上 下
36 / 50
9.誕生日石のブレスレット

1

しおりを挟む
 後頭部が燃えるように熱い、それに生暖かいものが頭から垂れてくる。たぶん出血しているんだろう。
 野宮に会えたことで油断しすぎてしまった。まさかコップを使って殴ってくるなんて思いもしなかった。それにしてもすぐに気を取り戻せたのは幸運だった。
 残りの力を振り絞って奥本の腕を掴んだ。奥本はたいそう驚いていたが、すぐにこちらに向き直って揉み合いになった。
 しかし無傷の奥本とあちこち打身だらけの僕とでは戦力の差がありすぎた。どんどん攻撃してくる相手に、僕は防戦一方だ。それを奥本も理解しているようでどんどん押しまくる。特にケガが集中している顔と腹部を狙って打撃を繰り出してくる。
 こちらも負けじと両手で防御するがすべてをカバーできるわけでもない。取りこぼした拳が頬や腹に食い込む。そんな状況にじりじりと後退するしかなかった。
 気が付くとキッチンまで押し込まれていた。もう逃げ場がない。どうやら戦うしか残された道はないようだ。
 奥本の攻撃を避けながら、こちらも攻撃に転じる。だが奥本もその攻撃を受け止めた。
 しかもその拍子に腕につけたブレスレットが切れてしまった。バラバラと音をたてて誕生日石の玉が散らばっていく。
 反抗期の妹がくれた大切な誕生日プレゼントだ。嬉しくて肌身離さず身につけていたのが仇となった。
「大事なブレスレットを! この野郎!」
 怒りに任せて奥本の胸倉を掴もうと踏み出した時、何か柔らかい物を押しつぶした。にゅるっとした感触のそれに足を取られて僕は盛大に転んでしまった。転ぶ瞬間視界の端で黄色い物が飛んでいくのが見えた。
 ──あっ、バナナ!
 漫画のようにバナナで滑った僕はキッチンの床に頭を強打した。しかも傷口のところだ。
「ああああ!」
 痛みにのたうち回る僕に奥本は馬乗りになった。そして左手で首をガッチリと掴んだ。
「馬鹿なやつめ。自分の武器で窮地に陥るとはな!」
 首を絞める手がきりきりときつくなった。その手をはがそうと抵抗するが上手くいかない。
 息が苦しくなるなか、視界の端に倉井が倒れているのが映った。
「倉井! 動けるか!」
 その呼びかけに倉井はせき込みながら起き上がる。
「なんとか……」
「……野宮を……連れて……逃げろ!」
「でも……」
「いいか……ら」
 そこまで言うと倉井は「分かった」と野宮の元へよろよろと歩き出した。
「そうはさせるかぁ」
 奥本は僕の首から手を離すと野宮の方へと踵を返した。
 呼吸が自由になった僕は咳き込みながら大きく息を吸う。しおれた植物が水を得て元気になるように僕の意識もはっきりとしたものになった。そしてその瞬間、あることを思いついた。
 離れていく奥本の肩を僕は掴んだ。さらにもう片方の手で散らばる誕生日石の玉を集める。
「しつこい──」
 奥本が振り返った瞬間、彼の顔面目掛けて誕生日石の玉を投げつけた。
「うわぁ、なんだ!」
 怯んだその一瞬、僕は奥本にアッパーを打ち込んだ。本日二度目の命中に奥本は倒れ込んだ。
 転ぶ奥本を横目に僕は野宮の元に駆けつけた。
「野宮、逃げるぞ!」
「す、すいません。腰が抜けちゃったみたいで」
 へたり込んでいた彼女を倉井とともに両脇を抱え、玄関ドアから脱出した。
 蛍光灯が照らす薄暗い外廊下をエレベーターに向かってひた走った。
 背後では奥本の怒鳴り声がする。振り返ると奥本は鉄格子に掛けてあった野宮の傘をこん棒のように振りまわしながら迫ってくるのが見えた。
「天原、エレベーターはダメだ。待ってる間に追いつかれる」
「じゃあ、階段か!」
 エレベーターの手前で左に折れて、階段を駆け下りた。二段飛び、三段飛び、とほぼ野宮を引きずるような形で乱暴に地上を目指す。
 上の方からはドタドタと足音と奥本の「待て!」という咆哮が降ってくる。
 転がるようにエントランスに出ると乗ってきたスクーターも無視して道路へ飛び出した。あんなに降っていた雨はすっかりやんで、空には星が出ている。
「天原さん、もう大丈夫です。自分で歩けます」
 そう言う野宮から手を放し、僕と野宮と倉井は夜の住宅街を街路灯から街路灯へ当てもなく走った。濡れた道路は滑りやすくて走りにくい。
「これからどうするんだよ」
 倉井が金髪を揺らして訊いてきた。
「どうするって、逃げるしかないよ」
「逃げるってどこに?」と野宮。
「分からない。だからやみくもに走ってるんだよ」
 後ろを向くと傘を振り回しながら怒鳴り散らす奥本が見える。怒りのせいか喋る言葉は言葉になっておらず、吠える姿はクマのようだ。
 夜も随分深くなっている。こんな時間では住宅街を通る人の姿もなく、助けを求めることもできない。まるでここは僕たちと奥本のために用意されたフィールドのようだ。
「ひとまず、奥本を撒かなくちゃ」
 野宮と倉井を連れて角を右へ左へ、水たまりの水を跳ね飛ばし逃げ惑う。奥本もしつこくそのあとをしっかり追いかけてくる。
「天原さん! 奥本がまだ追いかけてきます!」
「ホントにしつこいやつだ。おい、天原。もっと人通りの多いところに向かえ!」
 言われみればそうだ。奥本から距離を取ることばかり考えていて、住宅街の中ばかり走っていた。奥本に捕まりそうでも人通りの多い場所に行けば誰か助けてくれるかもしれない。
 倉井の提案に乗って進路を駅方向に定めた。こんな時間でも駅前なら誰かいるだろう。
 記憶を頼りに何度か十字路を曲がって駅前につながる太い道路が先に見えた、その時。
 倉井が突然、アスファルトに転がった。濡れたマンホールに足を取られて滑ったみたいだ。靴が脱げて道の真ん中に転がっている。
「倉井! 大丈夫か!」
 僕と野宮は足を止めて振り返った。
「転んだだけ。あたしのことはいいから早く逃げて!」
 倉井の奥には獣と化した奥本が迫ってきている。倉井を助けに戻ったら確実に追いつかれる。それよりは早く助けを呼んだ方がいい。
「分かった。人を呼んで来るから、お前も逃げろ」
 野宮、急ごう。そう言いながら彼女を見下ろすと、野宮はてくてくと来た道を倉井の方へ歩き出した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

