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1巻
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テレビの音で目が覚めた。
一瞬、ここはどこだろうと目を疑ったが、すぐに思い出す。
(私、昨日出会ったばかりの人と飲みに行き、勢いのままホテルに入って……抱かれたんだ)
ぼんやりしたまま顔だけ動かして視線を移すと、ベッドの端に腰を掛けている北村さんの背中があった。起きたばかりなのか、彼もまだ裸でいる。
北村さんの向こう側にテレビがあるらしく、ここからだと画面が見えない。音だけ聞いていると、昔のドラマの再放送みたいだ。こういう番組がやっている時間ということは、もう朝の十時は過ぎているはず。
――思わせぶりなことばかりしないで! 私のことなんて、好きでもなんでもないくせに。
――違うんだ、そうじゃない。君は僕の太陽だ! だから……僕から離れないでくれ!
普段なら鼻で笑ってしまうようなドラマのセリフが、妙に心に響く。
キザでクサいセリフだけど、その人の本気の心が入っていればきっとすごく嬉しい言葉だ。
二年半付き合っていた彼に、こんな言葉をもらったことは一度もなかった。私にそれほど本気ではなかったのだろう。彼が本気になったのは、新しく好きになった女性のほうだ。
自分の何がいけなかったのか。
彼を惹きつけておけなかった私が悪いの? そうだ、それが答えなんだと、この二か月間、何度も何度も自問自答してきた。
苦しくて苦しくて……出会ったばかりの人と、こんなことまでしている自分が、虚しい。
北村さんの背中を見つめていると、婚約破棄されてからいままでずっと出ることのなかった涙が、目にあふれた。ぽろぽろこぼれて横に流れていく。
同じ気持ちを味わったに違いない北村さんの気持ちを考えると、よけいに泣けてきて止まらなかった。
(つらかっただろうな。つらくてつらくて、私みたいにきっと、自分を責めているんだろう。だから昨日、私とあんなふうに過ごしたんだ……)
ふいに彼の背中にすがりつきたくなる。でも、そんなことをしても迷惑なだけだ。
私はその衝動を我慢しながら涙を拭おうとして、「ぐすん」と鼻を鳴らしてしまった。
「あ、すみません、起こしちゃいましたか。うるさかったですよね」
振り向いた北村さんが申し訳なさそうな顔をする。涙を見られてしまったかもしれない。
「い、いえ、全然大丈夫、で……す」
咄嗟に顔をそらそうとすると、こちらへ伸びた彼の手に、頭をぽんぽんとされた。
「っ……!」
彼の行動に動揺する。ベッドでめそめそ泣いている女なんて鬱陶しいだろうと思ったのに。
「なんでフッたりしたんでしょうね。こんなにカワイイのに」
思わぬ言葉を受けて、動揺が増した。どうしていいかわからなくなった私は、シーツにくるまったまま、じっと固まる。
北村さんの手が私の髪を撫でた。その感触があたたかくて、また涙があふれてくる。
心のなかに溜まっていたものが、どんどん流れ出して、綺麗に洗われていく気がする。彼は何も言わずに私の髪を撫で続け、こぼれる涙を拭ってくれた。
優しい時間だった。
テレビから聞こえる音はドラマから天気予報に変わっている。今日もいいお天気らしい。
「眠れました?」
私の涙が止まった頃、北村さんはふと気づいたように言葉を口にした。
「眠れました。あなたは?」
「俺も眠れました。久しぶりに、ぐっすり」
改めて、明るいなかで顔を見合わせた。
北村さんの髪がはねている。起きたばかりで、まだ寝ぼけているみたいな表情をしていた。こういう無防備な男の人の顔を久しぶりに見た。
「俺……目が覚めて、思ったんです。いろいろわかってなかったんだなって」
彼は再び背を向け、ぽつぽつと話し始める。
「婚約破棄されてからずっと、心のなかで自分を責めてました。浮気された自分が悪い。彼女の気持ちに気づかなかった自分がいけない。そんなふうに考えて、彼女を問い詰めることすらせずに、無理やりこの現状を受け入れてました。すがったりするのはカッコ悪いし、どうせ自分がいけないなら、もういいやって」
胸の奥がひりひり痛んだ。あまりにも私と同じ思いをしているこの人に、親近感や同情、共感以上の何かを感じているのに、それがなんなのかを、うまく表現することができない。
「でも今朝目が覚めて、もしかして俺だけが悪いんじゃなくて、お互い様だったんじゃないかと、そう思えたんです」
「お互い様?」
「俺も彼女も、自分のことしか見えてなかった。相手の気持ちをよく知ろうとしなかった。俺が気づいてやれなかったように、向こうも、こうなった時の俺の気持ちは何も考えていなかったんだろうって」
苦笑した北村さんは、顔だけこちらを振り向いた。
「なんかふと、そう思ったんです。いや、思えたっていうのかな。いままではそんなこと考えつきもしなかったんですが、あなたと寝て、あなたの寝顔を見ていたら、なんかそう、思えた」
微笑んだ彼の瞳に、私の心臓がきゅっと掴まれる。
切なくて、痛い。痛いけれど、昨日とは違う。ただつらいだけの痛みではなく、真っ暗闇の中の小さな灯りのような光が混じる、ホッとする痛みだ。
「仕事が忙しくて彼女に寂しい思いをさせていた俺が悪いのは、そうなんですけど、それで離れていったなら仕方がない。彼女はそういう俺を理解できなかったし、それが悪いことではないとも感じてきたんです。……って、何言ってるのか、よくわからないですよね」
