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葉嶋ナノハ

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番外編

再会 (柚仁視点)

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本編の一年前くらい、日鞠が個展をしたとき~本編へ繋がる柚仁視点のお話です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ミンミンと蝉の声が庭の木の上から降ってくる。梅雨明け後、一週間が経った七月中旬。ここ二、三日で急激に気温が高くなった。
「あっちーなー朝から……ったく」
 額から流れて顎にまで到達した汗を、手の甲で拭った。こうなると日よけの為の麦わら帽子は、蒸れて暑くて邪魔に感じるだけだ。
 休日だということに気が緩んで早朝に起きられず、庭の畑に出たのは八時を過ぎていた。外は既に真夏の日差しだ。九時ともなると、もう手に負えない。
 カゴに入れた真っ赤なトマトは、去年の悲惨なものに比べれば立派だと思う。
「よし、これなら今年は持っていけるな」
 満足というほどの出来でもないが、いいだろう。

「杉田さーん、おはよーございまーす。花岡ですー」
 ご近所さんの杉田さん宅へ行き、インターフォンを鳴らしながら玄関前で声を掛ける。今はまだ骨董屋にいる時間ではない。
「おーう、花岡先生。おはようございます」
 ドアを開けた杉田さんは、自身を団扇で扇きながら俺に挨拶をした。
「今年は何とか食べられそうなのができたんで、良かったらどうぞ」
「おー美味そうなトマトじゃないか。ありがとうございます先生」
 ビニール袋を覗き込んだ杉田さんは、トマトを見て目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「そうそう、いいものがあるんだった。花岡先生、ちょっとお時間ありますかね」
「ええ。今日は教室がない日なんで」
「じゃあ縁側へ回ってくれますかい。今、麦茶入れてくるからよ」
「お構いなく」
 杉田さんに促され、木陰になっている縁側へ座った。彼の趣味である盆栽が綺麗に手入れをされて庭に並んでいる。
 お盆に麦茶のグラスを乗せた杉田さんは、片手で紙袋を差し出し、俺の傍に座った。
「鎌倉の水羊羹をいただいてね。これ、口どけが最高にいいの。花岡先生、持って帰ってください」
「いいんですか?」
「たくさんもらっちゃってね。それに、いつも新鮮な野菜をいただいてるんだから、お返しお返し」
「すみません。俺が作る野菜、まだ全然上手くできていないのに」
「形はアレだが、味は最高だよ」
「ありがとうございます」
 笑った杉田さんと一緒に冷えた麦茶を飲む。涼しさが喉元を通り過ぎた。縁側の上に備え付けられた風鈴が、涼しげな音を鳴らす。
 正座を崩して、あぐらに座りなおした杉田さんが、もう一口麦茶を飲み、庭を見ながら言った。
「先生は、東京に行くことありますかね」
「仕事で月に二、三回は行きますよ」
「そうですか」
 大きくため息を吐いた杉田さんは、そこで黙り込んでしまった。また風鈴が鳴る。
「どうしたんですか。何かありました?」
 珍しい杉田さんの様子と沈黙が気まずくて、自分から問いかけてしまった。
「いや、そのう……」
 杉田さんは頭を掻き、躊躇いつつも、話し始めた。
「日鞠がなぁ、東京で個展をやるらしいんだが」
「個展、ですか」
 久しぶりに聞いた日鞠の名に、心臓が大きな音を立てた。

 俺が東京から花岡家に移り住んですぐ、町内会のことや、近所の買い物の場所、籐仁が気に入っていたカフェや、近所の祭りの時期なんかを、杉田さんが色々と教えてくれた。どうしてこんな赤の他人の世話を焼いてくれるんだろうと疑問に思ったが、杉田さんの家に行ってみて、ようやく理解した。
 そこは俺が保育園から小学校低学年の頃、幼なじみの日鞠と遊んだ家だった。杉田さんは日鞠の祖父だ。杉田家は花岡家から離れた場所の記憶があるが、大人になって歩いてみると、すぐ傍の近所だったことに驚く。
 こうして俺は杉田さんのことを思い出した。当然杉田さんも俺のことは覚えていて、何かと世話を焼いてくれたというわけだ。生前の籐仁とも、たまに交流があったらしいから、それで俺のことを話す機会があったのかもしれない。
 日鞠……ひまは、俺の幼なじみだ。学年は違うが、同じ保育園に通っていた俺たちは園が終わると花岡家の庭や杉田さん宅で、夕飯までの時間を一緒に遊んでいた。ひまの実家は三つ先の駅の場所にあり、杉田さんと一緒に住んでいるわけではないことを知ったのは、ずいぶん後のことだったと思う。
 小学三年で父母と東京に引っ越して生活していた俺が、亡くなった籐仁の跡を継ぐことになり、ここに住み始めて、もうすぐ二年が経とうとしていた。時間に余裕があるときには杉田さんの家に、自分で作った野菜を持って行ったり、家に招いて俺の料理を食べてもらったりと、何となく交流が続いていた。
 でも俺は自分からひまのことを聞かなかったし、杉田さんも家族のことは話さず、お互いの仕事の話や、近所の出来事を話すくらいだった。
 だからだろう。ひまの話題が出たことに驚いたんだ、俺の心臓が。

