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29.過去――あるいは悪夢と救い――

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 もし、このまま顔の傷が残ったりしたら、今まで以上に結婚相手を探すことは難しくなるだろうな。
 椿はそんなことを考えながら、ベッドに横になった。
 ああ、そういえば、椿のことを自分の娘も同然と言って、頻繁にお茶会やお花の会に呼んでくれていた春日のおばちゃんが、椿の結婚相手を探していたと知らされたのは中学に入ってすぐのことだったっけ。
『もっと大人っぽくして、ちゃんとしたお嬢さんらしくしなくては駄目よ。山守の最後のひとりなんだから、早くお婿さんを迎えないとならないでしょう? あなたがあまりにも子どもっぽいし、何だか薄気味悪いからって、今まで会ってくださった方は、皆さんお断りになったのよ。薄気味悪いだなんて、一体、何をしたの、あなた?』
 十二歳になったばかりだった椿は、何のことかわからなかった。
『あなたのお婿さんのことですよ。茶事のときなど、ご一緒した方々がいたでしょう?』
『お、お見合い、だったんですか? でも、あの、おじいちゃんは……』
『あの方には秘密に決まっています。あなた可愛さに、あなたの都合を優先するでしょうからね。とにかく、なるべく早くお相手を決めて、あなたの大事なお爺様を安心させておあげなさい』
 理屈ではわかったが受け入れられず、それ以来、一族の集まりにはほとんど出席しなくなった。
 高校は受かったものの進学しなかった。学校生活に疲れ果てていたからだ。田舎の学校だけあって進学先の顔ぶれはほとんど同じだし、他の中学からの入学者がいるといっても、結局は小中学校と同じことになるだろう。椿は同世代とのつきあいにひどく臆病になっていた。
 祖父は『お勉強はしなきゃいけませんよ』と言ってそれを許してくれた。
 幸いにも、高等学校卒業認定試験はすぐに合格できたので、大学へ行くかどうかを考える時間ができた。そうして椿がほっとしていた頃、一宮の法事があった。
 五十回忌というのだから、当然椿は故人の顔は知らない。が、久しぶりに鷹也たちに会いたかったので、出かけることにした。
 鷹也たちに会えたのは嬉しかった。しっかりものの鷹也とお洒落で陽気で恋の噂の絶えない桜子、半分英国人でマイペースな綾音が、椿は大好きで、不謹慎かなと思いつつ法事の席を楽しんでいた。
 春日のおばちゃんに呼び出されるまでは。
『いったい、どうするつもりなの? せっかくあなたの経歴を気になさらないような、いい方をお呼びしても、あなたが来なくては意味がないでしょう。それとも、お山様と一緒になるつもりなの?』
 お山様とはつまり、祖父のことだ。
 考えただけでもぞっとした。
『嫌です、そんなの、嫌です』
『だったら』
 でも、結婚なんて考えられません。
『いい加減にしてくれませんか。椿はまだ十五なんですよ』
 椿を助けてくれたのは、鷹也だった。
『第一、一宮には私を入れて三人の娘がいるんですから、そこから山守に入ってもいいでしょう。それが駄目なら、柏木の息子を養子にするという手もありますし』
『でもね、鷹也さん』
『昔からそうやってきたこと、あなたはご存じありませんか?』
 そう言った鷹也は威圧感に満ちていた。
『もしあなたがそれをご存じなかったとしても、お山様があなたの言葉を知ったらよくはお思いにならないでしょうね』
 春日のおばちゃんは言葉に詰まり、『よくお考えなさい!』と、吐き捨てるように言うと部屋を出て行った。
『鷹ちゃん、ありがとね。おばちゃん、いろいろお見合い相手を探してくれてたんだけど、みんな、私のこと子どもっぽくて薄気味悪いからって嫌がるんだって。子どもっぽいのは仕方ないけど、薄気味悪いって言われるようなこと、したつもりはないんだけどな……』
 椿は言いながら、ぽろぽろと泣いた。
 人前では花や草木と話したりはしていないのに、そういうのってやっぱりわかっちゃうんだなあ。
『気にするな。どーせ、神官家系の男だろ。椿を薄気味悪く思うのは、中途半端な奴だってことさ。椿の御方に怖気づいてるだけだろう。あの比売さんは強烈らしいから』
 椿はびくりと体を震わせた。
 鷹也は素知らぬふりで続けた。
『確か、英語とフランス語はできるんだよな? 帝国公用語は?』
『おじいちゃんに教わったけど』
『なら、留学しないか?』
 それからはあっと言う間だった。
 鷹也は即座に祖父に話をつけ、椿の留学準備を整えてくれた。
『しっかりお勉強していらっしゃい。楽しいことがたくさんあるよう祈ってますよ』
 ――おじいちゃん、ごめんね、おじいちゃん。せっかく送り出してくれたのに、椿はここでもいらない子だった。
 うんと小さい頃は遊んでくれる子がたくさんいたのにな。みんなで山で遊んだのに。
 それなのに、どうしてお友達がいなくなっちゃったんだっけ?
