないって。綺麗に使ってくれてありがとうございます、ってお礼まで言われちゃった」

 ふふと笑いながら暖かい廊下を、彼の後ろをついていきながら歩く。

「夕美の部屋、遊びに行きたかったな~」

「結局、来てもらえずにお引っ越しになっちゃったものね。ごめんなさい」

「いや、僕が急がせたんだから自業自得なんだ。夕美が謝ることじゃないよ、ごめんね」

 振り向いて申し訳なさそうに言った千影は、夕美の肩に優しく触れた。

「ううん、私も来てもらいたかったから」

 彼の顔を見上げると、視線が合う。どちらからともなく、笑みを交わした。

「夕美の好きなおでん、昨夜のうちに仕込んでおいたんだ。ビールもあるよ。お疲れ様会しよう」

「やったぁ、嬉しい! って、あれ? 私、おでんが好きって話したっけ?」

「夕美のことなら何でも知ってるよ」

 クスッと笑われて、胸がきゅんと痛む。

「えへへ……なんか嬉しいな」

 私も「神原社長」のことなら何でも知ってますとも言えず、夕美は照れ笑いをしながら、手を洗いに行った。
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