「その個展、俺が見に行ってやりたいんだけどよ。呼ばれてもいねぇのに、のこのこ出て行ったら、日鞠はきっと嫌な思いするじゃん? と思って」
「そんなことはないんじゃないですか」
「こっちには戻らないで頑張ると言ってたらしいんだよ。俺たち家族には誰にも教えずに個展をひらくってことは、成功するまでは教えたくないんだろうなぁ」
「本人が言ってないのに、どうして個展をすることを知ってるんですか?」
「日鞠の姉が教えてくれた。ネットで調べてたらわかったらしくてね」
「ふーん」
 あいつが個展ねえ。何の個展をひらくんだろう。
「こっそり行って、覗いて来てくんないかね、花岡先生」
「え、俺が!?」
 杉田さんは庭からこちらへ視線を移した。そんな顔でじっと見られても困る。
「駄目かねえ」
「いや、俺は二十年近く会ってないんだし、第一ひまの顔すら全然わかんないですよ。あっちだって、当然俺のことはわからないと思いますし。ていうか、いきなり行ったって怪しい者扱いじゃないですか」
「バレないほうがいいんですよ。日鞠が元気にやっているかだけ、チラッと見て来てくれれば、俺はそれで満足だ。俺が行けば隠れてても、すぐに気付かれそうだからなぁ。変装でもしてくかなぁ」
 杉田さんは、ひまの祖父にしては若いほうだろう。だが、やはりお年寄りだ。一人で行くったって、電車乗って、乗り換えして、そこから歩いて……大変だよな。
「……まぁ、杉田さんの頼みなら」
 ぼそっと呟いた俺の言葉を聞き逃さなかった杉田さんは、俯いていた顔を勢いよく上げた。
「そうかい! ありがとう先生!」
「え、いや、はい。行ってきます」
 杉田さんに個展の場所を教わり、水羊羹を貰った俺は家に帰った。

 屋根裏部屋へは荷物を上げていないから、この押し入れだと思ったんだが。
「どこにやったっけなー。あー、あっちーな、くそ……!」
 意地張って扇風機だけってのは、いい加減無理があるか。
 一階和室の押し入れに頭を突っ込み、段ボール箱を引っ張り出した。蓋を開けると、中から卒業アルバムが何冊か出てきた。他にも大学、高校、中学の頃の写真が山ほど出てくる。
「もう少し、古いほうだな」
 他の段ボールを開けてみる。小学生の頃のアルバムが出てきた。その端に、保育園当時の写真が収められたアルバムがあった。
「お、これだこれだ」
 箱から取り出して一頁ずつゆっくりとめくり、慎重に探す。しばらくして……見つけた。
 杉田さんちの玄関前で、俺とひまが写っている写真だ。古い写真を見て苦笑する。
「こんなん見ても、今のひまがどうなってるか、わかんねーっつうの……!」
 他にひまと写っている写真は無かった。アルバムから貴重な一枚を取り出して窓を閉め、エアコンをつけた。ごろりと畳に寝っ転がって、写真を眺める。
 ひまは保育園の制服を着て、俺はTシャツとハーフパンツを穿いていた。ひまの髪は少なく、耳の下でふたつに縛っていた。
 ひま、嬉しそうにニコニコ笑ってんな~。俺は彼女の隣でポケットに両手を突っ込むという生意気なポーズで、ムッとした顔をして写っている。
 ゆうちゃん、ゆうちゃん、って俺にくっついてきて、俺がわざとどっかに隠れると大声で俺の名前呼んで泣きべそ掻いてたっけ。
 二つ年下で鈍いひまに、イラっとすることもよくあったけど、あいつが笑うのが嬉しくて、いろんなこと教えて遊んでやった。ゆうちゃんすき、ってしがみついて、べったべたしてきてたよな。
 あいつと遊ぶ時は他の友達を呼ぶことは絶対にしなかった。俺じゃない他の奴にくっついていくのが何となく許せなかった。
「ひまと一緒にいるのが好きだったんだなー俺」
 あれが初恋といえばそうなのかもな。ひまが小学校に入ってすぐに、俺も東京へ引っ越した。あいつに会えなくなることがつらかったのを、よく覚えてる。何も言わずに離れたことを後悔してたんだ。ひまはチビだったから、そんなこととっくに忘れただろうが。