 まどろみの中、椿は思い出す。
 きっかけは些細なことだった。
 小学校一年生の時だ。理科の授業で育てていた朝顔がかわいくて、話しかけていたら、
『バッカじゃねーの、おまえ。朝顔が口きくわけないじゃん』
 男の子たちが口々に言った。
 あの頃はまだ、植物と話すことがおかしいと思われるなんて知らなかったから、びっくりして、『お話、するよ。もうちょっとで咲くのが楽しみだって言ってるよ』と答えた。
 そうしたら、ひとりの男の子が椿の朝顔の鉢を蹴り飛ばしたのだ。
 鉢からこぼれた朝顔を手に取ろうとしたら、別の子がそれを踏みつけ、引きちぎった。
『やめて』と泣いたら、おもしろがって椿の朝顔を踏みにじり、プラスチックの植木鉢をサッカーボールのように蹴りながら行ってしまった。
 泣きながら朝顔の残骸をかき集めたことを、今でもはっきり覚えている。
 それ以来、男の子たちは椿のことを馬鹿にするようになり、女の子たちも次第に椿から距離を取るようになっていった。
 家のある山でひとりで遊んでいたとき。
『椿ちゃーん』
 幼稚園の頃仲良くしていた洋子ちゃんの声が聞こえた。
 また遊びに来てくれたんだと嬉しくなって声のした方に行くと、洋子ちゃんと、小学校で初めて同じクラスになった佐代子ちゃん、香織ちゃんがいた。
『みんな、来てくれたの? 何して遊ぶ?』
 でも、三人とも、椿には答えてくれなかった。
 佐代子ちゃんが言った。
『うわー、ほんとに洋子ちゃんの言った通りだね。着物なんか着てる。変なの』
『椿ちゃんはさ、お父さんもお母さんもいないから、貧乏なんだよ。だから、おばあちゃんのおさがりの着物着てるんだって』
 洋子ちゃんは得意げに言った。
 おばあちゃんのおさがりだ、と言ったことはあるかもしれない。でも、貧乏だからなんて言った覚えはない。
 それでも、椿は何も言えなかった。
『でも、うちのおばあちゃんは椿ちゃんのこと山守のお姫様って言ってたよ』
 香織ちゃんが言うと、洋子ちゃんと佐代子ちゃんは笑った。
『お姫様っていうのはさ、綺麗なドレスを着てるんだよー』
『あんな古い着物着てる椿ちゃんが、お姫様なわけないじゃない』
『そうかなあ? でも、うちのおばあちゃん、物知りなんだよ』
『香織ちゃんのおばあちゃん、勘違いしてるんだよ。教えてあげなきゃ駄目だよ』
 洋子ちゃんはそう言って、椿の方をちらりと見た。
『それにさ、椿ちゃんって変なんだよ。博史くんたちも言ってたけど、ほんとに花とか木がしゃべるって思ってるの。幼稚園の頃、お庭で遊んでたら突然木蓮の木が泣いてるとか言いだしたことがあって、気持悪かったんだ』
 園庭で木蓮が泣いている、と話したことは椿も覚えていた。
 でも、それで木蓮の病気がわかって先生に褒められた時、洋子ちゃんは『椿ちゃんはすごいね、お花の声が聞けていいね』と言ってくれたのだ。
 それなのに――。
『もう行こうよ。何して遊ぶ?』
 佐代子ちゃんが言い、三人は椿に背を向けた。
 ひどいことを言われたのに、椿は思わず呼びとめてしまい、冷たい目を向けられた。
 それでもつい、
『あの、一緒に、遊ばない?』
 と言ってしまった。
『どうする?』
『あんな変な子知らなーい』
『そうだよねー。三人で遊ぼ』
 口々に言って、洋子ちゃん達は帰って行った。
 その場から動けずにいた椿を命が迎えに来てくれて、慰めてくれた。
『あの者たちは何もわかっておらぬのだ。椿は我らが姫なるぞ』
 と言って。
 それでも悲しかったけれど。
 二年生になる頃には椿は完全にひとりぼっちだった。
 登下校もひとりで、それでも、庭や道端の草花や小鳥を見るのを楽しみにしていた。