「ううん。なんとなくわかります。私も北村さんと同じように、自分の何が悪かったんだろう、私だけが悪かったんだって、そう考えていました。この二か月間ずっと……ずっと同じところをぐるぐる回っていたんです」
家族にも友人にも言えなかった言葉が、するすると唇からこぼれていく。
「だからいまの北村さんの言葉で、私も軽くなった気がします。お互い様って思ってもいいのかなって」
彼が今度は体ごとこちらを向き、私を見つめた。
「……俺」
「はい」
「あなたのこと、ちゃんと慰められましたか? 昨夜は俺ばっかり、その、気持ちよくなってたっていうか。自分本位だったでしょう?」
「全然そんなことないです」
「本当に?」
「十分慰めてもらいました。私もすごく、その……よかったです。私のほうこそ、あなたを慰めてあげられましたか?」
「ええ。俺も十分慰められました」
クスッと笑い合う。私の心にあった硬いしこりが昇華されていくようだ。
慰め合ったのが、この人でよかった。彼もそう思ってくれたなら嬉しい。
「出ましょうか」
「ええ」
私たちは順番にシャワーを浴び、支度を整えてホテルの部屋を出た。
空は天気予報通りの五月晴れだ。日は既に高く昇って、辺りは初夏の眩しさに満ちている。
私たちは駅のそばで立ち止まった。北村さんが私に向き合い、ぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございました」
「こちらこそ……ありがとうございました」
新宿駅は多くの人が行き交い、今日も賑やかだ。ここはいつでも変わらない。私たちがどんな関係かを気にする人なんて、誰ひとりいない。
私はすっきりした気持ちで彼を見上げた。きっともう、北村さんに会うことはないのだろう。
彼がここから何線の電車に乗るか知らないし、もちろんどこに住んでいるのかもわからない。何をしている人なのかも、どんな人が彼の婚約者だったのか、も。
「お元気で、北村さん」
「あなたも。加藤さん」
挨拶をし、私が先に彼に背を向けて数歩進んだ時だった。
「あの……!」
後ろから声をかけられた。振り向く前に、北村さんが私の前に回り込んでくる。
驚いて立ち止まると、彼は切羽詰まったような表情で私の顔を見つめた。
「あなたが――」
そう言ったあと一瞬口をつぐんでから、彼は続ける。
「加藤さんが元気になったかどうか、いつか確認できたらいいなと」
「え?」
「……だからその……加藤さんの連絡先を教えてもらえませんか? SNSとかのメッセージの送り先だけでいいんで。俺のことも報告したい、ですし」
目を泳がせながら、あれこれ言葉を選んでいる彼がかわいく思えて、笑いが込み上げる。
「ふっ」
「笑うことないじゃないですか。こっちは真剣なのに」
「ごめんなさい。うん、わかりました」
むくれた北村さんに向けてスマホを見せると、彼もスマホをポケットから取り出した。メッセージを送れるSNSを教え合う。
「俺も元気になったら、連絡入れます。いつになるかは、わかりませんけど」
「その頃には私も、胸を張って元気になったと言えるようになっていたいです」
「その時は俺、あなたの本当の笑顔を見てみたい、です」
微笑んだ北村さんの表情に胸がきゅんとした。少しだけ、別れがたくなっている自分に気づく。
「じゃあ、お元気で」
「あなたも」
今度は私が、雑踏に紛れていく彼の背中を見送る。
北村さんと過ごして、心がうんと軽くなった自分に気づいた。肩に背負った重たい荷物をようやく下ろせたみたいな、そんな気分だ。
やっと涙を流せるようになったのは、私と同じ目に遭い、同じ気持ちを持っていた彼を知って、心が緩んだからだろう。そして、彼が思いのほか、とても優しかったから……
いつかまた、それこそ何年後かに彼と会うことがあったら、心からの笑顔でもう一度お礼を言おう。
私はあなたに救われました、と。
心に生まれた大切な思いを、私はそっと胸にしまった。
◆ ◆ ◆
まだ梅雨が明け切らない七月初旬。道端に並ぶ木々の、雨粒が滴る濡葉色が美しい。
そんなしとしと降り続ける雨のなか、俺は海猫ハウジングのビルに向かって歩いていた。
「北村様、こちらへどうぞ」
案内された会議室には人事部長と、今回の企画にかかわる社員がふたり待っている。俺は机の前に座り、差し出された資料に目を通す。
「応募総数は千二百七十二件。そのなかから私どもで選んだ十人の方の資料です」
「ありがとうございます」
俺が代表を務める建築事務所ノースヴィレッジアーキテクツと、大手不動産会社である海猫ハウジングが打ち出した、新しいコラボレーション企画。それが古民家をリノベーションしたシェアハウスだ。今日はその企画のために集まった。
ノースヴィレッジアーキテクツは主にリノベーションを請け負っている建築事務所で、代表である俺と、俺と年齢の近い社員が三人だけの、新進気鋭の若手建築士の集まりだ。
今回は、海猫ハウジングが提案する「古民家再生プロジェクト」事業のための試みに、うちが古民家のリノベーションを引き受けた。そこはシェアハウスになるのだが、本格的に貸し出しを始める前にモニターを募集し、住み心地を検証してもらうのだ。
渡されたモニター候補についてまとめた資料を見ていた俺は、思わず声を上げてしまった。
「えっ!?」
「どうされました?」
「いや、いえ、なんでもないです。すみません」
用意されたペットボトルの水を飲んで、気持ちを落ち着ける。もう一度資料に目をやった。
そこに書かれていた人物。
――加藤星乃。二十八歳。女性。
これは、新宿で出会い、俺とひと晩過ごした加藤さん、ではないか?