+

 個展の当日。杉田さんの家に寄り、挨拶を交わす。
「じゃーお願いします。花岡先生」
「もし購入もできるようだったら、何か買ってきます?」
「いや、俺は……そうだなぁ、そこら辺は花岡先生に任せます」
「そうですか。まぁ、どういう感じでやってんのかよくわからないんで、その場の雰囲気見て判断しますね」
「すまないねえ」
「いえ。では行ってきます」
「よろしくお願いします」
 先日、杉田さんに今の日鞠のことを聞いた。
 ひまの両親は彼女が中学生のときに事故で他界した。ひまは歳の離れた姉と住んでいた家を高校卒業と同時に出て、東京の専門学校へ通うために一人暮らしを始めた。俺も当時は都内にいたから、意外と近くにいたんだな。
 学校を卒業した後も一人暮らしを続けて絵を描いているという。
 ということは、フリーターかなんかしてるのか。俺の仕事にも通じることだが、ああいう道を選べば苦労が多いだろうに。
 逗子駅で電車を待ちながら、ため息を吐く。
 成長したひまに会えるのが楽しみなのか、それとも億劫なのか。思い出の中のひまとは全く違う女になっていたら……想像とかけ離れていたら、がっかりするからか? いや、そういうことじゃなく、もっと違う何かに気付きそうで、目を逸らしているだけなんだ、多分。ひまに会えば、この複雑な気持ちの正体がわかるんだろうけど。

 電車を乗り継ぎ、下北沢の駅で降りた。学校帰りによく遊びに来ていた懐かしいところだ。
 あの頃と変わらず、ここは学生や若い人間で溢れている。小劇場やギャラリーが多く、役者にバンドマン、絵描き、作家、写真家、映画監督などなどへ夢を馳せる若者が集まる街だ。最近ではアート用の小さなレンタルスペースが増えたという情報を、書道家仲間から聞いたことがある。ひまもそういう場所を利用したんだろう。
 ひまは高円寺に住んでいると杉田さんに聞いた。高円寺から下北じゃ結構遠いだろうに。車で搬入すればまだ近いのか。
 昔の癖が残っているらしく、ひまのことが心配で仕方がない。そんな自分に苦笑しながら駅の改札を出て、スマホで場所を辿りながら歩いた。
 五分も経たない場所に、ひまの個展をしているギャラリーがあった。
「こちらどうぞー」
 入口にいた男にチラシをもらった。
「あ、ども」
 中に入ると、奥の支払い場所のような長机に、女が二人座っている。胸がずきんと痛んだそのとき、顔を上げたその二人が一斉に俺を見た。両方と目が合ったような気がして、一歩進むのを躊躇う。どっちがひまだ……? 遠目でよくわからない。あまりそちらをジロジロ見続けるのも怪しいので、ギャラリーの中を見回した。壁に飾られている大きな作品と、壁際に置かれた長机の上に並べられた、小さめの作品があった。小さめのほうは全て値段がついていて、その場で購入できそうだった。ポストカードや薄い画集のようなものまで作られていた。
 客は俺の他に十人はいる。狭いスペースに結構な人数が入ったじゃないか。すごいぞ、ひま。
 さっと壁の絵を見て、次に長机の上にたくさん並んだ絵を見た。その中にある、一つの絵の前で立ち止まった。
 水彩画を得意としているのだろう。青や薄い紫の水の中に泳ぐ、数匹の金魚が描かれた作品。
「……綺麗な色だな」
 呟いて思い出した。
 俺が昔、祭りの夜店で釣った金魚を、ひまにあげたことがあった。確か、しばらく杉田さんちで飼われていたような気がする。
 金魚の絵を手にして、座る受付の人へ向かった。先ほど二人いたうちの一人が、いつの間にか席を外していていない。
「すみません」
「はい」
 顔を上げた女子を見る。これが、ひまか……? 全然面影がないな。
「この絵を購入したいのですが」
「あ、ありがとうございます! でもあの、ただいま作者が席を外しておりまして……私が対応させていただくことになるのですが、よろしいでしょうか」
 目の前の女子は、ひまではなかった。どこ行ったんだ、あいつ。でもまぁ、ちょうどいいや。
「構いません。あまり時間がないので、すぐにいただきたいんですが」
「ありがとうございます。では、お包みしますのでお待ちくださいね」
 別に急いでいるわけじゃないが、やはり近くに来たら俺の正体がバレるのではないかと思い、咄嗟にそんなことを口走っていた。
「こちらを見ていただければ、作者のSNSに投稿した作品が見られますので。何かありましたら、そちらからお声を掛けてください」
「そうですか。ありがとう」
 差し出された名刺と一緒に、袋に入れられた絵を渡された。
「ありがとうございました」
 その後、俺がギャラリーを出るまで、結局ひまは戻って来なかった。

