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1章 神様が作った実験場
邂逅するまで 8
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ビルの中で鬼の群れに出会し、男はあっさりと死んだ。
あれは酷かった。息の根を止めず、ゆっくり、べちゃくちゃと男の意識を残したまま食べられた。
どうせこれも忘れてしまうだろう。
そう思い至り、男は立ち上ってバールを手にする。そしてまた空の穴を求めて歩き出す。
いつまでこんなことを続けるのだろうか。一層のこと自我さえも捨ててしまおうか。思考を止めてしまおうか。
何百回、何千回も繰り返した問答だ。これにも飽きてしまった。
飽きた心はひとつの感情が死んだ証だ。いくつもの思考、思想が生まれて死んでいく。そうやって削られてすり減らされて男に残ったのはわずかな感情と「君に会う」という願望だけだった。この願望が自我を繋ぎ、切り離せないもどかしさが男を苦しめた。
駅まで着くと周囲に警戒の糸を張り巡らながら改札へと進む。
本来、多くの人が行き交うための場所なのにそこに立つのは男だけ。ただ広いだけの改札前は奇妙な虚ろを描く空間に思えた。
改札前を通る際も注意が必要だった。あそこは身を隠せる場所がないのだ。天井を支える円柱はあるが、身を隠すには頼りがない。
ゆっくりとした足取りで広間を通る。様々な所に注意を払う。向かうのは改札を抜け、ホームに上がる階段。その階段に何者かの影が差しこむ。階段を踏んで鳴らす音が無機質に反響する。
何者かなんて決まっている。それは間違いなく鬼だろう。この世界には男と鬼しかいないのだから。
幸い、商店通りからさほど離れていない。隠れる時間はまだある。
急いで戻った男は一軒の店へと入る。光はほとんど届かない店内は暗闇に包まれており、隠れるのに丁度よかった。カウンターの後ろに隠れて明るい外の様子を伺う。
何もなければそれでいいのだか、できれば姿を現してほしい。危険なものの行動を少しでも把握しておきたい。
鬼しかいないと確信があった。地獄は男に孤独を押し付けていた。ほかの人間がいるはずがないのだ。絶対的な事実。それを覆したのは一人の女性だった。金髪と異国の服だろうか。奇妙な恰好をしている。
女性は森に迷った少女の素振りで不安や好奇の瞳で周りを見渡す。
仏は男に孤独を押し付けられた。仏の真意は計りようがないが、人に飢えさえようとしていたのは確かだ。今の男がそういった状況だった。
だからこそ、突然現れた女性に唖然となった。石で頭を殴られたようで、思考もままならない。
彼女はもう一度、見渡してその後「はく」とだけ呟いて男は立ち上った。
人に会えた嬉しさか、孤独から生まれた欲求か、芽生えた感情に正体はなかった。しかし、懐かしい感覚だった。そこにいるのは確かに人なのだ。
走って来る男に女性は驚いて逃げようとするも手首を掴んで制止させる。途端に、女性が悲鳴を上げた。当たり前だ。見知らない男が走っていきなり掴んできたのだ。恐がるはずだ。
掴んだ手を引っ込めて身を退かせる。また女性も逃げようとせず、こちらを睨みつける。
初めての遭遇に胸が高鳴ったが、すぐに冷めた。彼女の深く冷たい目がこちらを責めて申し訳ない気持ちになる。
金髪の女性は男をつま先から毛先まで、まじまじと見つめた。安全確認をしているような鋭い目つきだ。
「あなた、あの時の」
独り言のような呟きが女性から漏れた。
会ったことはないはずだ。少なくともこんな目立つ風貌は忘れにくい。
「覚えがないのならいいの。忘れて」
記憶を探る様子はそのまま顔にでていたらしい。
気にしなくていいと言うのならそうしよう。どうせ乏しい記憶力では何も思い出せないのだ。
「で、あんた誰なの?あたしに用?」
用があったわけではない。強いて言うのならそこに人がいたからとしか答えられない。ひとまず、名を聞かれたならば、名乗らないといけない。
喉を鳴らそうと、息を吐く。出たのは空気が口喉を通る音だけだった。
名。自分の名。呼ばれていた名。男に押し付けられていたものはあまりにも長かった。それを実感したのはこの瞬間に他ならない。男の名は永久に埋もれてしまっていた。
