糸と蜘蛛

犬若丸

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5章 恋焦がれ巡る地獄旅行

追想の中で 2

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 蛇口から流れる冷水がザーザーと下水口へと落ちていく。
 早朝の洗面所は薄暗く、肌寒い。だから冷水を顔に被せる。そうすれば思考が冴え渡り、自分が成すべきことが明確に見えてくる。
 表面の鏡と向き合えば深い影を落とした自分の顔と自分の背中にしがみつく赤い目の少年が映る。少年の齢は8歳を過ぎ、その急成長はいまだに止まらない。
 少年が口を開く。生意気にも文句を言っている。
「平気だって。あの人の言う通りにすればうまくいく」
 鏡の中にいる赤い瞳の少年に語りかける。
「お父さんもお母さんも気付いていない。あの猫も」
 しかし、少年は違うと首を振るう。何かしら言ってくるもその言葉は耳障りにしかならない。
「うっさいなぁ。どうせ逆らえないんだからおとなしく従うしかないでしょ」
 少年は深く項垂れる。
「男の子は呑気で良いよね。そうやって口先だけ言っとけばなんでも解決するって思ってる。私も君みたいに浅はかに生きてみたいよ」
 下唇を苦しそうに噛んで少年は押し黙る。それを視界の隅に捉え、荒々しくタオルを取り濡れた顔を拭く。
「キヨネ」
 名前を呼ばれて振り返ると木目の半面を被った黒猫がいた。
「おはよう、ケイ」
 いつものように笑って返事するとケイは小さく頷いた。昨夜洗った黒い毛並みが陽光に反射し、キラキラしている。
 流しっぱなしの水を止めてタオルを戻す。太陽は今日も洗面所を照らし、爽やかな朝を届ける。
「お腹空いたよね。すぐにご飯用意するね」
 ケイの世話はできる限り清音がする。それが家族の決まり事で朝ごはんも用意するのも清音の役割だ。
 「誰がいた?」
 現在、両親は不在で気兼ねなくケイと会話ができる。
 「なんで?」
「話し声がした」
 唐突なケイの質問にキヨネは首を傾げた。
 「私の?」
 ウロチョロと見渡しながら見えない話し相手を探す。どこをどう見てもそこには清音1人しかいない。
 はっきりとしてはいなかったが、誰かに語りかけるような口調をケイは聞いていた。
「あ、さっき言った野良猫かな」
「ケイみたいな黒猫でね、可愛くて話しかけてたんだ。でも逃げちゃった」
 なんでもないように笑うとケイは納得し、それ以上追求はしなかった。
 台所に行き、ケイ用の皿にカリカリの餌を盛る。ケイに持っていく前にポケットからピルケースを取り出す。中にはカプセル剤があり、清音はそれを2つに割って中の粉末を餌にかける。そして粉末が馴染むようにカリカリ餌を混ぜたらご飯の完成だ。
 リビングにまで持っていくとタイミングよくケイが洗面所からやってきた。用意されたカリカリのご飯を食べる様子に清音は嬉しくなり自然と笑顔を作る。
「明日留守になる」
 食事しながらケイが言う。既に決まったことだと今更になって告げられた。
 「瑠璃のとこ?」
 ケイの背中を撫でながら質問を重ねる。
「あちら側に行くんだね。何を企んでるの?」
「蝶男を追う」
「そっか。光弥も一緒に行くの?」
 瑠璃とカンダタは当然として、光弥はあの2人についていくのかわからなかった。
「行くだろうな」
「明日?」
「そうだ」
 ご飯を食べながら早口で答える。ケイの回答に満足して清音は立ち上がり、自身の部屋へと戻る。
 カーテンが閉められたままの室内は朝だと言うのに深い影が女子高生のテリトリーを支配していた。
 陽光を許さない空間に踏み入って等身大の鏡の前に佇む。そこに写っているのは大きな決断を目前にして不敵に誇らしく笑う彼女がいた。その背後では赤い目の少年が誇らしさとは真逆の感情を抱いていた。
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