 逗子の駅を降りて、杉田さんの家へ直行した。家に上がらせてもらい、エアコンの効いた畳の部屋に座る。
「これ、ひまの絵です」
「ほお! 買ったんか!」
 袋から取り出した彼女の絵を杉田さんに渡す。彼は嬉しそうに金魚の絵を見つめた。
「お任せはしたが、先生がまさか日鞠の絵を買ってくるとは思わなかったよ」
「なんか……ちょっと心配になって」
「日鞠の様子が変だったのかい? それともお客さんはいなかったとか?」
「いや! それは全然ないです。しっかりやってました。たくさん絵があって、全部上手でしたよ。お客さんも結構入っていましたし」
 本当にしっかりやってたからな。あのスペースにあの人数なら結構人が入っているほうだし、壁に飾ってあった絵はいくつか売約済になっていた。なのに俺は一体、ひまの何をそんなに心配してるんだろう。
「昔の小さい頃のひまを思い出して、何となく放っておけないっていうか」
 自分に言い訳しているような言葉が口から出た。
「ほお~」
「まぁ、そんな感じです」
 どんな感じだよ。上手く言い表せなくて、グラスの麦茶を一気に飲んだ。
「ほぉ~ほぉ~、なるほどねぇ」
「な、何ですか?」
「花岡先生、彼女はいないんかい?」
「え!」
 突然何言ってんだ、このじーさんは。もとい、杉田さんは。
「……いませんけども」
「ほんとに?」
「いませんよ、本当に。彼女がいたら、畑で野菜ばっかり弄ってるわけないじゃないですか」
「ほんとかねえ。こんなにイイ男で、漢気があって、書道の達人で、人気の先生がよ」
「達人は籐仁なんで」
「そんなことねぇよ。柚仁先生だって負けないくらいに立派だ」
 絵を持っていないほうの手で肩をばんばんと叩かれた。温かな手から、杉田さんの優しい気遣いが伝わる。
「で、先生」
「はい」
「日鞠はどうだい? ああいう子は好みかい?」
「は!?」
「仲が良かったじゃないか。毎日毎日くっついて遊んで」
「それはガキの頃の話じゃないですか」
「そう言いながら満更でもなさそうじゃないか、先生。今日、成長した日鞠を見て思うところがあったんだろ?」
 にっこり笑った杉田さんに、俺の気持ちを見透かされた気がして慌てて否定する。
「嫌いじゃないですよ、そりゃ。大事な幼なじみだし……。ただ、今日は二十年ぶりくらいに、遠目ですけどひまを見て、ちょっと心配になったっていうか、その」
「わかったわかった、うんうん、ありがとうよ、先生」
 何をわかったって言うんだ、杉田さんは。
 頷いていた杉田さんは、金魚の絵を俺に差し出した。
「これは先生が持っていてください。俺が持ってて、もし見つかったりでもしたら困るんでね。まぁ日鞠がここに来ることはないんだが、花岡先生が持っててください」
「じゃあ、そうします」
「頑張っている日鞠のことを聞けて安心しました。ありがとうな、花岡先生」

 夕飯前の風呂上がり。
 エアコンの効いた和室から広縁に行き、座ってビールを飲む。いつもなら最高のひとときなのに。今日は夕暮れに染まる空が、やけに感傷的に胸に迫った。そんな感情を振り払うようにもう一口飲み、ひとりごちる。
「でっかくなってたなー。すっかり大人の女だったよな」
 遠目で見ただけで傍で確認はできなかったが、やはり衝撃だ。
「俺のことなんか一つも覚えてないって顔してたな。……二十年経つんだ、当たり前か」
 妹がいたら、きっとこんな感じなのかもしれない。
「あーあ、何でこんなに落ちてんだ、俺は」
 今日、個展へ行く前に逗子駅で感じたのは、これだ。
 俺とひまは思い出の中の関係に過ぎず、それをまざまざと見せつけられることを予感していたからだ。感動の再会なんてあるわけがないことを、初めからよーくわかっていたからだ。
 俺の知らないところでしっかり成長して、自分の夢を持っているひまがいた。それはとても嬉しく、喜ばしいことじゃないか。でもやっぱ、やっぱさー……
 心配だなんだってカッコつけてたけど、本心は寂しかったんだ、俺。
 俺がギャラリーに入ったとき、こっちを見たひまが、もしかしたら俺にちょっとでも気付くんじゃないかなんて、有り得ない期待をした自分が馬鹿すぎて笑える。俺だって、ひまがどの女かわからなかったじゃないか。
 ひまから見たら、知らない男が自分の絵を見に来ただけに過ぎないってのに。