悲しいことがあった。そんなときに3年間続いていた彼女を寝取られた。僕はもう何を信じたらいいのか分からなくなってしまいそうだ。

ねんごろ
恋愛
大学生の主人公の両親と兄弟が交通事故で亡くなった。電話で死を知らされても、主人公には実感がわかない。3日が過ぎ、やっと現実を受け入れ始める。家族の追悼や手続きに追われる中で、日常生活にも少しずつ戻っていく。大切な家族を失った主人公は、今までの大学生活を後悔し、人生の有限性と無常性を自覚するようになる。そんな折、久しぶりに連絡をとった恋人の部屋を心配して訪ねてみると、そこには予期せぬ光景が待っていた。家族の死に直面し、人生の意味を問い直す青年の姿が描かれる。

さよならとつぶやいて、きみは夏空に消えた

月夜野繭
ライト文芸
――きみと出逢ったのは、遠い夏の日―― 東京の会社を辞めて、祖母の骨董店を継いだ透のもとを訪ねてきたのは、ちょっと不思議な女の子。 彼女は売り物の古いフォトフレームを指さして、その中に入っていたはずの写真を探していると言う。色褪せた写真に隠された、少女の秘密とは……。 なぜか記憶から消えてしまった、十五年前の夏休み。初恋の幼馴染みと同じ名を持つ少女とともに、失われた思い出を探す喪失と再生の物語です。 ※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

エロ・ファンタジー

フルーツパフェ
大衆娯楽
 物事は上手くいかない。  それは異世界でも同じこと。  夢と好奇心に溢れる異世界の少女達は、恥辱に塗れた現実を味わうことになる。

運命の番?棄てたのは貴方です

ひよこ1号
恋愛
竜人族の侯爵令嬢エデュラには愛する番が居た。二人は幼い頃に出会い、婚約していたが、番である第一王子エリンギルは、新たに番と名乗り出たリリアーデと婚約する。邪魔になったエデュラとの婚約を解消し、番を引き裂いた大罪人として追放するが……。一方で幼い頃に出会った侯爵令嬢を忘れられない帝国の皇子は、男爵令息と身分を偽り竜人国へと留学していた。 番との運命の出会いと別離の物語。番でない人々の貫く愛。 ※自己設定満載ですので気を付けてください。 ※性描写はないですが、一線を越える個所もあります ※多少の残酷表現あります。 以上2点からセルフレイティング

奴隷市場

北きつね
ライト文芸
 国が少子高齢化対策の目玉として打ち出した政策が奴隷制度の導入だ。  狂った制度である事は間違いないのだが、高齢者が自分を介護させる為に、奴隷を購入する。奴隷も、介護が終われば開放される事になる。そして、住む場所やうまくすれば財産も手に入る。  男は、奴隷市場で1人の少女と出会った。  家族を無くし、親戚からは疎まれて、学校ではいじめに有っていた少女。  男は、少女に惹かれる。入札するなと言われていた、少女に男は入札した。  徐々に明らかになっていく、二人の因果。そして、その先に待ち受けていた事とは・・・。  二人が得た物は、そして失った物は?

処理中です...