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1章 神様が作った実験場
邂逅するまで 11
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牙では届かないとやっと学習した鬼は乱暴的な鉤爪であたしへと伸ばしてくる。鉤爪の切っ先が首筋に触れたかと思うとあたしから引っ張られるように離れていく。触れた爪先は首に掠り傷とつけて獲物を逃す。
溝と線路の間から鬼の脚と誰かの脚が交互に足踏みをして砂と踊る。血が弾け、生臭さが蔓延し、怒声と悲鳴が飛び交う。
この血は誰のもの?この悲鳴の持ち主は?
声も上げられず、血も流さないあたしはホームの溝の中で小さく惨めに震える。
しばらくして、舞っていた砂は落ち着きを取り戻し、再び静寂やってきた。
少しだけ迷ったあたしは溝から出ることにした。
小さな戦場の跡には横たわる鬼の残骸があった。そして、ホームに腰を下ろして息を整えていたのはあの黒い男だった。
男は疲れた顔で笑うと自分の首筋に手を当てる。それはあたしの首についた掠り傷を示していた。
「掠り傷よ」
男が持つバールの先端は錆びた茶色と新鮮な赤色とが混じり、肉片がこびりつく。
静寂が訪れた今も男の肩は大きく上下に揺れて呼吸はまとまらずにいた。それでも男の目は真っ直ぐに曇天から差した光柱へと向けられる。
それは海を眺めるように穏やかで思い人を馳せるような悔しさで、彼から滲んだ感情は表現のしようがなく、複雑だった。
彼の横顔を眺めていたら首に細く光る物が首に巻かれていた。蜘蛛の糸のように伸びている。なんとなく、白銀の糸を目線で辿ってみればあたしの手首にまで続いていた。
いつの間に?
あたしに巻かれてある糸に触れてみれば、ふっ、とそれは姿を消す。
なんだろうと首を傾げるもすぐに目線を彼に戻した。
「あそこに何かあるの」
「あー、くぅ」
喋るのに慣れていないのかしら。違うわね。言葉を使っていなかったから喉が錆びたのかもしれない。一度、声を出すと錆びはとれていき、声量も先程よりは聞き取れるようになっていた。
あたしもホームに寄りかかって世界を照らす光柱を眺めることにした。
近くにいたハクは男をまじまじと観察して、反応をみようと頭に触れたり、肩に触れたりするもすり抜けてしまう。地獄でもハクは透明でその姿は男にも見えていないようね。
一先ず、あたしは彼に話しかけて喋らせようとした。
声の出し方を忘れてしまったのなら思い出せばいい。習慣化されたものは思い出すのも早いはず。
だからあたしはたくさん話しかけた。名前、年齢、いつからここにいるのか、なんでここにいるのか。
どれも生産性のない会話で一方的に話す場面もあった。それで漸く、ちょっとずつ話せるようになってきた。
「りゃ、くそ」
そう言っても彼の滑舌は最悪なもので発した単語が「約束」だと理解するのに少しだけ時間がかかった。
それでも、こいつの言っていることは理解できない。さっき言ったのは約束、よね?何よそれ。
あたしもホームに寄りかかって世界を照らす光柱を眺めることにした。
近くにいたハクは男をまじまじと観察して、反応をみようと頭に触れたり、肩に触れたりするもすり抜けてしまう。地獄でもハクは透明でその姿は男にも見えていないようね。
「ここにはあなたしかいないの?」
情報が欲しかった。あたしが地獄にいる限り知っておかないといけない最低限の知識を彼から得ようとする。
「きい、が、はじ、め、て」
「どのぐらいいるのよ」
これはちょっとした興味本位で聞いた。彼の身なりからして現代の人ではなかった。
「なま、えもわ、すえる、ほどなが、く」
「名前も?鶏だってもっとマシな記憶力を持ってるわよ」
あたしの悪癖がでた。男は眉をひそめる。突然言われた罵声に戸惑っていた。
「生まれつき口が悪いの。気にしないで」
詫びもしないあたしに男は不快になりながらも、この世界について拙い言葉使いで教えてくれた。
彼が指す空の穴には仏とやらがいて、あたしたちを見ていること。あそこに行けばこの世界から抜け出せること。そこには彼の待ち人もいるのだと、どうでもいいことまで話した。
まぁ、あたしの感想としては“何言ってんのこいつ”だ。
そう思うのは2度目ね。
この世に仏がいるなら与えられる試練は全て乗り越えられるし、努力は報われる。人が作る世だからこの世は地獄なのに。哀れな奴、頼る記憶もなくなって、孤独が言葉を上書きされて、空の穴とやらに待ち人を妄想した挙げ句、それを現実だと思い込む。可哀想すぎて笑えてくる。
男は空の穴へ共に行こうと提案していた。
誰かと行動するなんて疲れるだけだわ。でも、危険が多いのも確かで情報不足でもある。それに彼は鬼を撃退できて、長くいるから知識もある。特にやることもないし少しだけ付き合ってあげましょうか。
「そうね。行ってみようかしらね」
そう言ったあたしは手を差し出す。
「あたしは瑠璃よ」
男は差し出された手に戸惑う。そうか、握手の文化も知らないのね。だいぶ、古代人のようね。
「握手よ。よろしくって意味。あんたが生きていた時代や文化は語り草になっているみたいね」
男からしてみれば新しい文化の出会いになる。戸惑いながらも手を握り返して異文化に触れる。
「しゅき、に、よべ」
「そう、じゃあ、カンダタでいいかしら」
芥川龍之介の作品からとった名。現国は得意な分野ではないけれど教科書に載っていたあの話は印象的に残っていた。
神がいると信じて天国に行けると信じて切れる糸を辿って行くその姿はカンダタの名に相応しい。
名前の真意も知らずにカンダタは笑った。
溝と線路の間から鬼の脚と誰かの脚が交互に足踏みをして砂と踊る。血が弾け、生臭さが蔓延し、怒声と悲鳴が飛び交う。
この血は誰のもの?この悲鳴の持ち主は?
