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しおりを挟むパフェグラスの内側に、輪切りの真っ赤な苺とふわふわの白い生クリームが交互に並んでいる。てっぺんには、まん丸いバニラアイスと飾りのミント。その葉をつまんで受け皿にのせた。舌触りのよい生クリームとアイスの甘さ、苺の酸っぱさが、口のなかで絶妙に混ざり合う。
「おいしい」
ひとくち食べた私――加藤星乃は、正面に座る彼に笑いかけた。頷いた彼はコーヒーカップを手にする。
表参道で待ち合わせをするのも、こんなオシャレカフェにふたりでくるのも久しぶりだ。
今日は三月十四日、ホワイトデー。チョコのお返しは前から欲しいと伝えてあったピアスだと嬉しい、なんて思うのは図々しいかな。
私は、パフェスプーンを持つ手を、ふと止めた。
そして左手の薬指に光る指輪をうっとり見つめる。
あと二か月で夢にまで見た結婚式だ。迷いに迷って選んだあのウェディングドレスを早くお披露目したい。幸せそうだねと、皆に羨ましがられたい。
いまの私には、指輪もパフェグラスも店内の灯りも、全部キラキラして見える。
(ああ、私……これからもっともっと幸せになるのね。この店内にいる人のなかで、私以上に幸せな人なんていないんじゃない?)
嬉しい気持ちがどうしても顔に出てしまう。
今日はこのあと、いよいよふたりの新居を探しに行くのだ。だから、張り切って新しいワンピースを着てきた。彼も休みの日だというのにスーツ姿で気合十分だ。
「ねえ、どこの不動産屋さんに行く?」
背筋を伸ばした私は、明るい口調で彼に話しかける。
「憧れは吉祥寺辺りだけど、会社から離れちゃうよね。それに――」
「星乃」
「ん?」
「いや、不動産屋は行かない。今日はここでおしまいなんだ」
「そうなの? このあと仕事?」
「……違う」
どうしたのだろう。今日の彼は口数が少なく、ずっと浮かない顔をしている。
仕事で疲れているのだろうか。それなら予定は延期して、彼を少しでも休ませてあげたほうがいいに決まってる。
じゃあ帰ろう、と言おうとした時、テーブルに両手を突いた彼が勢いよく頭を下げた。
「ごめん、星乃。結婚、やめよう」
「……え?」
彼の放った言葉がうまく聞き取れない。というより、理解できなかった。
「星乃との結婚、やめたいんだ俺」
結婚、やめよう? 私との結婚を? やめる? やめたい……!?
混乱した私は、普段たいして使わない頭をフル回転させて、様々な理由を脳内から探した。
「急に……どうしたの? 転勤とか? 私、海外でもどこでもついていくよ? 何か悩みがあるなら相談に乗るし、支えるし――」
「好きな人、が、できた。だから結婚……やめたい」
テーブルに額をくっつけそうな体勢のまま、彼が言う。
がっつーーーーんと、横から頭を殴られた。……ような気がした。
(何、なんなの、え、なんて……? なんて言ったの、いま、なんて……!?)
頭のなかを同じ言葉がぐるぐると回り、動悸、息切れ、目眩がいっぺんに起きる。
「好きな、人?」
好きな人ができたということは、私はあなたの好きな人ではなくなったということで、そういうことで、そういう、こと……
「本当にいまさらだけど、でもいま言わないと、星乃のこともっと傷つけるよな。……ごめん」
息がうまくできない。声も出せない。
「ごめん。本当にごめんなさい。ごめん……!」
頭を下げ続ける彼のつむじを、呆然と見つめた。パフェスプーンを持つ私の手のひらには汗が噴き出している。アイスを食べたばかりだというのに喉がカラカラだ。何か、言わなければ……
「冗談、だよね? 結婚式の招待状だって何通か返事が戻ってきてるのに、なんて話せば」
「それは、俺が連絡する」
「だって私……会社辞めちゃったよ? 皆からお祝いされて、披露宴も出るからねって、そう、約束して、もらって……」
寿退社なんて珍しいね~! と言われながらもお祝いされ辞めたのが、つい二週間前のこと。あなたもその場にいたでしょうが。それに、あなたが私に仕事を辞めろと言ったんじゃありませんでしたっけ……?
