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9 腕時計

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 夕美はゴクンと喉を鳴らしたあと、説明を始める。

「その腕時計は、私の地元である信州――長野県で作られたものです」

 夕美の言葉を受けた神原は、真剣な面持ちで木製の腕時計を改めて見つめた。

「信州産の木材を使い、制作もすべて長野の工房でおこなっています。とても質が良いので贈り物に最適だと思うのですが、まだ全国的には認知されていないようです」

 夕美の実家は長野県のとある山間にあり、宿泊施設を経営している。
 標高は低い場所にあるのだが、登山客が多く立ち寄るロッジだ。

 家から学校に通うのは大変だったため、高校は寮に入る。その後、東京の大学に進学し、そのまま東京で就職した。
 実家に帰るのは夏休みと年末年始、連休くらいだが、その時にはなるべく家の仕事を手伝うようにしている。

「その工房があるお店を知ったのは去年の秋頃でした。実家に帰る際に立ち寄った、松本のセレクトショップで見かけたんです。素敵な雑貨に一目惚れしました」

 木製の小物入れやお皿、マグカップ、フォークやスプーンなど、明るい色味の商品がセンスよく並んでいたのだ。

「どれも手触りが良くて、見た目がシンプルなのが素敵でした。私も自分の部屋に小さい置き時計を買って使っています」

「うん、わかるよ。手触りは最高だし、とても軽いからつけ心地がいい」

 神原は腕時計のベゼルに触れながら感想を述べる。

「そちらをプレゼントに選んだのは、私の地元で作られた、優れた製品を社長に知っていただきたかったからなんです。いずれ、今よりも地方創生事業に多く着手されると伺っていたので、いつかお役に立てるのではないかと」

 なるほど、と神原は腕時計を外し、テーブルの上にそっと置いた。

「実はこの工房の商品、僕も気にはなっていたんだが、実際に手に取ったことはなかったんだよ」

「ご存知だったんですね」

 彼の仕事柄、知っていても不思議ではない。

「君が言うように、僕はこの先、地方創生事業の仕事を増やしていきたいと思っている。そのためにも、ご当地のものに関する知識は必要で、色々調べているときにこの商品を知ったんだ。だから今日、これをプレゼントにもらった時は驚いたよ」

 彼はそう言いながら、鞄の中から手のひらサイズの小冊子を取りだした。

「プレゼントに入っていたこのカタログにも目を通したが、工房やセレクトショップの雰囲気もいいし、コンセプトも素敵だ。ホームページだけだと商品の良さが伝わりにくいのが残念だね」

「ええ。SNSをされていないので、余計に伝わっていないのかもしれません」

「もっと上手く宣伝できれば、地域の特産として多くの人を呼ぶことが可能になるものは本当にたくさんあるんだ。この商品のようにね」

「ええ」

「僕の会社がその橋渡しになれるように、もっと努力していかないとならない」

 神原はカタログをパラパラとめくり、閉じた。

「ところで、数ある商品の中から、僕にはどうして腕時計を……?」

「正直に言いますね」

 ここは推しに対しての気持ちを、失礼のないよう伝えたいと思った。

「どうぞ、遠慮なく言って」

「社長にとても似合うと思ったからです!」

 身を乗り出して鼻息荒く答える。
 
 家の中に置く物だと、渡した瞬間しか、神原が商品と一緒にいる姿を見られない。
だが身に着けるものであれば、その後も社内で見かけることが出来るかもしれない。
 という、夕美のエゴを織り交ぜた選別だった。

 夕美の勢いに一瞬驚いた神原がクスッと笑う。

「ありがとう。他にも何かある?」

「あります。社長はスマートウォッチ系の時計をされずに、お気に入りと思われるアナログの腕時計をいくつかローテーションされていらっしゃるので、そのコレクションに加えていただけるのではないかと」

 夕美の調べによると、神原は外国製の腕時計を三つ、国内製の腕時計を二つ所有しており、その日によって付け替えていた。
 今日プレゼントしたものは、彼が着けているような高級品ではないが、社員からのプレゼントであれば、たまには着けてくれるだろう、と室井も同意したのだ。

「そうか、うん、わかった。確かに僕はスマートウォッチなどの時計は着けない。よく知っていてくれたね」

「はい……」

 ほんの一瞬、神原の表情に翳りが見えた気がして戸惑う。
 夕美が知っていたことが不快だったのだろうか。いや、そういう感じではない。ではなぜ……?