スマホで交換した彼女のメッセージの登録名は「ほしの」だった。年齢も彼女と同じだ。
応募の日付は四月の頭。俺と出会ったのは五月中旬だから、その一か月以上前か。
とりあえず彼女の志望動機を読む。
――結婚式の準備が終わる直前に婚約破棄をされ、職も失い、何もかもどうでもよくなって、どこまで運がないか試してみようと、ダメもとで応募してみました。
「ぶは……っ! あ、たびたびすみません」
間違いない、加藤さんだ。婚約破棄されて自棄になり、シェアハウスに申し込んできたのか。
「ああ、その方の志望動機ですか。正直でいいですよね」
俺の手もとを見た女性社員がにこやかに笑う。
「ええまぁ、ほんとに、正直ですよね、はは」
正直すぎるだろ……と突っ込みたくなるのをなんとかこらえ、加藤さん以外の全ての資料にも目を通す。
「この十人の方との面談のあと、三人にしぼる予定ですが、最終的な判断は北村社長にお願いします」
人事部長に頼まれる。
「よろしいんですか?」
「ええ。シェアハウスに住む二十代から三十代の男女と歳が近い北村社長に選んでもらったほうがよいとの、うちの深草の判断です」
深草というのは海猫ハウジングの社長だ。
そして、四人で面談のスケジュールや進行を確認していった。
「これでよろしければ、当選者にはこちらから連絡のメールを入れますので」
「ありがとうございます。私のほうに何も不都合はありませんので、この方たちでお願いします」
「わかりました。では後日改めまして、面談についてのご連絡を差し上げます」
「よろしくお願いします」
「ご足労おかけしました」
打ち合わせが終わり、海猫ハウジングを出る。
その時になっても、加藤さんらしき人の書類が頭から離れなかった。
縁があるのだろうか。「加藤さん」と。
(本人に確かめてみたいが、違ったら個人情報の流出になる。ここは様子を見よう。……まず加藤さんに間違いないと思うが)
婚約指輪を売りに行った日から一か月半が経つ。あの日出会った、自分と同じ立場の女性。あんな都会の真んなかで出会うのは宝くじに当たるようなものだ。
偶然が重なって一緒に居酒屋で飲み、意気投合した。ホテルに誘ったのは俺だ。
無理して笑っている彼女を、このまま帰したくない。もっとそばにいたい。そして――
あの朝、彼女の寝顔を見つめていたら、自分のなかにある暗いものが全て昇華されていく気がした。忙しすぎて元カノにかまってやれなかった負い目も、簡単に婚約破棄された自分の価値のなさも、全部。
加藤さんと別れがたくなった俺は、またすぐにでも会いたくて無理やり連絡先を交換したのだ。
(でも彼女は俺に再び会いたいとは思わなかったかもしれない。……連絡先を聞いた時、冗談だと思ったのか、笑ってたもんな)
だから連絡はしていない。いまもしないと決めた。面談当日まで知らんフリしていよう。
それから二週間後の今日、シェアハウスのモニターを決める面談が行われる。
当選者全員から、面談に出席する旨の返信メールがきているそうだ。ということは、当然加藤さんもそのなかにいるわけで……
いや、本人に確認を取っていないので確実に加藤さんだとは言えない。だが可能性は高いのだ。
いよいよ今日、彼女に再会できるかもしれない。
俺は気持ちが高揚して、居ても立ってもいられなかった。
「……なんなんだよ、俺は」
「どうした?」
ニヤける俺を、社員の内村が不審な顔で見る。ひとつ歳上の彼は優秀な建築士だ。いずれこの会社は彼に任せるつもりでいる。
「いや、なんでも……。じゃあ行ってくる」
「海猫ハウジングだね、行ってらっしゃい」
内村に見送られて事務所を出た。
梅雨は明けている。照りつける日差しを浴びながら、俺は黒いジャケットを手にアスファルトの上を歩いた。さあ夏本番だと言わんばかりの蝉の声が、うるさいくらいに降ってくる。
海猫ハウジングに到着すると、先日と同じメンバーに迎えられて面談室に入った。人事部長とこの企画に携わるふたりの社員だ。
「本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いいたします」
応募者の詳しい個人情報が書かれた資料を渡された。海猫ハウジングが応募者とメールでやり取りしたもので、先日見た情報に追加されている。
パラパラとめくって確認していく。二十代が六人、三十代が四人。男女半々だ。職種や趣味嗜好、現住所と電話番号なども書かれていた。
(「加藤」さんの趣味は料理。苦手な食べ物はウニか……、珍しいな)
仕事だというのに加藤さんのことばかり気になって仕方がない。
「最初の面談の方がいらしています。どうされますか?」
しばらくすると、ドアから入ってきた社員が人事部長に尋ねる。部長は頷き、俺を見た。
「では始めましょうか。北村さん、よろしいですか?」
「ええ、始めましょう」
メガネをかけ直し、姿勢を正す。
ひとりひとり、たっぷり時間をかけて面談をしていった。
そしていよいよ、ラストが加藤さんだ。
「加藤星乃さん、どうぞ」
部長が名を呼び、ドアがトントンと叩かれる。
「失礼します」
彼女の声だ。間違いない。
周りに聞こえそうなくらいに、ドクンドクンと鼓動が鳴り響いている。彼女がどういう反応をするのか楽しみで、怖い。いやそれよりも、俺に気づかないどころか、忘れられていたら――
室内に入ってきた加藤さんはお辞儀をして、顔を上げた。
「あっ……!?」
「どうされました?」
驚く加藤さんに部長が怪訝な顔をする。
「い、いえっ、なんでもないです。すみません」
「どうぞ、そちらにお掛けください」
「……失礼、します」
彼女は勧められた椅子に座った。あそこまで動揺しているということは、俺だとわかったのか。忘れられていなかったことにひとまず安心しつつ、冷静なフリをして資料に目を落とした。
(偶然にもほどがあると思っているかな? 俺もそう思ってるよ、加藤さん。聞きたいことはあるだろうが、いまはまずシェアハウスの面談にお互い集中しよう)
彼女の視線が俺に向いているのがわかった。その視線がくすぐったい。
「海猫ハウジングの人事担当の鳥羽と申します。こちらが建築設計事務所ノースヴィレッジアーキテクツの北村代表取締役。そして、弊社の古民家再生プロジェクト担当の小菅と井ノ原です。どうぞよろしくお願いいたします」
ふむふむと話を聞いていた加藤さんは、俺の名前が出た時だけ、目を見ひらいた。「北村」だと確信したのだ。わかりやすい彼女の表情を見た俺は、思わず笑いそうになるのをこらえる。
「どうぞ、そちらの資料をご覧ください」
彼女は部長に言われるがまま、机上に置いてあった資料をめくってなかを見た。部長の説明は続く。
「弊社が推進する古民家再生プロジェクトの一環として『古民家リノベーションでシェアハウスをする独身二十代、三十代の男女』を募集いたしました。応募要項と照らし合わせて、加藤さんのお話を伺わせていただきますが、よろしいでしょうか」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「加藤さんのお住まいは都内近郊ですね」
「はい。田園都市線を使っています」
だとすると、渋谷で乗り換えて新宿にきたのか。と、あの日の加藤さんを妄想する。
「加藤さんがご応募いただいた動機に『結婚式の準備が終わる直前に婚約破棄をされ、職も失い、何もかもどうでもよくなって、どこまで運がないか試してみようと、ダメもとで応募してみました』とありますが」
「ごほっ」
まさか部長がそこを繰り返すとは思わず、俺は噴き出しそうになった。どうにか咳としてごまかせたと思ったのに、加藤さんが俺をにらんでいる……!