声も上げられず、血も流さないあたしはホームの溝の中で小さく惨めに震える。
しばらくして、舞っていた砂は落ち着きを取り戻し、再び静寂やってきた。
少しだけ迷ったあたしは溝から出ることにした。
小さな戦場の跡には横たわる鬼の残骸があった。そして、ホームに腰を下ろして息を整えていたのはあの黒い男だった。
男は疲れた顔で笑うと自分の首筋に手を当てる。それはあたしの首についた掠り傷を示していた。
「掠り傷よ」
男が持つバールの先端は錆びた茶色と新鮮な赤色とが混じり、肉片がこびりつく。
静寂が訪れた今も男の肩は大きく上下に揺れて呼吸はまとまらずにいた。それでも男の目は真っ直ぐに曇天から差した光柱へと向けられる。
それは海を眺めるように穏やかで思い人を馳せるような悔しさで、彼から滲んだ感情は表現のしようがなく、複雑だった。
彼の横顔を眺めていたら首に細く光る物が首に巻かれていた。蜘蛛の糸のように伸びている。なんとなく、白銀の糸を目線で辿ってみればあたしの手首にまで続いていた。
いつの間に?
あたしに巻かれてある糸に触れてみれば、ふっ、とそれは姿を消す。
なんだろうと首を傾げるもすぐに目線を彼に戻した。
「あそこに何かあるの」
「あー、くぅ」
喋るのに慣れていないのかしら。違うわね。言葉を使っていなかったから喉が錆びたのかもしれない。一度、声を出すと錆びはとれていき、声量も先程よりは聞き取れるようになっていた。
あたしもホームに寄りかかって世界を照らす光柱を眺めることにした。
近くにいたハクは男をまじまじと観察して、反応をみようと頭に触れたり、肩に触れたりするもすり抜けてしまう。地獄でもハクは透明でその姿は男にも見えていないようね。
一先ず、あたしは彼に話しかけて喋らせようとした。
声の出し方を忘れてしまったのなら思い出せばいい。習慣化されたものは思い出すのも早いはず。
だからあたしはたくさん話しかけた。名前、年齢、いつからここにいるのか、なんでここにいるのか。
どれも生産性のない会話で一方的に話す場面もあった。それで漸く、ちょっとずつ話せるようになってきた。
「りゃ、くそ」
そう言っても彼の滑舌は最悪なもので発した単語が「約束」だと理解するのに少しだけ時間がかかった。
それでも、こいつの言っていることは理解できない。さっき言ったのは約束、よね?何よそれ。
あたしもホームに寄りかかって世界を照らす光柱を眺めることにした。
近くにいたハクは男をまじまじと観察して、反応をみようと頭に触れたり、肩に触れたりするもすり抜けてしまう。地獄でもハクは透明でその姿は男にも見えていないようね。
「ここにはあなたしかいないの?」
情報が欲しかった。あたしが地獄にいる限り知っておかないといけない最低限の知識を彼から得ようとする。
「きい、が、はじ、め、て」
「どのぐらいいるのよ」
これはちょっとした興味本位で聞いた。彼の身なりからして現代の人ではなかった。
「なま、えもわ、すえる、ほどなが、く」
「名前も?鶏だってもっとマシな記憶力を持ってるわよ」
あたしの悪癖がでた。男は眉をひそめる。突然言われた罵声に戸惑っていた。
「生まれつき口が悪いの。気にしないで」
詫びもしないあたしに男は不快になりながらも、この世界について拙い言葉使いで教えてくれた。
彼が指す空の穴には仏とやらがいて、あたしたちを見ていること。あそこに行けばこの世界から抜け出せること。そこには彼の待ち人もいるのだと、どうでもいいことまで話した。
まぁ、あたしの感想としては“何言ってんのこいつ”だ。
そう思うのは2度目ね。
この世に仏がいるなら与えられる試練は全て乗り越えられるし、努力は報われる。人が作る世だからこの世は地獄なのに。哀れな奴、頼る記憶もなくなって、孤独が言葉を上書きされて、空の穴とやらに待ち人を妄想した挙げ句、それを現実だと思い込む。可哀想すぎて笑えてくる。
男は空の穴へ共に行こうと提案していた。
誰かと行動するなんて疲れるだけだわ。でも、危険が多いのも確かで情報不足でもある。それに彼は鬼を撃退できて、長くいるから知識もある。特にやることもないし少しだけ付き合ってあげましょうか。
「そうね。行ってみようかしらね」
そう言ったあたしは手を差し出す。
「あたしは瑠璃よ」
男は差し出された手に戸惑う。そうか、握手の文化も知らないのね。だいぶ、古代人のようね。
「握手よ。よろしくって意味。あんたが生きていた時代や文化は語り草になっているみたいね」
男からしてみれば新しい文化の出会いになる。戸惑いながらも手を握り返して異文化に触れる。
「しゅき、に、よべ」
「そう、じゃあ、カンダタでいいかしら」
芥川龍之介の作品からとった名。現国は得意な分野ではないけれど教科書に載っていたあの話は印象的に残っていた。
神がいると信じて天国に行けると信じて切れる糸を辿って行くその姿はカンダタの名に相応しい。
名前の真意も知らずにカンダタは笑った。
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