「……そんなに深い意味はなかったんだね」

「え?」

「いや、なんでもない。奥寺さんの気持ちが良く伝わったよ。素敵なプレゼンをありがとう。大切にするし、他の商品にも興味が湧いた」

 神原の笑顔が悲しげに見えた。これは気のせいではない。

(私、社長を失望させるようなことを言ったんだろうか。深い意味って、なんだろう……)

「そろそろ出ようか。お腹はいっぱいになったかな?」

「あ、はい! あの……」

「どうしたの?」

「あの私……何かおかしなことを言っていたら申し訳ありません」

 夕美のせいでイヤな思いをさせてしまったらと思うと、いてもたってもいられなかった。

「何もおかしなことなんてないよ。僕が何かそう思わせてしまったのなら、ごめん」

 神原が申し訳なさそうに謝るので、夕美は慌てて否定する。

「社長は謝らないでください! なんとなく社長の表情が曇った気がして……って、失礼な勘違いをして申し訳ありません……!」

「僕の表情を読み取ってくれようとしたんだね。優しいんだな、奥寺さんは」

「優しいだなんてそんなこと――」

「近いうちにこのショップに行ってみようかと考えていたから、深刻そうに見えたのかもしれないね」

 真面目な神原が言うのだから、それは本当だろう。

「そうだったんですか……」

 ホッとした夕美に、神原がいつもの笑顔を向ける。

「よし、じゃあ行こう。忘れ物がないようにね」


 店の近くに待機していた車に神原と乗る。
 家まで送るのはプライバシーの侵害になるだろうからという彼の気遣いで、夕美のアパートがある最寄り駅まで送ってもらった。

「今日はごちそうさまでした。いろいろなお話ができて嬉しかったです。ありがとうございました……!」

 挨拶をして車から降りると、神原もドアを開けて外に出てきた。そして夕美のそばに立つ。

「こちらこそありがとう」

「お土産までいただいてしまって、申し訳ありません……」

「君の貴重な時間をもらったんだから当然だよ。気にしないで」

「ありがとうございます」

 もうすぐ二十二時になろうとしていた。
 駅前はまだ開いている店が多く、到着するタクシーやバスのライトが辺りを照らす。
 会社ではない場所の、夜の中で見る彼はどこか艶めかしく、夕美の胸が痛くなるほどだった。

「僕も、同じなんだ」

 ふいに、夕美を見つめていた神原がつぶやく。

「え?」

「僕も今日、君と話しができるのを、とても楽しみにしていた」

 眉根を寄せた神原の声は、とても切ないものだった。
 先ほどの食事の際に見かけた翳りと似ている気がして、夕美は言葉に詰まる。

「また今度、君の地元の話を聞かせてもらえるとありがたいんだけど、いいかな?」

「あ、はい! もちろんです……!」

「じゃあね。気をつけて帰るんだよ」

 そう言って、夕美から離れた神原は後部座席のドアを開けた。

「ありがとうございます。お疲れ様でした」

「おやすみ」

「おやすみなさい……!」

 頭を深々と下げて挨拶をしたあと、車が見えなくなるまで夕美はそこに佇んでいた。


「はぁ……夢のような時間だった……」

 アパートの部屋に戻り、手を洗ったあと部屋に座った夕美は、ため息まじりにひとりごちる。

(帰り際の社長の表情は気になるけど……。でも食事のときも私の勘違いだったんだから、これもきっと同じね。社長のことが気になりすぎて、勝手に妄想しすぎなクセをどうにかしなくちゃ)