「すまない」
「お父さんも、お母さんも、妹も……皆喜んでる、よ?」
声が震えてしまう。頭が痛い。吐き気もする。
「本当に……申し訳ない」
社内恋愛して、トントン拍子に結婚が決まったあなたと私なのに。私たちの二年半はなんだったの、と罵ろうとした時、別の言葉が口を衝いて出た。
「……誰?」
「え?」
私の問いに彼が顔を上げる。その顔は私の知っている彼とは別人に見えた。
「好きな人って、私の知ってる人?」
声を絞り出すようにして彼に尋ねる。
まさか会社の人だろうか? 同僚? 先輩、後輩……そんな身近な人だったら――
「それは――」
「いい! やっぱりいい。……聞きたくない」
ダメだ。それを聞いてしまったら私、何をするかわからない。
ぐわんぐわんと頭のなかで大きな音が鳴っていて、カフェのざわめきが遠くに聞こえる。
「ね、本当なの? 何か別のことがあって嘘吐いてるとか、そういうの――」
「嘘じゃない。どうしても、星乃との結婚は無理だ」
すがりついた一縷の望みは、ぴしゃりとはねのけられた。
視界に入り込む婚約指輪の光が、心に痛い。いくら探しても次の言葉が見つからない。
「その指輪、売るなり捨てるなりしていいから」
口を引き結び、肩で小刻みに息をする私に、彼がぼそりと言った。
「返されても、困るし」
「な……っ!」
そのひと言で、一気に頭へ血が上る。グラスを掴んだ私は彼に向かって水をぶちまけた。
「うわっ!」
ばしゃんという音とともに、彼の顔もスーツも水浸しになった。
「最っっ低!!」
私はバッグとコートを持って席を立ち、出口へ急ぐ。広い店内が一瞬静かになったような気がしたけれど、どうでもいい。
大通り沿いの歩道は人で賑わい、皆、私のことなんておかまいなしだ。私は、大勢の人の流れに逆らって歩き出した。
いつの間にか空はどんよりと曇り、とても寒い。うっすら芽吹き始めた、春の気配を感じさせるけやき並木の通りを早足で抜ける。
しばらく進んで、後ろを振り返った。
もしや、などと淡い期待を持った自分は愚かだ。彼にとって私は、追いかけて言い訳をする価値もない女だということを思い知るだけだったのに。
他人の迷惑も顧みずに立ち止まり、その場で苦笑する。
「あー……はいはい、そういうこと」
彼は別れの儀式のために、わざわざスーツを着てきたのだ。
店内で一番幸せなはずの私が、実は一番不幸だったというわけね。ああ、惨めだ、滑稽だ。
「ふっ、はは……。バッッカみたい……!」
全身の力が抜ける。……パフェ、全部食べ終わってから言ってよ。
私は冬の終わりの大通りを駅に向かって走った。
「これもいらない、これも……いらない! あとは全部シュレッダー!」
二か月後。彼との思い出を、燃えるゴミとプラスチックゴミと紙ゴミに分けていく。そして、クッションの横にあるスマホに向かって指をさした。
「データもあとで全部消す!」
画像も動画もいらない。SNSは、既に彼からブロックされているのでどうでもいいけど、いっそスマホごと捨ててしまいたいくらいだ。
歯を食いしばりながら、思い出という名のゴミくずを袋のなかへぽんぽん突っ込んでいく。調子が出てきたところで、ふと小さな箱が目についた。
「これは……」
婚約指輪の入ったそれを手に取り、じっと見つめる。
カフェで彼に水をぶちまけた一週間後、私たちは示談で婚約破棄を成立させた。ズルズルと引きずるよりはいいのだろうが、それにしても彼の行動は素早かった、と思う。
そのあと彼から個人的に連絡があったのは、私宛てに郵送された手紙のみだ。
内容は、結婚式の招待状を送った人たちへ詫び状を出しておいたこと、式に関する諸々のキャンセル料を支払ったこと、慰謝料を私の口座に振り込んだこと、という事務的なものだった。
詫び状だけでは申し訳ないと、私の両親が親戚に連絡をし、改めてお詫びの品を送っている。私も電話口で謝罪をした。こちらは何も悪くないのになぜ謝らなければならないのだろうと、ぼんやり考えながら。
そうしてしばらく「彼女とは別れた。やっぱりお前が一番だ。やり直そう」と彼が言ってくれるのを待っていた私は、本当に馬鹿だったと思う。