「失礼しました。どうぞ続けてください」
俺は加藤さんから目をそらして先を促した。
「では改めまして。失礼ですが、加藤さんは現時点でお仕事のほうは、お決まりになりましたか?」
「い、いえ、まだ何も」
いたたまれなさそうに加藤さんが肩を縮こまらせた。そんなふうに思わなくていいと、彼女に寄り添いたくなる衝動が起こる。婚約破棄をされたのも、職を失ったのも、君のせいではない。
「教えていただき、ありがとうございます。それでは合格した場合のお話をさせていただきますね。資料の三ページをおひらきください」
部長に言われ、全員が古民家再生プロジェクトの資料ページをめくる。
「そちらに掲載されているのが今回のシェアハウスとなる古民家です。リノベーションは全て終わっておりますので、なかは新築と変わりありません。仕様はそちらに掲載されているものをお読みください」
「わぁ、素敵ですね!」
加藤さんの明るい声が響き、俺の胸がずきっと痛んだ。
(なんだろう、この感情は。彼女が元気そうなのは俺にも喜ばしいことなのに。立ち直ったのに俺に連絡をくれなかったからか……? いやまだ本当に元気になったわけじゃないかもしれない。というか面談に集中しろ)
古民家をリノベーションしたシェアハウスは、味のある古い建物だが、ドアや窓は新しくモダンなものに替えた。室内も、特に共同の水回りは、清潔感あふれるようにと工夫している。
「シェアハウスは四人が暮らせる仕様です。二階は女性がふたり、一階は男性がふたり。それぞれの階にバス、トイレがついていますので男女で共用することはありません。キッチンとリビング、テラスは共用です。こちらを一年間、無料で提供いたします。ここまでで何かご質問はございますか?」
「いえ、大丈夫です」
加藤さんは勧められた麦茶を飲んだ。俺は彼女がそれを飲み終えたのを確認して、小さく息を吸い込む。
「では次に、私のほうからモニターとしての条件をご説明します。ノースヴィレッジアーキテクツの北村です、よろしくお願いします」
冷静な声を出せたことにホッとする。だが、目が合うたびに内心動揺しているのが、彼女に伝わっていないだろうか。とにかく、彼女との二か月ぶりの会話だ。
「よろしくお願いします」
「まず、週二回以上キッチンで料理を作り、全員、もしくは都合のつく数人で食べてください。その様子をこちらが用意したブログに投稿していただきます。本名や顔出しはしなくて結構です。個人のSNSやブログに投稿することはやめてください」
「はい」
「こちらで提供する家電、家具、キッチン用品など、インテリア製品に関する使い勝手などもブログに投稿してください。シェアハウスそのものの使い心地や光熱費の抑え方の工夫など、生活全般に関することもどんどん投稿していただきたいです。モニターの方にお願いしたいのはシェアハウスの宣伝です。いいところも悪いところも、素直に感じたことを書き込んでくださればと思います。加藤さんはその点、応募要項のように思ったままを書いていただけそうですので期待しています」
ふたりにしかわからない冗談のつもりで、にっと笑いかけたが、どうやら逆効果だったらしい。ムッとされてしまい、内心動揺する。
「お部屋の仕様について、何か心配事はありませんか」
俺の説明が終わり、にこやかに笑った女性社員の小菅さんが、加藤さんに尋ねる。
「えっとそう、ですね。音はやっぱり響くんでしょうか」
「できる限り防音対策はしてありますが、木造ですので鉄筋造りよりは響きますね。ただ、声が筒抜けということはないです」
「そうですか。募集は四人、ということですか?」
俺が加藤さんを選べば、彼女はシェアハウスに住むことになる。そこには男がふたり入って、彼女と同じ家で生活するんだ。――想像した途端、焦燥感に駆られた。
「いえ、募集は三人になります。弊社か、ノースヴィレッジアーキテクツさんからひとり参加する予定です。まだ誰が参加するかは未定なんですが――」
「いや、私が参加しますので」
俺は右手を上げて、小菅さんの発言を遮った。ほとんど条件反射に近い。
「え!? 北村社長がですか?」
「ええ。させてください」
鳥羽さんと小菅さんが明らかに動揺している。それはそうだろう。俺だってついさっきまでは、そんな気持ちは少しもなかった。
シェアハウスに入居するのは面倒極まりない。既に忙しいいまよりも、この先もっと忙しくなるのはわかっているのに、彼女の顔を見て声を聞いていたら我慢できなくなった。
「北村社長がよろしければ、こちらはかまわないのですが……本当にいいのですか?」
「ええ。私が責任もって、シェアハウスのメンバーに何事もないようにしますので」
「それは安心ですけど……そうですか。まぁ、その話はこのあと、もう一度相談しましょう」
「そうですね。急にすみません」
一瞬、ここはどこだろうと目を疑ったが、すぐに思い出す。
(私、昨日出会ったばかりの人と飲みに行き、勢いのままホテルに入って……抱かれたんだ)
ぼんやりしたまま顔だけ動かして視線を移すと、ベッドの端に腰を掛けている北村さんの背中があった。起きたばかりなのか、彼もまだ裸でいる。
北村さんの向こう側にテレビがあるらしく、ここからだと画面が見えない。音だけ聞いていると、昔のドラマの再放送みたいだ。こういう番組がやっている時間ということは、もう朝の十時は過ぎているはず。
――思わせぶりなことばかりしないで! 私のことなんて、好きでもなんでもないくせに。
――違うんだ、そうじゃない。君は僕の太陽だ! だから……僕から離れないでくれ!