+

 ひまの個展に訪れてから一年が経とうとしていた、七月初旬。
 カードに書かれた彼女の絵のサイトやSNSの投稿先は、個展の日から一か月も経たないうちに全て削除されていた。
 その後、杉田さんは特に変わった様子もなく、ひまのことも心配していないようだった。行方不明だとか、そういう重大なことではなかったのだろう。杉田さんに余計な負担をかけるのもよくないと思った俺は、そのことを黙っていた。

 額の汗を拭きながら広縁に上がる。鎌倉で買ってきた手拭いは丈夫で、大きさの使い勝手がよく、センスもいい。また別の柄も買いに行くか。
 スマホが鳴った。
「ん? 杉田さんか?」
 メッセージが入っている。
 杉田さんはあの年で彼女ができたらしく、最近は頻繁にスマホを弄り倒して彼女と連絡を取り合っていた。俺とも、こんなふうに、たまーにやり取りをする。
「はぁ!?」
 スマホの画面を見た俺は思わずデカい声を出していた。
 ひまが困っているから、花岡家の書道店で働かせろ? どういうことだよ。東京で絵を描いて頑張ってたんじゃないのかよ。
「あ、そうか」
 サイトやSNSが無くなっていたのは、そういうことか。何があったか知らないが、絵を描くことを辞めたのか。働く先もないとか、何やってんだよあいつは。
 イライラしながら速攻で返事を打った。俺のところでよければ、ひまを連れてきてください、と。

 翌日、杉田さんが帰宅する予定の時間に合わせて、彼の骨董屋へ向かった。蝉が鳴きはじめ、本格的な夏が来たのだと教えてくれる。空は真っ青だった。
 骨董屋のドアを開けると、聞きなれない声が届いた。
「い、いらっしゃいませ~」
 店内で挨拶をしてきた若い女を凝視する。杉田さんはいないのか? ということは、あれ……もしかして、ひまか?
 にこっと愛想笑いをした顔が、幼い頃のひま、そのものだった。
 ああ、ひまだ。ひまがそこにいる。昔と同じように、この店にいる。5mも満たない距離に、ひまがいる。
 会釈してきたひまに、ハッとなり、顔を逸らして、その辺にあった花器を手にしてみた。何で杉田さんが店番じゃないんだよ。まだ家の中にいるのか?
 それにしても……個展のときのように、ひまは全く俺のことに気付いていないようだ。杉田さんは敢えて俺のことは、ひまには話さないと言っていたしな。
「……」
 あんなに可愛がってやってたんだぞ? 泣きべそ掻いてたお前を、おんぶして、長い道のりを杉田さんちまで連れて帰ったこともあるんだぞ?
 去年感じた寂しさが、ひまを目の前にして再び甦った。
 柄にもなく、心臓が音を立てている。
 ひま、個展のときよりも髪が短いな。何て言うんだ、ああいうの。おかっぱ……金太郎? いや違う、そんなことを言いたいんじゃない。お前、どうしたんだよ。何があったんだよ。何があって、こっちに戻ってきたんだよ。楽しく夢を追いかけていたんじゃないのか? 去年何があったんだ? あんなにもいい絵を描いていたじゃないか。
 全ての疑問を呑み込んで、何でもない振りをして彼女に声を掛けた。
「杉田のおじいちゃんは?」
「今さっき出掛けたんですけど、すぐ戻るそうです」
「そう」
 手のひらに載っている、青いガラス製の花器を見つめた。
 そうだ、これを買って領収書を貰おう。そうすれば俺の名前を見たひまが、俺を思い出すかもしれない。
 いや、たとえ思い出さなくても、それはそれでいい。
 お前がもしも俺のところで働くようになって、何かが癒えて、話したくなったら、つらいこと全部聞いてやる。話したくなかったら、一生話さなくたっていい。昔みたいに、楽しそうに笑うひまをもう一度見てみたい。それだけだ。

 下駄の音をさせ、こちらを見ているひまへ、ゆっくりと近づいた。

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