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9【side.ノア】――タケル/灰
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しおりを挟むあまりにも想定外の事態で脳がキャパオーバーすると、怒りを通り越して笑えてくるのだと知った。
「……あいつクソすぎ」
乾いた笑いが漏れる。
パスカルに犯されてしまったオレ。
あいつは事を終えると、「ありがと」とだけ言い残し早々に帰ってしまった。
呆れるほど分かりやすい。
タケルが手に入らないからといって、オレの身体をもてあそんで……完全におもちゃ扱いだ。
愛情の欠片もない。
最低すぎるただの性欲処理。
全てを洗い流してしまいたい。
浴室へ向かうと、普段より少し温度を上げてシャワーを浴びた。小さな台の上に紫色のシャンプーボトルが乗っている。
タケルもパスカルもオレも、このシャンプーのせいでおかしくなった。昨夜は「タケルにあげる」と伝えてしまったが、からくりを知ってしまった以上渡すわけにはいかない。
さっさと捨ててしまおう。
そうすればタケルは、オレを襲おうなんて気分にならないはず。
――でも。
パスカルの性欲処理に使われたオレの身体。
汚らわしいこの状態を上書きしてくれればいいのに、なんて考えが浮かんだ。
……そうだ。
記憶と身体の上書き。
パスカルはただの嫌がらせだったが、タケルはちゃんとオレのことを好きでいてくれる。この差は大きい。道具のように使い捨てられるのはゴメンだが、タケルは違うから……。
あと一日だけ。
このシャンプーを捨てるのはやめよう。
今朝タケルが残していったメモには《午後八時には夕飯を買って帰る》とあった。何かをする元気もない。リビングのロングソファに寝転がり、テレビを見ながら過ごすことにした。
+ + +
――午後五時過ぎ。
タケルから《六時頃には戻る》とメールがあった。メモ書きより二時間も早い。本来なら「そんな早く帰ってこなくていいのに」とぼやいていただろう。
……でも。
今日は〝上書き作戦〟があるからそれでいい。
考える時間が長くなるほど悩んでしまいそうだから。こういうことは勢いのあるうちに実行してしまうに限る。《分かった》とだけ返信しておいた。
連絡どおりの時間に戻ってきたタケルは、ビジネスバッグと共にスーパーの袋を携えていた。
「仕事、早く終わったんだな」
「いや。自分一人だから集中できると思ったんだが、部活を終えた先生たちが職員室に集まり出して。今日はあまり人に近付かれると……」
「なに?」
「……いや。気が散ってしまうから持ち帰っただけだ」
「あっそ。メシは? なに買ってきたの?」
「おにぎりや総菜をいろいろと」
「……じゃあ先に風呂行けば?」
「風呂?」
「仕事で疲れてるだろ? 風呂沸かしといてやったから。お前が風呂行ってる間に総菜温めたり飲み物準備したりしとく」
「ノア……」
ぎゅっと抱きすくめられる。
突き飛ばしたい……気もしたけれど。
今日はこれでいいんだ。
タケルは昨夜行為を終えたあと、シャワーを浴びる際にあのシャンプーで頭を洗った。混乱した様子でいつまでも「申し訳ない」と「愛してる」を繰り返すタケルに、オレが「使え」と言ってしまったからだ。
あのときはオレも動揺と羞恥心があり、とにかくこいつを黙らせようと必死だった。本人が気に入ったというシャンプーの匂いに包まれれば、少しくらい落ち着くかもしれないと。
――そして今。
タケルからは仄かに花畑の香りがする。
あのシャンプーの残り香――まだ影響を受けているはずだ。今夜はオレも呑まれてしまった方がいい。思いっきり吸い込んでやった。
「本当は、もう君に会えないのではないかと怖かった」
「……は? なんで?」
「あんな形で君の身体を奪ってしまった。痛い思いもさせただろう。もう家に入れてもらえないのではないかと思っていたが……君からメールの返事が来て安堵した。拒絶されていなくてよかったと」
「勘違いすんなよ? 今日だけ特別なんだ」
腕を解いたタケルに口付けられる。
……大丈夫だ。
アニキのことを想えば不快感もない。
オレの身体もシャンプーの影響で興奮してきた。
徐々に深くなるキス。
荒くなる息遣い。
ソファへと押し倒される。
……パスカルが全く同じことをしたなんて。
タケルは絶対、夢にも思わない。
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