普段なら鼻で笑ってしまうようなドラマのセリフが、妙に心に響く。
キザでクサいセリフだけど、その人の本気の心が入っていればきっとすごく嬉しい言葉だ。
二年半付き合っていた彼に、こんな言葉をもらったことは一度もなかった。私にそれほど本気ではなかったのだろう。彼が本気になったのは、新しく好きになった女性のほうだ。
自分の何がいけなかったのか。
彼を惹きつけておけなかった私が悪いの? そうだ、それが答えなんだと、この二か月間、何度も何度も自問自答してきた。
苦しくて苦しくて……出会ったばかりの人と、こんなことまでしている自分が、虚しい。
北村さんの背中を見つめていると、婚約破棄されてからいままでずっと出ることのなかった涙が、目にあふれた。ぽろぽろこぼれて横に流れていく。
同じ気持ちを味わったに違いない北村さんの気持ちを考えると、よけいに泣けてきて止まらなかった。
(つらかっただろうな。つらくてつらくて、私みたいにきっと、自分を責めているんだろう。だから昨日、私とあんなふうに過ごしたんだ……)
ふいに彼の背中にすがりつきたくなる。でも、そんなことをしても迷惑なだけだ。
私はその衝動を我慢しながら涙を拭おうとして、「ぐすん」と鼻を鳴らしてしまった。
「あ、すみません、起こしちゃいましたか。うるさかったですよね」
振り向いた北村さんが申し訳なさそうな顔をする。涙を見られてしまったかもしれない。
「い、いえ、全然大丈夫、で……す」
咄嗟に顔をそらそうとすると、こちらへ伸びた彼の手に、頭をぽんぽんとされた。
「っ……!」
彼の行動に動揺する。ベッドでめそめそ泣いている女なんて鬱陶しいだろうと思ったのに。
「なんでフッたりしたんでしょうね。こんなにカワイイのに」
思わぬ言葉を受けて、動揺が増した。どうしていいかわからなくなった私は、シーツにくるまったまま、じっと固まる。
北村さんの手が私の髪を撫でた。その感触があたたかくて、また涙があふれてくる。
心のなかに溜まっていたものが、どんどん流れ出して、綺麗に洗われていく気がする。彼は何も言わずに私の髪を撫で続け、こぼれる涙を拭ってくれた。
優しい時間だった。
テレビから聞こえる音はドラマから天気予報に変わっている。今日もいいお天気らしい。
「眠れました?」
私の涙が止まった頃、北村さんはふと気づいたように言葉を口にした。
「眠れました。あなたは?」
「俺も眠れました。久しぶりに、ぐっすり」
改めて、明るいなかで顔を見合わせた。
北村さんの髪がはねている。起きたばかりで、まだ寝ぼけているみたいな表情をしていた。こういう無防備な男の人の顔を久しぶりに見た。
「俺……目が覚めて、思ったんです。いろいろわかってなかったんだなって」
彼は再び背を向け、ぽつぽつと話し始める。
「婚約破棄されてからずっと、心のなかで自分を責めてました。浮気された自分が悪い。彼女の気持ちに気づかなかった自分がいけない。そんなふうに考えて、彼女を問い詰めることすらせずに、無理やりこの現状を受け入れてました。すがったりするのはカッコ悪いし、どうせ自分がいけないなら、もういいやって」
胸の奥がひりひり痛んだ。あまりにも私と同じ思いをしているこの人に、親近感や同情、共感以上の何かを感じているのに、それがなんなのかを、うまく表現することができない。
「でも今朝目が覚めて、もしかして俺だけが悪いんじゃなくて、お互い様だったんじゃないかと、そう思えたんです」
「お互い様?」
「俺も彼女も、自分のことしか見えてなかった。相手の気持ちをよく知ろうとしなかった。俺が気づいてやれなかったように、向こうも、こうなった時の俺の気持ちは何も考えていなかったんだろうって」
苦笑した北村さんは、顔だけこちらを振り向いた。
「なんかふと、そう思ったんです。いや、思えたっていうのかな。いままではそんなこと考えつきもしなかったんですが、あなたと寝て、あなたの寝顔を見ていたら、なんかそう、思えた」
微笑んだ彼の瞳に、私の心臓がきゅっと掴まれる。
切なくて、痛い。痛いけれど、昨日とは違う。ただつらいだけの痛みではなく、真っ暗闇の中の小さな灯りのような光が混じる、ホッとする痛みだ。
「仕事が忙しくて彼女に寂しい思いをさせていた俺が悪いのは、そうなんですけど、それで離れていったなら仕方がない。彼女はそういう俺を理解できなかったし、それが悪いことではないとも感じてきたんです。……って、何言ってるのか、よくわからないですよね」
「ううん。なんとなくわかります。私も北村さんと同じように、自分の何が悪かったんだろう、私だけが悪かったんだって、そう考えていました。この二か月間ずっと……ずっと同じところをぐるぐる回っていたんです」
家族にも友人にも言えなかった言葉が、するすると唇からこぼれていく。
「だからいまの北村さんの言葉で、私も軽くなった気がします。お互い様って思ってもいいのかなって」
彼が今度は体ごとこちらを向き、私を見つめた。
「……俺」
「はい」
