糸と蜘蛛

犬若丸

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6章 盤上の外で蜘蛛喰い蝶は笑う

孤独な家の中 5

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 暗闇で見えなくなった廊下の行き止まりをカンダタは玄関から眺めていた。
 呆然としていた。寝起きのような思考が鈍っているあの状態に近かった。不意に半分だけ降りていた目蓋が天辺まで上がる。目覚めた意識は先ほどまで受けていた蛮行の味を思い出し、口を覆う。
 胃に物は入っていない。ただ、あの肉の味が残っており、今なお胃から口まで侵しているようだった。
 嘔気はあっても吐けるものはない。けれども背を丸め、不快な味を忘れる為、激しくなる動悸を収める為、何度も深呼吸を繰り返す。
 空気を出し入れするだけではあの強烈な味を忘れるのは難しい。しかし、動悸は幾分か落ち着いてきた。
 あの部屋は何だったのか。ゴミに埋もれ、その中心にいる紅柘榴。あれはこの地獄が作る偽物だ。ならば、囚人を罰する役を担っている。
 訳も分からず、ここまできたがカンダタがやるべきことは決めている。まず、瑠璃との交流。その為にはこの第7層からの脱出を目指す。脱出するには第7層の仕組みを理解する。
 幸い、今は独りであり、カンダタは死者だ。瑠璃のような生者がいないので守る対象もない。この身を投げやりに扱っても構わないのだ。
 死の恐れがなければ、不明瞭な民家を探索するのも躊躇いはない。
 カンダタは玄関から土足で上がり、階段を登る。すすり声は聞こえてこない。
 ゴミ部屋は2階の奥側にあった。カンダタが手にしたのは手前のドアノブだった。静かに存在を消すように扉を開こうとしても古い金具は錆びた音を鳴らす。
 手前の部屋は寝室になっていた。2人分、並んで眠れる大きな寝具が先に目に入った。その上には予想通りに紅柘榴の後ろ姿がある。
 正座を崩した後ろ姿。身に付けているのは白藤色の肌襦袢のみ。背から腰までの先の白藤で彩っている。はだけた大胆な太ももや着崩れしてみせる項から肩までの素肌。彼女が呼吸をするたびに肩と胸あたりの背が膨らみ縮む。
 艶めかしい後ろ姿に唾を呑み、あれは偽物だと言い聞かせる。
 カンダタは紅柘榴を視界に入れるよう、寝室の角と角に目を回す。この層から脱出するのに必要な手がかりを探す。
 変哲もない寝室を見ただけでは探すとは言えない。
 やむを得ず、カンダタは寝台に座る紅柘榴を刺激しないよう静寂を纏いながら扉から一歩を踏み出す。
 音は出さなかった。それでも人の気配がしたのだろう。紅柘榴が振り返り、こちらを認識した。
 「やっときた」
 偽物の紅柘榴は垂れて顔にかかる髪を耳にかけ、はにかんで立ち上がるとカンダタに寄ってくる。
 着崩れした襦袢のあわいから2つの房が左右に揺れた。そのせいで更に襦袢が崩れ、房の全体が現れそうになる。
 「待て、待つんだ。動くな」
 咄嗟に寝台に上がり、襦袢の襟を正す。
 心配を他所に紅柘榴はせっかく隠した房を押し付けながら腕をカンダタの首に巻きつけてきた。
 左側の手がカンダタの右耳を撫でながら左耳に唇を寄せ、紅柘榴に似た声色で囁く。
 「いつまで待たせるの?」
 ゴミ部屋にいた紅柘榴と違い、膂力はない。くたびれた身体をカンダタに凭れかける。押しのけようとすればできる。だが、この紅柘榴にも抵抗できなかった。
 手を引かれても寝台に押し倒されても、やはりカンダタは彼女を拒絶できなかった。
 「べに、俺」
 このまま流されていいのかと頭の隅にある理性が抗議する。
 紅柘榴の親指が唇をなぞる。触れるだけでも体温が上がってしまう。目を閉じ、ゆっくりと顔を下がる。彼女が求めているものはわかっている。
 これは偽物だ。見た目だけが似ているだけだ。これも浮気になるだろうか。嫉妬心が強い紅柘榴はこの行為を許してくれるだろうか。
 脳が沸騰してしまいそうだ。混乱し、巡りめぐる思考では考えがまとまらない。そうしている間にも唇はすぐそこまで来ている。
 高揚、混乱、恐怖。それらが混ざり合い、何も答えを見出せないままカンダタは触れ合う唇の感触に耐えようと強く目を瞑る。
 紅柘榴の唇が触れたのはカンダタの唇ではなかった。
 ふっくらとした弾力のある唇は首筋、頸動脈に触れた。そこでカンダタも我に返り、のしかかる紅柘榴を剥がそうとしたが、遅かった。
 可愛らしい唇から露わになった歯が頸動脈を皮膚ごと引き裂こうと噛み付く。四肢は力強く、顎の強さは虎のようだった。
 皮膚が伸び、その内側にある動脈がぶつりと切れた。裂かれた皮膚の合間から出血が始まる。
 咬み傷を手で押さえ、出血を遅らせようとしても血の流れは止まらない。寝台に血溜まりが広がっていく。
 ときめいていた心臓は別の意味の高鳴りとなり、体温は手足の先から奪われる。
 紅柘榴が噛み付いてきたのは一度だけだ。後はカンダタの頬や頭、手を撫で、愛しくてたまらないと言う目つきでカンダタを見下ろした。
 口周りについた血でさえ拭うのも忘れ、ゆっくりと死んでいくカンダタを一瞬一秒たりとも逃すまいと瞬きもせずに見つめていた。
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