「ねぇ、聞いてるの?喋れないわけじゃないんでしょ?」
「お、ん」
咄嗟に出た言葉は掠れて弱々しく舌もうまく動かせない。一応、声は出せるようだ。
そんなこと、と言いかけた言葉も言葉として成り立たなかった。
「じゃあ、なんなの?」
女性には苛立った棘があった。用もないのに知らない男に掴まれた。それがひどく不快だったらしい。
何も話せずにいると女性は大げさな溜め息を吐く。
「用がないなら、行くわ」
背を向けて去って行く。本当は引き留めたかった。
呼び止めようとするもその声すら出なかった。女性の手を掴むのも躊躇われて宙をかく。
ただ一人も呼び止められない自分に唖然とするしかなかった。自分はこれほど無力だっただろうか。
何かが変わるかと思った。もしかしたら、ここから抜け出せると。しかし、それは男が人に出会えただけのことで地獄の生活が終わるわけでない。
勝手に期待して勝手に落胆する。身勝手だったが、ひどく傷心していた。彼女の姿が見えなくなっても、しばらくの間頭を項垂れて佇む。周囲への警戒も怠っていた。そのぐらいに男の心情は落ちていた。
その心が危機感を鈍らせた。低い唸り声が背後から聞こえた。
凍ったのは背筋だけではなかった。悪寒は全身に伝わって逃げる脚ですら動こうとしない。男にできたのは目線だけを振り向かせて鬼の鉤爪を迎えることぐらいだった。
死んだのは一瞬のことで痛みもなかった。脳天から裂かれれば即死だろう。
いや、それよりもあの鬼だ。彼女はまだ駅にいるのだろうか。男を食った鬼は次に彼女を狙う。
焦燥が男を急かす。それとは逆にもう一人の、全てを達観する自分が囁く。
平気だろう。ここにいるということは彼女もまた罪人となって死んでしまったということだ。もう死んでいるのなら死ぬことはない。自分と同じだ。無意識に助けに行こうとしたが助ける義理もない。彼女は名も知らない他人なのだ。
それでいいのだろうか。死はなくとも見殺しにするのと変わりはない。そしたらまた下衆な男に戻ってしまう。
また?自分はいつ変わった?今も昔もかわらない下衆野郎だ。
なんだろう、この蟠りは。
正体不明の蟠りが男の中にあった。どこから生まれて来たのかは答えようがなかったが、その蟠りが訴えてくる。その思いに男は従った。
バールを手に入れて急いで駅へと向かう。
あれは酷かった。息の根を止めず、ゆっくり、べちゃくちゃと男の意識を残したまま食べられた。
どうせこれも忘れてしまうだろう。
そう思い至り、男は立ち上ってバールを手にする。そしてまた空の穴を求めて歩き出す。
いつまでこんなことを続けるのだろうか。一層のこと自我さえも捨ててしまおうか。思考を止めてしまおうか。
何百回、何千回も繰り返した問答だ。これにも飽きてしまった。
飽きた心はひとつの感情が死んだ証だ。いくつもの思考、思想が生まれて死んでいく。そうやって削られてすり減らされて男に残ったのはわずかな感情と「君に会う」という願望だけだった。この願望が自我を繋ぎ、切り離せないもどかしさが男を苦しめた。
駅まで着くと周囲に警戒の糸を張り巡らながら改札へと進む。
本来、多くの人が行き交うための場所なのにそこに立つのは男だけ。ただ広いだけの改札前は奇妙な虚ろを描く空間に思えた。
改札前を通る際も注意が必要だった。あそこは身を隠せる場所がないのだ。天井を支える円柱はあるが、身を隠すには頼りがない。
ゆっくりとした足取りで広間を通る。様々な所に注意を払う。向かうのは改札を抜け、ホームに上がる階段。その階段に何者かの影が差しこむ。階段を踏んで鳴らす音が無機質に反響する。
何者かなんて決まっている。それは間違いなく鬼だろう。この世界には男と鬼しかいないのだから。
幸い、商店通りからさほど離れていない。隠れる時間はまだある。
急いで戻った男は一軒の店へと入る。光はほとんど届かない店内は暗闇に包まれており、隠れるのに丁度よかった。カウンターの後ろに隠れて明るい外の様子を伺う。
何もなければそれでいいのだか、できれば姿を現してほしい。危険なものの行動を少しでも把握しておきたい。
鬼しかいないと確信があった。地獄は男に孤独を押し付けていた。ほかの人間がいるはずがないのだ。絶対的な事実。それを覆したのは一人の女性だった。金髪と異国の服だろうか。奇妙な恰好をしている。