「だからこれも、いらんっ!」
指輪の入った小箱を頭上に振り上げ、袋にぶち込もうとして……やめた。そっとフタを開ける。
「分別しないと」
あんなにもきらびやかだった指輪が、いまはとても哀れに見える。捨てられた私みたいだ。
「……指輪に罪はない、か」
頭の片隅にこびりついている彼の言葉を思い出した。
売るなり捨てるなりしていいと言っていたが、捨てるのはやめたい。かといって持っているのもイヤだ。それなら残る方法はひとつ。
「よし、売ってくる! 売ってやるんだからね!」
フタを閉めた小箱をベッドの上に放り投げた。明日にでも売ってしまおう。
「さてお次は、これらの処分」
床に散らばるふたりで行った旅先のパンフや、映画や美術館のチケットなどを、わしづかみにする。後生大事に取っておいたそれらをシュレッダーに突っ込んだ。
「あはは、よく切れるう~! ネット通販シュレッダー部門一位なだけあるわ~!」
「おねーちゃん、うるっさい! 何やってんの、さっきから」
部屋のドアがバンと開き、妹の春乃が入ってきた。
「あー、ごめん。うるさかった?」
口を尖らせていた妹は、部屋の状況を見てハッとする。
「あ、こちらこそごめん。整理中だったのね」
「まぁ、ね」
「いいことじゃん、そうやって前に進むのは」
「……そう?」
目を伏せて苦笑しながら、私は別の紙類を掴む。
彼と別れて以降、私は映画のDVDを取っ替え引っ替え見ていた。恋愛以外のSFやホラーやアクションものを選び、何もかも忘れてストーリーに入り込み、驚き、怯え、スカッとして、楽しんでいる。
スマホで連絡を取り合う友人らは、私に気を遣ってよけいな話題は振ってこない。
映画の他には漫画を読み、ロック系の音楽を聴き、好きな時間に起きて、好きな時間に眠った。
私には未だに彼との婚約破棄が他人ごとに感じられて、いつまで経っても実感が湧かない。ごはんを普通に食べ、家族と一緒にテレビを見て、普段通り笑っている。
涙も全然、出なかった。
翌日、遅い昼ごはんを食べていたら、二時を回っていた。
私は、自宅の最寄り駅から田園都市線に乗り、渋谷で乗り換え、新宿で降りる。駅を出ると、ビルの合間から覗く空は真っ青な五月晴れだった。土曜日の午後ということもあり、東口駅前はたくさんの人であふれている。
人ごみにまざるのは久しぶりだ。婚約破棄されてから約二か月間もこもっていた私には、初夏の日差しが目に沁みる。
「よし、行こ」
気合を入れて、歩道を歩き出す。
大通りから一歩入ったビルの一階に、目的の店はあった。ブランド品の買い取りショップだ。整理券を渡され、簡易ブースの前に座る。ドアは三つあり、番号順になかへ入っていく仕組みらしい。
「二十三番の方、一番のドアへどうぞ」
呼ばれた私はなかへ入る。男性店員が机の向こうに座っていた。店員の後ろには棚があり、様々なものが置かれている。全て買い取った品だろう。
「大変お待たせいたしました。どうぞ、そちらへお掛けください」
「失礼します」
店員と机を挟んで向かい合わせに座った。
「本日はどういったものを、お持ちでいらっしゃいますか」
「指輪なんですが……」
鞄を探って、婚約指輪の小箱と鑑定書を机に置く。
「ではお預かりいたします」
白い手袋をはめた店員は、小箱から指輪を取り出した。
「失礼ですが、こちらは婚約指輪になりますでしょうか?」
「え、ええ。そうです」
「かしこまりました」
私は今日、この婚約指輪を売るために、わざわざ新宿までやってきたのだ。
彼に指輪を買ってもらった時は、結婚資金に回してほしいから安いのでいいと言ったのだけど……それでも二十万円はしたはず。購入して半年も経っていないから、結構いいお値段がつくかもしれない――などと少し期待する。
宝石鑑定用のルーペを脇へ置き、かちゃかちゃと電卓を叩いた店員は、それを私へ見せた。
「こちら、二万五千円でのお引き取りとなりますね」
「……へ?」
半額にもほど遠い値段が表示されている。驚いて声を上げたその時――
「婚約指輪なのに!?」「婚約指輪ですよ!?」
(な、何よ、いまの声?)
