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翼をください
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―ねえ、おばあちゃん、人間は死んじゃったらどうなるの?
―そうね、背中に大きな翼が生えてきて、空を飛んで、遠い場所にいって、そこでずっと幸せに暮らすんだよ
神田良子さん(仮名)の行方が、ひとりで楽しんでいたはずの海外旅行の最中にわからなくなったのは、平成二十四年のことである。当時二十三歳。
ニューヨークマンハッタンのセントラルパークで、現地で知り合い仲良くなったのだろうか、親し気な友人らしき若いアメリカ人女性と肩を組み笑顔で並んでいる写真がプリントされた葉書が送られてきて以降、ぷっつりと連絡が途絶えてしまった。十日間ほどは呼び出し音が鳴っていた携帯電話も、じきに繋がらなくなった。
不安に苛まれた家族は、良子さんの、旅行先での知りうる限りの足跡をたどり、あわせて各国の日本大使館にも連絡し、アドバイスなどをも受けつつ手を尽くしたが、ようとして良子さんの姿をつかむことはできなかった。
時をほぼ同じくして、神田さんの祖母である、いく子さんに認知症の症状が見られるようになった。
いく子さんは、ことのほか、孫の良子さんをかわいがり、大学を卒業すると同時に突然、一人で世界を旅してみたいと言い出した良子さんに「危ないからやめなさい」と、涙ながらに引き止めたという。
良子さんも、小さい頃からの「おばあちゃん子」で、失踪するまでに数回届いた葉書のなかには、毎回、体調を案ずるような、いく子さんに宛てたメッセージが必ず添えられてあった。
アメリカからの最後の便りには、あと半月ほどで帰国するという報告とともに、こう記されてあった。
「おばあちゃんに早く会いたい」
突然連絡が途絶えた良子さんを、いく子さんは無論、ひどく心配し、沈みがちな様子であまり眠れない日々が続いていたようだと、良子さんの母である好美さんは言う。
ある日、ふと姿が見えなくなり、慌てて外を探すと、いく子さんが最寄りの駅の前に雨の中、茫然の体で佇んでいることもあった。聞けば、良子さんが帰ってくるかもしれないからと、数時間も、改札から吐き出される人波をただじっと見つめていたのだそうだ。
そのような、愛する孫の失踪という、いうなれば極度に身心を圧迫するような日々が重なったことが、精神状態に急激な何らかの変化をもたらし、認知症の症状を加速させるひとつの要因になったのかどうかは定かではない。
ただ、いつからか、あれほど心配していた孫の写真を見せても、それを誰なのかを判別できないほどに、事態は進んでしまっていた。
良子さんの足取りが途絶えてから、二年ほど経ったある朝。
好美さんは、いつものように、デイサービスの迎えが来たため、いく子さんを部屋に呼びにいった。
和室の襖を滑らせる。いく子さんは毎日、早くして病に倒れた夫の伸介さんの仏壇に手をあわせるのが日課で、その日も位牌を前にじっと目を閉じていた。その背中に声をかけようとしたとき、好美さんは耳を疑うことになる。
いく子さんは、明瞭な言葉で仏壇に語りかけていた。
おとうさん おねがいだから はやくわたしをむかえにきてください
そうしたらつばさがはえて、そらをとんで、りょうこをむかえにいけるんです
おねがいします はやくむかえにきてください
まるで呪文のように、そう繰り返し口にする郁子さんの表情には、わずかな痴呆など感じさせない、純真で、まっすぐな眼差しが浮かび、それはまさに「懇願」というにほかならない。
とうに忘却しているだろうと思い込んでいた孫のことを、今もなお心に刻み続けていた、いく子さんの、小さいけれど優しい奇跡を目の当たりにし、好美さんは声をかけることもできず、駆け足でキッチンに飛び込み、その片隅に座り込んで泣いたという。
―そうね、背中に大きな翼が生えてきて、空を飛んで、遠い場所にいって、そこでずっと幸せに暮らすんだよ
神田良子さん(仮名)の行方が、ひとりで楽しんでいたはずの海外旅行の最中にわからなくなったのは、平成二十四年のことである。当時二十三歳。
ニューヨークマンハッタンのセントラルパークで、現地で知り合い仲良くなったのだろうか、親し気な友人らしき若いアメリカ人女性と肩を組み笑顔で並んでいる写真がプリントされた葉書が送られてきて以降、ぷっつりと連絡が途絶えてしまった。十日間ほどは呼び出し音が鳴っていた携帯電話も、じきに繋がらなくなった。
不安に苛まれた家族は、良子さんの、旅行先での知りうる限りの足跡をたどり、あわせて各国の日本大使館にも連絡し、アドバイスなどをも受けつつ手を尽くしたが、ようとして良子さんの姿をつかむことはできなかった。
時をほぼ同じくして、神田さんの祖母である、いく子さんに認知症の症状が見られるようになった。
いく子さんは、ことのほか、孫の良子さんをかわいがり、大学を卒業すると同時に突然、一人で世界を旅してみたいと言い出した良子さんに「危ないからやめなさい」と、涙ながらに引き止めたという。
良子さんも、小さい頃からの「おばあちゃん子」で、失踪するまでに数回届いた葉書のなかには、毎回、体調を案ずるような、いく子さんに宛てたメッセージが必ず添えられてあった。
アメリカからの最後の便りには、あと半月ほどで帰国するという報告とともに、こう記されてあった。
「おばあちゃんに早く会いたい」
突然連絡が途絶えた良子さんを、いく子さんは無論、ひどく心配し、沈みがちな様子であまり眠れない日々が続いていたようだと、良子さんの母である好美さんは言う。
ある日、ふと姿が見えなくなり、慌てて外を探すと、いく子さんが最寄りの駅の前に雨の中、茫然の体で佇んでいることもあった。聞けば、良子さんが帰ってくるかもしれないからと、数時間も、改札から吐き出される人波をただじっと見つめていたのだそうだ。
そのような、愛する孫の失踪という、いうなれば極度に身心を圧迫するような日々が重なったことが、精神状態に急激な何らかの変化をもたらし、認知症の症状を加速させるひとつの要因になったのかどうかは定かではない。
ただ、いつからか、あれほど心配していた孫の写真を見せても、それを誰なのかを判別できないほどに、事態は進んでしまっていた。
良子さんの足取りが途絶えてから、二年ほど経ったある朝。
好美さんは、いつものように、デイサービスの迎えが来たため、いく子さんを部屋に呼びにいった。
和室の襖を滑らせる。いく子さんは毎日、早くして病に倒れた夫の伸介さんの仏壇に手をあわせるのが日課で、その日も位牌を前にじっと目を閉じていた。その背中に声をかけようとしたとき、好美さんは耳を疑うことになる。
いく子さんは、明瞭な言葉で仏壇に語りかけていた。
おとうさん おねがいだから はやくわたしをむかえにきてください
そうしたらつばさがはえて、そらをとんで、りょうこをむかえにいけるんです
おねがいします はやくむかえにきてください
まるで呪文のように、そう繰り返し口にする郁子さんの表情には、わずかな痴呆など感じさせない、純真で、まっすぐな眼差しが浮かび、それはまさに「懇願」というにほかならない。
とうに忘却しているだろうと思い込んでいた孫のことを、今もなお心に刻み続けていた、いく子さんの、小さいけれど優しい奇跡を目の当たりにし、好美さんは声をかけることもできず、駆け足でキッチンに飛び込み、その片隅に座り込んで泣いたという。
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