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「……俺は、フェロモンに反応しないから、大丈夫だよ。安心して、眠っていいよ」
 ベッドサイドに置かれた椅子に座り、響の手を撫でながら壱弥が言う。
 返事の代わりみたいに、また「壱弥」と名前を呟く響に、彼は目を細めた。
「響、大丈夫だよ」
 大丈夫と繰り返しながら、とんとんと響の胸辺りを叩く。あやすみたいに。
 壱弥の体温と匂いは、魔法のように響の身体の強張りを溶かす。
 ――大丈夫。
 そして、その声はまるで呪文だった。
 ありふれていて普遍的な言葉に、心の底から安心した。
 安心して目をつぶったら、強烈な睡魔がやってきた。


 目を覚ました時、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。
 カーテンの隙間から、うっすらと日の光が差し込んでいる。
 壁掛け時計は七時をさしていて、そのアルネ・ヤコブセンの時計を見て、ここがオフィスであることに気づいた。
 そして、昨日の記憶もつられて思い出す。
 全身に気だるさは残るものの、吐き気を伴う強い不快感は落ち着いている。
 ゆっくり身体を起こし、改めて部屋を見渡した。
 デスクスペースが壱弥の生活部屋となってから、この部屋に入るのは初めてだ。
 響達が用意したベッドとワードローブ以外には、ほとんど物がない。
 いくつかの本や、大きなデイバッグが床に置かれているくらいで、壱弥の私物は少なかった。 
 重ねられた本の一番上には、表紙の色褪せた古いハードカバー本があった。
 印字されたタイトルは所々が掠れ消えていて、なんとか前後から推測して読んでみると、『北欧の神々の物語』と書いてあるらしい。
「響。起きてたの?」
 本から視線を上げると、ここの間借り主が扉を開け、部屋に入って来た。
 シャワーを使っていたらしく、首からかけたタオルで髪を雑に拭いている。
「身体大丈夫?」
「うん……まだちょっとダルいけど……だいぶ楽」
 普段のヒートなら、一日目の朝をベッドで迎えられるなんてまずあり得ない。
 一晩でこんなに落ち着いた状態になったのは初めてだった。
 きっと、多分――ほぼ間違いなく、壱弥のおかげだ。どういうわけか彼の纏うフェロモン匂いは、抑制剤や対応薬よりも確実に、響のヒート時の症状を緩和してくれるらしい。
 どんな要因が作用しているのかは分からないけれど、今回はトイレに籠ることなく、ヒートを終えられるかもしれない。 
「壱弥、昨日はありがとう。お前もここで寝たの?」
「俺はこの椅子で」
 言いながら、壱弥がベッドサイドのアームチェアに座る。
「ああ……ごめん。それじゃ、ちゃんと寝られなかっただろ」
「全然余裕だよ。俺どこでも寝られるから。ホームレスだった時は、道の隅とかに座って寝たことだって何度もある」
 こんな感じで、と壱弥が膝を抱えて目を閉じてみせる。
「……壱弥はどれくらいの期間、そういう生活をしてたの?」
 壱弥をボディーガードとして雇う際、辿れた経歴には十歳からは児童養護施設で過ごしたという記録があったが、それ以前は不明だ。
「えっと……施設に入れられるまでだから、三年くらい。たけさんが、ずっと面倒見てくれてた」
「たけさん?」
「うん。ほんとの名前は知らないけど。同じホームレスの人たちから、たけさんって呼ばれてるおじいさんがいて。すごく物知りで頭が良くて、俺にも色んなこと教えてくれた」
 壱弥の口元が優しく緩む。
「俺、学校行ってなかったから、文字の読み方とか書き方とか、たけさんが教えてくれたんだ」
「そこにある本は、壱弥が昔から持っていたもの?」
 床に置かれた本を指差し尋ねる。
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