私の言葉と「婚約指輪」の部分が被った男性の声が、隣のブースから確かに聞こえた。
それに動揺しながらも、私は目の前のスタッフに向けて言葉を続ける。
「その指輪、購入してまだ半年も経っていないんです。ほとんど身に着けていないし、値段も二十万はしたはずなんですが……」
もしかすると、隣のブースの男性も私と同じ立場で、思わず叫んでしまったのだろうか。いや、世のなか、婚約破棄された人なんて、そうそういるわけがないか。
「大変申し訳ないのですが、その『婚約指輪』というのがネックでして。多分、他店に行かれても同じ結果になるかと」
「そうなんですか……?」
「売られた婚約指輪というのは、その、……あまりいい意味の代物ではないと思われてしまいがちでして」
「結婚がうまくいかなかった人が売りにくる、と」
「そうではない方もいらっしゃるのでしょうが、世間一般の受け止め方としては、はい」
不幸の象徴というわけだ。私は小さくため息を吐いた。
「そんなの誰も欲しくないですもんね」
「ご理解いただけると助かります」
「わかりました。その金額でお願いします」
「かしこまりました。ありがとうございます」
私が買ったものではないのだし、もともとそれだけの価値だと考えれば諦めもつく。
お金を受け取った私は、ドアを開けてさっさとブースを出た。同時に隣のドアが開き、男性が出てくる。
(さっき私と同時に叫んだ人、だよね?)
私の視線に気づいた彼が、ゆっくりとこちらを向いた。
振り向いたその人は、なかなかの爽やかイケメンくんだ。スクエアフレームのメガネをしている。すらっとした背丈は一七五センチ以上はありそうだ。私が一五五センチだから二十センチの差はある。色味の綺麗なブルーのシャツにジャケット、ラフなパンツを穿いていた。清潔感があり、オシャレな雰囲気を纏っている。年は私と同じ二十代後半とみた。
こんな人がフラれて婚約破棄されるわけないか……と思っていると、私と目が合った彼はばつが悪そうに苦笑した。
「……どうも」
「ど、どうも」
私も同じ返答をする。
「聞こえましたよね? さっきの」
「えっと、ええ。……聞こえちゃいました」
「参ったな」
やはり私と同じ立場なのだろうか。いや、婚約を破棄したといっても、私の元カレのようにそれを言い渡した側の人かもしれない。そこまで考えてはたと気づく。
「ということは、私の声も聞こえたんですよね?」
「まぁ、はい、バッチリ聞こえました。……お疲れ様、です」
「お……お疲れ様、です」
その言葉に、彼もフラれた側なのだと直感した。そうでなければ「お疲れ様」などという言葉は出てこない。
(だとすればこの人、可哀想。私は自分で買っていないからまだいいものの……高いお金を出した婚約指輪があれだけの価値だなんて、やってられないよね)
会釈を交わした私たちは、どちらからともなく離れて店をあとにした。
それにしても婚約破棄をされた者同士が出会うとは、奇跡に近いのではないだろうか。悲惨な目に遭ったのは自分だけじゃない。そう思うと、少しだけ心が軽くなる。
「なんに使おうかな、このお金」
売ったお金は、その日のうちに使ってしまうことに決めていた。
ただし、手もとに残るものを買いたくはない。おいしいものを食べたり飲んだりしよう。二万五千円あれば、それなりの食事ができる。
スマホに表示された時間は五時を過ぎようとしていた。まだ夕飯には早いし、辺りをブラブラしようか。
近くにあった百貨店のなかを歩き回る。雑貨や洋服をチラ見してから、上階の書店へ向かった。
新刊や雑誌をひと通り眺め、ふと足を止めたコーナー。そこには、頑張りすぎないで楽しく生きる本、恋が終わった時に読む本、自分に向き合う本……タイトルを見るだけで胸に突き刺さるものばかりが並んでいる。どうせこんな本読んだって、何も変わるはずがない。
私はひとつ、ため息を吐いた。
(あまり投げやりになるのはよそう。ネガティブすぎると、運がどんどん逃げていく気がする)
頭を横にぶんと振り、棚にさしてある本へ手を伸ばした。と、同時に誰かの手が、同じ本に伸びてくる。
「あ、すみません」
「いえ、こちらこそ」
手を引っ込め合って、お互いの顔を見る。
「あっ!」
「あ! ……先ほどは、どうも」
なんと、さっきの婚約破棄メガネくんだった。彼もすぐさま私に気づいたようで挨拶をしてくる。
「どうも……」
とてつもない気まずさのなか、彼が本を手に取り、私へ差し出した。
「どうぞ、この本」
「え、いいんですか?」
「なんとなく手に取ろうとしただけなので。じゃあ、失礼します」