女性は森に迷った少女の素振りで不安や好奇の瞳で周りを見渡す。
仏は男に孤独を押し付けられた。仏の真意は計りようがないが、人に飢えさえようとしていたのは確かだ。今の男がそういった状況だった。
だからこそ、突然現れた女性に唖然となった。石で頭を殴られたようで、思考もままならない。
彼女はもう一度、見渡してその後「はく」とだけ呟いて男は立ち上った。
人に会えた嬉しさか、孤独から生まれた欲求か、芽生えた感情に正体はなかった。しかし、懐かしい感覚だった。そこにいるのは確かに人なのだ。
走って来る男に女性は驚いて逃げようとするも手首を掴んで制止させる。途端に、女性が悲鳴を上げた。当たり前だ。見知らない男が走っていきなり掴んできたのだ。恐がるはずだ。
掴んだ手を引っ込めて身を退かせる。また女性も逃げようとせず、こちらを睨みつける。
初めての遭遇に胸が高鳴ったが、すぐに冷めた。彼女の深く冷たい目がこちらを責めて申し訳ない気持ちになる。
金髪の女性は男をつま先から毛先まで、まじまじと見つめた。安全確認をしているような鋭い目つきだ。
「あなた、あの時の」
独り言のような呟きが女性から漏れた。
会ったことはないはずだ。少なくともこんな目立つ風貌は忘れにくい。
「覚えがないのならいいの。忘れて」
記憶を探る様子はそのまま顔にでていたらしい。
気にしなくていいと言うのならそうしよう。どうせ乏しい記憶力では何も思い出せないのだ。
「で、あんた誰なの?あたしに用?」
用があったわけではない。強いて言うのならそこに人がいたからとしか答えられない。ひとまず、名を聞かれたならば、名乗らないといけない。
喉を鳴らそうと、息を吐く。出たのは空気が口喉を通る音だけだった。
名。自分の名。呼ばれていた名。男に押し付けられていたものはあまりにも長かった。それを実感したのはこの瞬間に他ならない。男の名は永久に埋もれてしまっていた。
「ねぇ、聞いてるの?喋れないわけじゃないんでしょ?」
「お、ん」
咄嗟に出た言葉は掠れて弱々しく舌もうまく動かせない。一応、声は出せるようだ。
そんなこと、と言いかけた言葉も言葉として成り立たなかった。
「じゃあ、なんなの?」
女性には苛立った棘があった。用もないのに知らない男に掴まれた。それがひどく不快だったらしい。
何も話せずにいると女性は大げさな溜め息を吐く。
「用がないなら、行くわ」
背を向けて去って行く。本当は引き留めたかった。
呼び止めようとするもその声すら出なかった。女性の手を掴むのも躊躇われて宙をかく。
ただ一人も呼び止められない自分に唖然とするしかなかった。自分はこれほど無力だっただろうか。
何かが変わるかと思った。もしかしたら、ここから抜け出せると。しかし、それは男が人に出会えただけのことで地獄の生活が終わるわけでない。
勝手に期待して勝手に落胆する。身勝手だったが、ひどく傷心していた。彼女の姿が見えなくなっても、しばらくの間頭を項垂れて佇む。周囲への警戒も怠っていた。そのぐらいに男の心情は落ちていた。
その心が危機感を鈍らせた。低い唸り声が背後から聞こえた。
凍ったのは背筋だけではなかった。悪寒は全身に伝わって逃げる脚ですら動こうとしない。男にできたのは目線だけを振り向かせて鬼の鉤爪を迎えることぐらいだった。
死んだのは一瞬のことで痛みもなかった。脳天から裂かれれば即死だろう。
いや、それよりもあの鬼だ。彼女はまだ駅にいるのだろうか。男を食った鬼は次に彼女を狙う。
焦燥が男を急かす。それとは逆にもう一人の、全てを達観する自分が囁く。
平気だろう。ここにいるということは彼女もまた罪人となって死んでしまったということだ。もう死んでいるのなら死ぬことはない。自分と同じだ。無意識に助けに行こうとしたが助ける義理もない。彼女は名も知らない他人なのだ。
それでいいのだろうか。死はなくとも見殺しにするのと変わりはない。そしたらまた下衆な男に戻ってしまう。
また?自分はいつ変わった?今も昔もかわらない下衆野郎だ。
なんだろう、この蟠りは。
正体不明の蟠りが男の中にあった。どこから生まれて来たのかは答えようがなかったが、その蟠りが訴えてくる。その思いに男は従った。
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