「あなたのこと、ちゃんと慰められましたか? 昨夜は俺ばっかり、その、気持ちよくなってたっていうか。自分本位だったでしょう?」
「全然そんなことないです」
「本当に?」
「十分慰めてもらいました。私もすごく、その……よかったです。私のほうこそ、あなたを慰めてあげられましたか?」
「ええ。俺も十分慰められました」
クスッと笑い合う。私の心にあった硬いしこりが昇華されていくようだ。
慰め合ったのが、この人でよかった。彼もそう思ってくれたなら嬉しい。
「出ましょうか」
「ええ」
私たちは順番にシャワーを浴び、支度を整えてホテルの部屋を出た。
空は天気予報通りの五月晴れだ。日は既に高く昇って、辺りは初夏の眩しさに満ちている。
私たちは駅のそばで立ち止まった。北村さんが私に向き合い、ぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございました」
「こちらこそ……ありがとうございました」
新宿駅は多くの人が行き交い、今日も賑やかだ。ここはいつでも変わらない。私たちがどんな関係かを気にする人なんて、誰ひとりいない。
私はすっきりした気持ちで彼を見上げた。きっともう、北村さんに会うことはないのだろう。
彼がここから何線の電車に乗るか知らないし、もちろんどこに住んでいるのかもわからない。何をしている人なのかも、どんな人が彼の婚約者だったのか、も。
「お元気で、北村さん」
「あなたも。加藤さん」
挨拶をし、私が先に彼に背を向けて数歩進んだ時だった。
「あの……!」
後ろから声をかけられた。振り向く前に、北村さんが私の前に回り込んでくる。
驚いて立ち止まると、彼は切羽詰まったような表情で私の顔を見つめた。
「あなたが――」
そう言ったあと一瞬口をつぐんでから、彼は続ける。
「加藤さんが元気になったかどうか、いつか確認できたらいいなと」
「え?」
「……だからその……加藤さんの連絡先を教えてもらえませんか? SNSとかのメッセージの送り先だけでいいんで。俺のことも報告したい、ですし」
目を泳がせながら、あれこれ言葉を選んでいる彼がかわいく思えて、笑いが込み上げる。
「ふっ」
「笑うことないじゃないですか。こっちは真剣なのに」
「ごめんなさい。うん、わかりました」
むくれた北村さんに向けてスマホを見せると、彼もスマホをポケットから取り出した。メッセージを送れるSNSを教え合う。
「俺も元気になったら、連絡入れます。いつになるかは、わかりませんけど」
「その頃には私も、胸を張って元気になったと言えるようになっていたいです」
「その時は俺、あなたの本当の笑顔を見てみたい、です」
微笑んだ北村さんの表情に胸がきゅんとした。少しだけ、別れがたくなっている自分に気づく。
「じゃあ、お元気で」
「あなたも」
今度は私が、雑踏に紛れていく彼の背中を見送る。
北村さんと過ごして、心がうんと軽くなった自分に気づいた。肩に背負った重たい荷物をようやく下ろせたみたいな、そんな気分だ。
やっと涙を流せるようになったのは、私と同じ目に遭い、同じ気持ちを持っていた彼を知って、心が緩んだからだろう。そして、彼が思いのほか、とても優しかったから……
いつかまた、それこそ何年後かに彼と会うことがあったら、心からの笑顔でもう一度お礼を言おう。
私はあなたに救われました、と。
心に生まれた大切な思いを、私はそっと胸にしまった。
◆ ◆ ◆
まだ梅雨が明け切らない七月初旬。道端に並ぶ木々の、雨粒が滴る濡葉色が美しい。
そんなしとしと降り続ける雨のなか、俺は海猫ハウジングのビルに向かって歩いていた。
「北村様、こちらへどうぞ」
案内された会議室には人事部長と、今回の企画にかかわる社員がふたり待っている。俺は机の前に座り、差し出された資料に目を通す。
「応募総数は千二百七十二件。そのなかから私どもで選んだ十人の方の資料です」
「ありがとうございます」
俺が代表を務める建築事務所ノースヴィレッジアーキテクツと、大手不動産会社である海猫ハウジングが打ち出した、新しいコラボレーション企画。それが古民家をリノベーションしたシェアハウスだ。今日はその企画のために集まった。
ノースヴィレッジアーキテクツは主にリノベーションを請け負っている建築事務所で、代表である俺と、俺と年齢の近い社員が三人だけの、新進気鋭の若手建築士の集まりだ。
今回は、海猫ハウジングが提案する「古民家再生プロジェクト」事業のための試みに、うちが古民家のリノベーションを引き受けた。そこはシェアハウスになるのだが、本格的に貸し出しを始める前にモニターを募集し、住み心地を検証してもらうのだ。
渡されたモニター候補についてまとめた資料を見ていた俺は、思わず声を上げてしまった。
「えっ!?」
「どうされました?」
「いや、いえ、なんでもないです。すみません」
用意されたペットボトルの水を飲んで、気持ちを落ち着ける。もう一度資料に目をやった。
そこに書かれていた人物。
――加藤星乃。二十八歳。女性。
これは、新宿で出会い、俺とひと晩過ごした加藤さん、ではないか?