 初夏になり、燕の巣を見つけてからはとりわけそれが楽しみで、毎日毎日足を止めて雛たちが大きくなっていくのを眺めた。が。
『あ、山守だ。何やってんだよ、おまえ』
 いつもひどく意地悪をする男の子たちに見つかってしまった。
 彼らはサッカーをしに行くところだったらしく、ボールをパスしあっていた。
『……何でも、ない、の……』
 椿はそのまま逃げようとしたが、そのうちのひとりが『あいつ、これ見てたんだよ。ほら、燕の巣』と言った。
 振り向いた瞬間、巣に向かってサッカーボールが投げつけられ、雛たちが落ちてきた。
『あっ……』
 泣きだした椿の顔を確認してから、彼らは言った。
『くっだらねーの。こんな奴ほっといて、もう行こうぜ』
 朝顔のことを思い出し、『ごめんね、ごめんね』と言いながら雛たちを掬いあげると、親鳥が椿の周りを旋回していた。
 遠足のとき、祖父がリンゴをたくさん持たせてくれた。『お友達と食べなさい』と言って。
 あれは友達のいない椿への、祖父なりの気遣いだったのだろう。
 でも、思い切って声をかけてみたものの、椿のリンゴを食べてくれる子は誰もいなくて、がんばって自分で食べようとしたけれど、とても食べ切れなくて。
 椎の木が、近くに小さな祠があることを教えてくれたのでそこにお供えしたのだ。
 そうしたらすぐに猿の親子がやってきて、みんなで食べてくれて、ほっとした。
 祖父には何も言わなかったが、祖父はわかっていたのだと思う。
 それ以来、お友達の分を渡されることはなかった。
 どうして、そんなことばかり思い出すんだろう。
 自分が好きになったら相手に迷惑をかけてしまうことも、自分がいらない子だということも、よくわかっているのに――。
 けれども。
『俺の分は?』
 突然現れたギルバートは、そう言って、椿のリンゴへと手を伸ばした。
 一緒に薔薇とお喋りしたことや、ボートに乗せてくれたときのこと。椿の作ったお弁当を食べてくれたこと。図書館で勉強を教えてくれたこと。それから。
 椿を助けに来てくれたこと。
 夢の中で辿るギルバートと過ごした時間が、椿の心を温めていった。ギルバートはいつも優しくて親切だ。最初は怖かったし、今でも一緒にいて緊張することがあるけれど、あんな風に椿のことを気にかけて、優しくしてくれた人は初めてだった。
 ギルバートさん、ありがとう。椿なんかに優しくしてくれてありがとう。
 椿は目を覚ました。
 目覚めた椿はほっと息をついた。
 寝返りを打ち、枕元に椿の花が置かれていることに気づく。
 もしかして。――ギルバートさん?
 ノックの音に返事をすると、制服姿の鷹也が入ってきた。
 椿の額に手を当て、言う。
「熱っぽいな。今日は休むと学校に伝えておく。お粥を炊いておいたから、食べられそうなら食べろよ。痛むようなら、何か胃に入れてから鎮痛剤を飲め」
「はい。ありがとう、鷹ちゃん。ところで、あの椿……」
「カンピオンが持ってきた。この木のそばにいると落ち着くって話したんだって?」
 ああ、やっぱり。
 と、椿は思う。
 ギルバートさん、覚えていてくれたんだ。
 気遣ってくれる優しさが、とても嬉しかった。
「――ありがとう」
「ん?」
「ありがとうって伝えておいてくれる? 学校に行ったら、自分でも言うけど」
「わかった。じゃ、私は学校に行くからな。しっかり休めよ」
「はい、いってらっしゃい」
 鷹也を見送ると、椿はもう一度横になった。
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