糸と蜘蛛

犬若丸

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1章 神様が作った実験場

彼女の日常について 8

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 帰る頃には20時になっていた。掃除の時間も夕食もない。苛立ちながら鞄を投げて制服を脱ぐ。そうしてある違和感に気が付いた。
 ブラウスの左ポケット、何かある。ティッシュ、ハンカチは右に入れている。左に何か入れた覚えはない。
 ポケットに手を入れ正体不明の物体を取り出す。中には和バサミと針、糸があった。ハサミも針も真っ白で針に括りつけられた糸も白銀の輝きを放つ。
 白いハサミも白い針も純白そのものでそれどころか影すらない。刃ものっぺりとしていて模様がない。
   どれも初めてみるもので、ポケットに入れた覚えがない。でも、白銀の糸は違った。これはあたしが夢で辿るあの白い糸だった。
 なんて馬鹿馬鹿しい現実なんだろう。夢の物が実現するなんて。
 あたしは裁縫3点セットをテーブルに置いてシャワーを浴びに行く。手早く済ませて部屋着に着替える。勉強する前に歯磨きを済ましておこうと洗面台と向き合う。そこであたしの手はとまった。
 洗面台のコップの隣。そこに裁縫3点セットがあった。
狐につかまされる。今の心情を表現するならこれがぴったりだった。
 これはリビングのテーブルに置いた。あれから一切触れていない。洗面台にあるはずがない。
 ハサミと糸に不信感を持ちながら、洗面台に放置する。
 多分、ここに置いたのをあたしが忘れただけ。生きていないんだから勝手に動くなんてありえない。
 歯磨きを終えて、自室の勉強机と向き合う。鞄からノートと教材、筆記用具をだして椅子に座った所で机の上にハサミと糸があることに気付く。
 触れてすらない。今度は確信を持てる。10分ほど前の出来事よ。2度も忘れるはずがない。
 不審を募りつつもハサミ、糸、針を持つ。変わったところはない。あるとすればハサミがプラスチック製というところかしら。刃には研がれた跡がなく、模様のない白さは柔らかい安全な玩具のようだった。なのに、感触は鉄の冷たい温度を持っていた。
 もしかしたら、単なる玩具かも。
 そう思い至ったあたしはノートを開いて白紙のページに刃をたてる。
 握るタイプのハサミは何度か使ったことがある。あたしの裁縫箱にはこの形のハサミが入っている。それなりに使いこなせる。
 初めて握る白いハサミ。なのに、あたしの手に馴染んで、使い古されたかのようにしっくり手中に収まった。
 奇妙な感覚を覚えつつハサミを下から上へと横断する。今までにないほどの切り心地。するりと刃は紙を滑ってあっという間に2枚に両断してしまう。
 見た目とは違ってよく切れるみたいね。紙は簡単に切れた。別のものはどうかしから。
 試してみたくなってノートを閉じる。そして、一冊ごと右から左へと横断する。
 何十にも重ねた紙の束はあっさりと切断しておしまった。驚くべきなのは、ハサミを握った手はほんの少しの握力しか使わなかったこと。紙一枚ならまだしも束ねたノートまではうまくいかない。
 もう一つ、試してみようとお気に入りのペンを取り出す。まさかこれは無理でしょ、と冗談のつもりでいた。
 刃をペンの中央に当ててハサミを握る。
 パキンッと小さな音をたて、2つに分かれたペン。綺麗で丸い切断面から黒いインキが垂れてノートの上に一滴二滴とノートの上に雫が落ちる。
 切れ味がいい、では済まされない。ただのハサミじゃない。なら、この糸も?
 次に針と糸を手に取る。
 ハサミと同様の真っ白なそれらはその色以外は普通の針と糸。針から垂れた糸を伸ばしてみる。針穴に通された糸なら、片方を引っ張れば片方が縮む。
 単純な物理法則なのに、白い糸と白い針はそれを笑って覆す。片側の糸はどこまでも伸びて、もう片側の糸は縮まらない。奇妙な風景を眺めていると一つのイメージが浮かんだ。
 あたしはそのイメージに従って、2本にされたペンを持って切断面を合わせる。2つの境界線をなぞるように針と糸で縫う。
 普通、針はプラスチックを通さない。猿でもわかる常識。なのに、あたしの思考は、あたしのイメージは縫えるのだと信じて疑わない。始めからそれができると知っていたかのよう。
 実際にイメージ通りに針はペンの柄をすり抜けて糸は2つに分かれたペンを縫う。
 ペンの柄を一周してしまうと縫い目も切断した跡も綺麗になくなっていた。まるで切断だれた事実がなかったみたいだった。唯一、それがあったと証明したのはノートの上に雫となって落ちた黒い液体と少しだけ減ったインクの量。
 あたしはペンを置いて起こった事象を整理しようとした。でも、どうやっても目の前の出来事を言葉にするのも難しく、それらを冷静に分析するのもできない。
 なんでも切ってしまうハサミとくっつけてしまう糸。
 何かがあたしをおかしくさせていた。


 翌日になって同じ時間の同じ電車に乗って同じように学校へ向かう。昨日と違うのは例のハサミと糸があたしの傍にあることだ。
 家に置いて来たのに気が付けば制服のポケットに入っている。これに関しては悩むのを止めた。気味は悪いけど離れなれないのなら仕方がない。これらが災いを呼ぶわけでもないし。多分だけど。
 チャイムが鳴って朝のSHRを告げる。あれほどうるさかった教室は静かになって、やる気のない坂本が間延びした挨拶をしながら教室に入ってくる。猫背地味の坂本の後ろをくっついてきたのは夢の中で出会ったの白い鬼だった。
 あたしの平静がジェンガのように崩れる。
   あたしはあんぐりと口を開いて、その間抜けな顔でジェンガが倒れるのを止められなかった。
 2mほどの白い怪物が教室に入ってきたというのにクラスの生徒たちはいつも通りに坂本の話を聞いて、坂本もすぐ横にいる怪物に驚きもせず、見向きもしない。
 あれが見えているのはあたしだけ?嘘でしょ?
 夢で見たあの鬼がそのまま現実に現れた。
 巨体で悍ましい形相、見た夢とそのまま同じ。
 あたしがおかしくなった?夢と現実の区別がつかなくなった?
 坂本が点呼をとっている間、白い鬼がキョロキョロと見渡して何かを探す。あたしが放心していると目が合って、白い鬼はこちらへと向かってくる。白い鬼は実体を持っていないようで並んだ机や椅子、生徒たちをすり抜けていく。
 やっぱり、あたしの頭のネジが外れたんだ。
 あたしの前まで来た白い鬼は満足げに鼻息を荒げて生温かい息が顔に吹く。
 あたしの日常はここからおかしくなった。
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