「あ、はい、じゃあ」
軽い会釈をして彼はその場を去った。
なんという偶然。驚いてまだ心臓がどきどきしている。
私は渡された本の表紙をじっと見つめた。
(こういうポジティブなタイトルの本を手にしようとするなんて、傷ついた人間の向かう先は同じなのかな。やっぱり彼も婚約破棄された側なんだ。……なんだか切ない)
そんなやりきれない気持ちで譲られた本を購入する。百貨店を出ると、既に六時半になっていた。
フレンチや回らないお寿司屋さんにでも入ろうかと考えていたけれど、そんな気分じゃなくなっている。私は口コミがよさげな居酒屋に行って、ぱーっと飲むことにした。
早速、女性ひとりでも行きやすそうな店をスマホで探し、そこへ向かう。
そして、目当ての小綺麗な居酒屋へ入った。おいしそうな匂いが私を取り囲む。清潔感があって雰囲気がいいし、適度に騒がしいから、しんみりしないで済みそうだ。
「いらっしゃいませーっ! おひとり様ですか?」
「はい、ひとり……あっ!」
店員に答える途中、すぐそばのカウンター席にいた男性と目が合い、私は声を上げてしまった。
「あ!」
メガネの向こうの瞳も私を凝視している。ついさっき書店で会った、婚約破棄メガネくんだ。
またお前かと、彼も同じことを思ったはず。本当になんなの、この偶然は。
「ここ、座ります?」
彼は自分の隣の空席を指さした。それを見た店員が「そうされますか?」と私に問いかける。
「……じゃあ、お邪魔します」
断る理由もない私は、彼の隣に着席し、店員に渡された熱いおしぼりで手を拭いた。
「いらっしゃいませ、お飲み物をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「とりあえず生。中ジョッキで」
「かしこまりました。生中ひとついただきましたー!」
「ありがとうございまーす!」と、元気のいい声がカウンターのなかから飛んでくる。
この状況を誤解されないように言っておかなくてはと、彼のほうへ向き直った。
「あの、偶然ですからね? あとをつけてきたとか、そういうんじゃないですから」
「わかってますよ。俺――僕も、そこまでうぬぼれたりする人間じゃありません。逆にさっきの書店では、こちらがあなたのあとをついていったように感じられたのでは?」
「いえ、そんなふうには思っていません。そちらも偶然ですよね?」
「ええ、もちろん偶然です」
私の前に生ビールとお通しが運ばれると、彼が自分のジョッキを持ち上げた。
「とりあえず乾杯しましょうか」
「そうですね」
かちんとジョッキを合わせる。歩き回って喉が渇いていたせいか、ビールがおいしい。
隣に座るメガネくんは、カウンター越しに焼き鳥を受け取った。炭火で焼いた香ばしいタレの香りに、私のお腹がぐうと鳴る。
「食べます?」
お腹の音が聞こえたのだろうか、彼は焼き鳥が二本載ったお皿を私に差し出した。
「どうぞ。旨いですよ、ここの焼き鳥」
「……いただきます」
甘辛のタレが絡んだ鶏肉が口のなかでじゅわっと弾け、肉汁があふれ出す。
「ん!? ほんとだ、うまっ!」
「でしょ?」
ビールを飲んだ彼が、こちらを向いて笑った。至近距離で見る笑顔に心臓がドキリとする。
……困った。私好みの顔をしているせいで、その気もないのにときめいてしまいそうだ。
戸惑った私は、話題を振る。
「――婚約指輪」「――婚約指輪は」
またもや同じことを同時に口走っていた。
「あっ、どうぞお先に」
「いえどうぞ、あなたからお先に」
彼が先にジョッキへ口をつけたので、私から質問することになる。
「婚約指輪は……あなたが購入されたものなんですか?」
いきなり失礼だとは思うが、初めて会った時から気になってしょうがなかったのだ。
ごくんと喉を鳴らしてビールを飲んだ彼は、あっさりと答えてくれる。
「ええ、そうです。僕の『元』婚約者に買って、そのあと婚約破棄されて、彼女から突っ返されたものです。あなたのは?」
「私の婚約指輪は、『元』婚約者にもらいました。返されても困ると言われて、さっきのところへ売りに行ったんです」
「なるほど、そうでしたか」
メガネの真んなかを押さえた彼が、小さくため息を吐いた。
「それにしても……あんな値段しかつかないなんてねえ」
「ふっ、ですよねえ」
「結構な値段で買ったはずなんですが、厳しい現実にへこみました」
「私もです。とはいえ、私はもらった身なのでまだマシかもしれませんが……」
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