 気を取り直した夕美は、神原にもらった手土産の紙袋をテーブルの上に置いた。彼が購入する姿を見ていないので、食事の間に運転手に申しつけたのだろう。

 夕美は紙袋にスマホを向けてバシャバシャと写真を撮った。とりあえず加工は後にし、袋の中から箱を取り出す。

「抹茶味のクッキー缶! こっちはほうじ茶味の米粉クッキー? どうしよう、美味しそう~!」

 化粧箱を丁寧に開け、クッキー缶を取り出した。
 丸い形のそれはすべすべと手触りが良く、いつまでも触っていたくなる。

「最近、米粉のお菓子が好きで、休日は自分でも作ってるのよね。抹茶味のスイーツにもハマっていたところだし、密かにクッキー缶を集めてたから本当に嬉しすぎる」

 缶からそっとクッキーを一枚取りだし、その香ばしい香りを嗅いだ。

「ん~~、最高にいい香り……! いただきまー……」

 あーんと大きな口を開けたところで、ハタと気づく。

「推しから貰ったものなんて国宝と同じでは? 家宝として代々受け継ぐべきか……?」

 気軽に口にして良いものだろうか。

「永久保存したいけど、食べ物だからダメになっちゃうし、どうせ食べるなら新鮮なうちに食べたほうがいいよね?」

 せっかくいただいた宝を無駄にすることだけは、絶対に避けたい。

 よし、と心に決めた夕美は、クッキーをひとくち齧る。とたん、ほろりと崩れたそれは舌の上で溶けてしまった。

「何これ……、お、美味しい~~っ!」

 確かにサクッと歯ごたえはあったのに、次の瞬間、もうなくなってしまったのだ。味わったことのない食感に感動する。

 夕美はひとくち、またひとくちと、じっくり味わっていたつもりが、あっという間に抹茶味のクッキーを一枚食べ終わってしまった。

「ほうじ茶のクッキーは明日にしよう……」

 とつぶやいたのにも関わらず、手が伸びてしまう。ほうじ茶の缶は真っ白で、店の印字がほのかに茶色い、シンプルでかわいらしいものだった。

「ああ……こっちも美味しい……。ほうじ茶の仄かな香りと柔らかい甘みが絶妙だわ……」

 上品な味を堪能し、フタを閉めようとしたのに本能が邪魔をする。

「あとひとつだけ……、じゃなくて! 社長に今日のお礼のメールをしなければ!」

 スマホを手にした夕美は、ついこのクッキー缶について調べてしまった。

「えっ、嘘っ、お値段たっか! 待って待って、ひと缶この価格だと、クッキーが一枚……、にっ、二百五十円っ!?」

 思わずスマホを落としそうになる。

「回転寿司より高いんだから、美味しいに決まってるよ、すごすぎるよ、もっとゆっくり食べれば良かったよ……。とにかく、お礼のメッセージにクッキーの感想も入れないと」

 夕美は急いで画面をタップし、神原に今日のお礼とクッキーの感想を伝えた。

 興奮冷めやらぬ夕美が、お風呂の湯を沸かそうとして立ち上がると、スマホが反応する。

「もうお返事がきた……!」

 夕美がメールをひらくと、そこには神原の丁寧な文章が綴られていた。

――こちらこそ今日はありがとう。突然の誘いだったのに、快く受けてくれて感謝します。
 みんなからのプレゼント、大切に使わせてもらうね。奥寺さんの地元の情報、何かあったら暇なときに教えてもらえると嬉しいです。
 明日からまた営業等、仕事のほうもよろしくお願いします――

「う、うう……」

 気づけば夕美の目から涙がポロポロこぼれていた。

 この人を推していて良かった、心から幸せだという気持ちが溢れて止まらなくなったのである。

「しゃ、社長……、私は一生あなたについていきますっ!!」

 この発言が、すぐに実現されるとも知らずに、夕美は感激にむせび泣きながらスマホを握りしめた。

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