スマホで交換した彼女のメッセージの登録名は「ほしの」だった。年齢も彼女と同じだ。
応募の日付は四月の頭。俺と出会ったのは五月中旬だから、その一か月以上前か。
とりあえず彼女の志望動機を読む。
――結婚式の準備が終わる直前に婚約破棄をされ、職も失い、何もかもどうでもよくなって、どこまで運がないか試してみようと、ダメもとで応募してみました。
「ぶは……っ! あ、たびたびすみません」
間違いない、加藤さんだ。婚約破棄されて自棄になり、シェアハウスに申し込んできたのか。
「ああ、その方の志望動機ですか。正直でいいですよね」
俺の手もとを見た女性社員がにこやかに笑う。
「ええまぁ、ほんとに、正直ですよね、はは」
正直すぎるだろ……と突っ込みたくなるのをなんとかこらえ、加藤さん以外の全ての資料にも目を通す。
「この十人の方との面談のあと、三人にしぼる予定ですが、最終的な判断は北村社長にお願いします」
人事部長に頼まれる。
「よろしいんですか?」
「ええ。シェアハウスに住む二十代から三十代の男女と歳が近い北村社長に選んでもらったほうがよいとの、うちの深草の判断です」
深草というのは海猫ハウジングの社長だ。
そして、四人で面談のスケジュールや進行を確認していった。
「これでよろしければ、当選者にはこちらから連絡のメールを入れますので」
「ありがとうございます。私のほうに何も不都合はありませんので、この方たちでお願いします」
「わかりました。では後日改めまして、面談についてのご連絡を差し上げます」
「よろしくお願いします」
「ご足労おかけしました」
打ち合わせが終わり、海猫ハウジングを出る。
その時になっても、加藤さんらしき人の書類が頭から離れなかった。
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(本人に確かめてみたいが、違ったら個人情報の流出になる。ここは様子を見よう。……まず加藤さんに間違いないと思うが)
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加藤さんと別れがたくなった俺は、またすぐにでも会いたくて無理やり連絡先を交換したのだ。
(でも彼女は俺に再び会いたいとは思わなかったかもしれない。……連絡先を聞いた時、冗談だと思ったのか、笑ってたもんな)
だから連絡はしていない。いまもしないと決めた。面談当日まで知らんフリしていよう。
それから二週間後の今日、シェアハウスのモニターを決める面談が行われる。
当選者全員から、面談に出席する旨の返信メールがきているそうだ。ということは、当然加藤さんもそのなかにいるわけで……
いや、本人に確認を取っていないので確実に加藤さんだとは言えない。だが可能性は高いのだ。
いよいよ今日、彼女に再会できるかもしれない。
俺は気持ちが高揚して、居ても立ってもいられなかった。
「……なんなんだよ、俺は」
「どうした?」
ニヤける俺を、社員の内村が不審な顔で見る。ひとつ歳上の彼は優秀な建築士だ。いずれこの会社は彼に任せるつもりでいる。
「いや、なんでも……。じゃあ行ってくる」
「海猫ハウジングだね、行ってらっしゃい」
内村に見送られて事務所を出た。
梅雨は明けている。照りつける日差しを浴びながら、俺は黒いジャケットを手にアスファルトの上を歩いた。さあ夏本番だと言わんばかりの蝉の声が、うるさいくらいに降ってくる。
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「本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いいたします」
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パラパラとめくって確認していく。二十代が六人、三十代が四人。男女半々だ。職種や趣味嗜好、現住所と電話番号なども書かれていた。
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仕事だというのに加藤さんのことばかり気になって仕方がない。
「最初の面談の方がいらしています。どうされますか?」
しばらくすると、ドアから入ってきた社員が人事部長に尋ねる。部長は頷き、俺を見た。
「では始めましょうか。北村さん、よろしいですか?」
「ええ、始めましょう」
メガネをかけ直し、姿勢を正す。
ひとりひとり、たっぷり時間をかけて面談をしていった。
そしていよいよ、ラストが加藤さんだ。
「加藤星乃さん、どうぞ」
部長が名を呼び、ドアがトントンと叩かれる。
「失礼します」
彼女の声だ。間違いない。
周りに聞こえそうなくらいに、ドクンドクンと鼓動が鳴り響いている。彼女がどういう反応をするのか楽しみで、怖い。いやそれよりも、俺に気づかないどころか、忘れられていたら――
室内に入ってきた加藤さんはお辞儀をして、顔を上げた。
「あっ……!?」
「どうされました?」
驚く加藤さんに部長が怪訝な顔をする。
「い、いえっ、なんでもないです。すみません」
「どうぞ、そちらにお掛けください」
「……失礼、します」
彼女は勧められた椅子に座った。あそこまで動揺しているということは、俺だとわかったのか。忘れられていなかったことにひとまず安心しつつ、冷静なフリをして資料に目を落とした。
(偶然にもほどがあると思っているかな? 俺もそう思ってるよ、加藤さん。聞きたいことはあるだろうが、いまはまずシェアハウスの面談にお互い集中しよう)
彼女の視線が俺に向いているのがわかった。その視線がくすぐったい。
「海猫ハウジングの人事担当の鳥羽と申します。こちらが建築設計事務所ノースヴィレッジアーキテクツの北村代表取締役。そして、弊社の古民家再生プロジェクト担当の小菅と井ノ原です。どうぞよろしくお願いいたします」
ふむふむと話を聞いていた加藤さんは、俺の名前が出た時だけ、目を見ひらいた。「北村」だと確信したのだ。わかりやすい彼女の表情を見た俺は、思わず笑いそうになるのをこらえる。
「どうぞ、そちらの資料をご覧ください」
彼女は部長に言われるがまま、机上に置いてあった資料をめくってなかを見た。部長の説明は続く。
「弊社が推進する古民家再生プロジェクトの一環として『古民家リノベーションでシェアハウスをする独身二十代、三十代の男女』を募集いたしました。応募要項と照らし合わせて、加藤さんのお話を伺わせていただきますが、よろしいでしょうか」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「加藤さんのお住まいは都内近郊ですね」
「はい。田園都市線を使っています」
だとすると、渋谷で乗り換えて新宿にきたのか。と、あの日の加藤さんを妄想する。
「加藤さんがご応募いただいた動機に『結婚式の準備が終わる直前に婚約破棄をされ、職も失い、何もかもどうでもよくなって、どこまで運がないか試してみようと、ダメもとで応募してみました』とありますが」
「ごほっ」
まさか部長がそこを繰り返すとは思わず、俺は噴き出しそうになった。どうにか咳としてごまかせたと思ったのに、加藤さんが俺をにらんでいる……!
