糸と蜘蛛

犬若丸

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1章 神様が作った実験場

彼女の日常について 1

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 あたしが見る夢はいつも同じ。
 まず、あるのは静寂。闇の静けさ。
 あたしはぽつんとそこに立つ。喋るわけでもなく、歩くわけでもなく、広大な静寂に身を委ねる。
 そうしているうちに二つの事象が浮かんでくる。いつの間にか白い糸が左の手首に巻かれていている。細い白銀の線は手首から途方もなく、静寂の闇へと伸びていた。
 もう一つはいくつもの赤い糸があたしを囲んでいること。赤い糸は重なったり、交わっていたりするけれど、どれも闇の奥から伸びて闇の先へと消える。どこから繋がってどこまで続いているのかは不明のまま。
 あたしは手首に巻かれた白い糸を辿る。ピンと張った赤い糸を避けながら静寂を歩く。
 しばらく歩いていると次第に明るくなって、ぼんやりとした光は輪郭を描く。
 辿り着くのはいつも同じ場所。
 崩れた家、剥き出しの鉄骨、草木は枯れ跡すらなくて砂埃が地を埋める。空は死んで暗い曇天が覆う。空にあるのは重い曇天だけじゃない。空に丸く裂いた大きな光の穴。台風の目のようなものが荒廃した世界を上から照らしていた。
 あたしが辿り着いたのは馴染みのある住宅街だった。あたしが住むマンションの周辺。つまり、ここは近所になる。いつもは知らない土地に着いてしまうのに、今夜の夢はあたしをこの場所に導いたようだった。
 辺りを見渡していると見覚えのある老人がこちら向かって走って来る。
 あの老人はあたしを知らないけど、あたしは知っている。近所では有名人だったから。悪い意味で。
 老人はゴミ屋敷の主人で外観も悪臭もひどかった。役員が来ても怒鳴り、ヒソヒソと話す主婦たちにも怒鳴り、下校中の学生にも怒鳴りで迷惑行為が目立っていた。
 近所の害悪だったその人は先週、遺体となって見つかった。自殺だそうだ。
 そう、あたしがいつも見る夢は死者の刑務所、地獄の風景だった。老人を追い詰めるのは地獄の住民、鬼。
 夜よりも暗い肌、狼に似た顔の輪郭、二本足で立てば
2mくらい。骨と皮しかない体格なのにその腕力は太い鉄柱も折ってしまう。2本の脚は人よりも速く、ご老体では到底、敵わない。太くて長い鉤爪は老人の頭を簡単に潰す。
 これは夢。苦痛の悲鳴も内臓の臭いもあたしには届かない。あちらもあたしを認識できない。鬼が人を食う、その風景を眺めるだけの静かな夢。
 老人のはらわたが引きずり出されてスマホのアラームが鳴る。朝が来た。
目を瞑るとまた闇が覆う。そうするとアラーム音が大きくなってあたしは夢から覚める。
枕元のスマホを手に取り、寝惚けた目で日時を確認する。
6月中旬の月曜日、午前6時半。天気は雨。最悪ね。
   長い一週間が始まった。
 ベッドからゆっくり起き上がり、まだ重い脚を引き摺るようにして歩く。
 洗面器の前に立てば鏡と向き合うことになる。死んだ目でこちらを睨む自分の顔を見ていると憂鬱さが増していくようで、あたしは鏡から目を逸らした。
 リビングに移動してテレビをつけて、ニュース番組を流す。それを聞きながら朝食の準備をする。
 ニュースから流れるのは偽りだらけの政治論と暴力的な国際問題、他人事の不倫騒動、ゴミ袋に詰められた胎児の事件。
 くだらないことばっかり。
 朝食のメニューはこんがり焼いたトーストとベーコン、目玉焼き、サラダ、そして叔母のマーマレード。それらをテーブルに並べて朝食にする。
 芳ばしくなったトーストにまろやかなバターが染み込んで、サクサク食感のパンをゆっくりとバターが柔らかくさせていく。3口ほどバタートーストを楽しんでから叔母のマーマレードをたっぷりと塗りたくる。
 叔母自慢のマーマレードは甘いのにほろ苦い。余分なものはいれず、調味料は砂糖だけ。柑橘類のジャムは苦く、甘く、そしてほんのりと酸味が残る。どれかが欠けても多くてもこのマーマレードは完成しない。それぞれの味が役割を果たし、目立とうとしない。故に絶妙なバランスを保っている。
 シンプルだけどシンプルだからこそ飽きることなく長年、朝食のテーブルにオレンジの瓶が置かれている。そのマーマレードとバター香るトースターの柔らかくなる寸前の食感、甘いのに苦い味、あとから香るオレンジの香り。
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