「失礼しました。どうぞ続けてください」
俺は加藤さんから目をそらして先を促した。
「では改めまして。失礼ですが、加藤さんは現時点でお仕事のほうは、お決まりになりましたか?」
「い、いえ、まだ何も」
いたたまれなさそうに加藤さんが肩を縮こまらせた。そんなふうに思わなくていいと、彼女に寄り添いたくなる衝動が起こる。婚約破棄をされたのも、職を失ったのも、君のせいではない。
「教えていただき、ありがとうございます。それでは合格した場合のお話をさせていただきますね。資料の三ページをおひらきください」
部長に言われ、全員が古民家再生プロジェクトの資料ページをめくる。
「そちらに掲載されているのが今回のシェアハウスとなる古民家です。リノベーションは全て終わっておりますので、なかは新築と変わりありません。仕様はそちらに掲載されているものをお読みください」
「わぁ、素敵ですね!」
加藤さんの明るい声が響き、俺の胸がずきっと痛んだ。
(なんだろう、この感情は。彼女が元気そうなのは俺にも喜ばしいことなのに。立ち直ったのに俺に連絡をくれなかったからか……? いやまだ本当に元気になったわけじゃないかもしれない。というか面談に集中しろ)
古民家をリノベーションしたシェアハウスは、味のある古い建物だが、ドアや窓は新しくモダンなものに替えた。室内も、特に共同の水回りは、清潔感あふれるようにと工夫している。
「シェアハウスは四人が暮らせる仕様です。二階は女性がふたり、一階は男性がふたり。それぞれの階にバス、トイレがついていますので男女で共用することはありません。キッチンとリビング、テラスは共用です。こちらを一年間、無料で提供いたします。ここまでで何かご質問はございますか?」
「いえ、大丈夫です」
加藤さんは勧められた麦茶を飲んだ。俺は彼女がそれを飲み終えたのを確認して、小さく息を吸い込む。
「では次に、私のほうからモニターとしての条件をご説明します。ノースヴィレッジアーキテクツの北村です、よろしくお願いします」
冷静な声を出せたことにホッとする。だが、目が合うたびに内心動揺しているのが、彼女に伝わっていないだろうか。とにかく、彼女との二か月ぶりの会話だ。
「よろしくお願いします」
「まず、週二回以上キッチンで料理を作り、全員、もしくは都合のつく数人で食べてください。その様子をこちらが用意したブログに投稿していただきます。本名や顔出しはしなくて結構です。個人のSNSやブログに投稿することはやめてください」
「はい」
「こちらで提供する家電、家具、キッチン用品など、インテリア製品に関する使い勝手などもブログに投稿してください。シェアハウスそのものの使い心地や光熱費の抑え方の工夫など、生活全般に関することもどんどん投稿していただきたいです。モニターの方にお願いしたいのはシェアハウスの宣伝です。いいところも悪いところも、素直に感じたことを書き込んでくださればと思います。加藤さんはその点、応募要項のように思ったままを書いていただけそうですので期待しています」
ふたりにしかわからない冗談のつもりで、にっと笑いかけたが、どうやら逆効果だったらしい。ムッとされてしまい、内心動揺する。
「お部屋の仕様について、何か心配事はありませんか」
俺の説明が終わり、にこやかに笑った女性社員の小菅さんが、加藤さんに尋ねる。
「えっとそう、ですね。音はやっぱり響くんでしょうか」
「できる限り防音対策はしてありますが、木造ですので鉄筋造りよりは響きますね。ただ、声が筒抜けということはないです」
「そうですか。募集は四人、ということですか?」
俺が加藤さんを選べば、彼女はシェアハウスに住むことになる。そこには男がふたり入って、彼女と同じ家で生活するんだ。――想像した途端、焦燥感に駆られた。
「いえ、募集は三人になります。弊社か、ノースヴィレッジアーキテクツさんからひとり参加する予定です。まだ誰が参加するかは未定なんですが――」
「いや、私が参加しますので」
俺は右手を上げて、小菅さんの発言を遮った。ほとんど条件反射に近い。
「え!? 北村社長がですか?」
「ええ。させてください」
鳥羽さんと小菅さんが明らかに動揺している。それはそうだろう。俺だってついさっきまでは、そんな気持ちは少しもなかった。
シェアハウスに入居するのは面倒極まりない。既に忙しいいまよりも、この先もっと忙しくなるのはわかっているのに、彼女の顔を見て声を聞いていたら我慢できなくなった。
「北村社長がよろしければ、こちらはかまわないのですが……本当にいいのですか?」
「ええ。私が責任もって、シェアハウスのメンバーに何事もないようにしますので」
「それは安心ですけど……そうですか。まぁ、その話はこのあと、もう一度相談しましょう」
「そうですね。急にすみません」
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