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4章 闇底で交わす小指
望まなかったもの 3
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赤い濁流に翻弄され、もがくこともできないから流れに身を任せる。
激しい濁流が次第に穏やかになって、赤い血から黒い羊水へと変わった頃に流れが止まった。
この液体から脱したいのに上と下の区別もつかなくなっていた。
軋んで痛んでいた骨の感覚が遠のいていく。同時にあたしの意識は微睡む。
子取りに圧死されそうになって、濁流に揉まれて、もがく体力もない。
溺れる感覚はなかった。ふわふわと漂うのは悪くない。寧ろ、あたしを包む羊水に守られている気がして安らいでしまう。
「子供なんて」
心地の良い波に揺られていると苦痛を混ぜ合わされた女性の声色が波紋となってあたしに伝わった。
「責任を負うのはいつも女ばかり」
意識が覚めるほどの鋭い怨嗟。良い気分は冷めきって、代わりに心を蝕む恐怖が全身を這い回る。
「欲しくて作ったんじゃない。おろすにしたって金が足りない。日増しに腹が膨らんで、悪阻で吐いて、肌も荒れる」
恐怖心は気力を呼び覚まし、目印もない暗い羊水の中を足掻いて進む。
明暗のない暗闇ではどこに向かっているのかさえわからない。見渡すかぎりの暗闇で上がっているのか下がっているのか。
もしかしたら、どこにも行けず、足掻いたままその場に留まっているのかもしれない。
「あぁ、あぁ、憎たらしい憎たらしい。腹の子さえなければ。いっそのこと身投げしてやろうか。それとも鋏で中を掻き回して腹からこいつを追い出そうか」
刃と刃を擦り合わせる鋏の音が不気味に奏でられる。足元へと視線を向ければ、闇底で鈍く光る鈍色の硬皮があった。蠍の鬼があたしを裂こうと迫ってくる。
上下の区別なんか気にしていられなくなった。あたしは蠍の鬼から逃げようと手足をばたつかせる。
水泳は得意というわけでもないけれど、全くできないわけでもない。
濁流で泳げなくても穏やかな羊水だと苦はない。なのに進んでいる気がしなくて、それでいて、蠍の鬼はぐんぐんと距離を縮ませる。
いくら足掻いても羊水と蠍の鬼からは逃げられそうにない。現状はもう駄目だと語っていたけれど、諦めの悪い手足は足掻き続けた。
ばたつくあたしの腕を誰かが掴んだ。暗闇ではその正体は見えない。
あたしを闇底から引き上げる。腕から伝わるその感触は人のものとは違う。
あたしの腕が小枝に見えてくる大きな手。なのに、赤子のようにふっくらとしている。
羊水から引き上げられたのはあっという間だった。
岸に打ち上げられて、口に入った羊水を吐き出す。あたしを救った手は離されていた。
呼吸を整えながら、黒い羊水の中を覗く。
そこには真っ暗な闇底がこちらを見ているだけで、迫っていた蠍の鬼はどこにもいない。
また変なものを見せられたわね。
いや、感じさせられた。
全身に這いずり回ったあの感覚。束縛されて、行き場がなく逃げられないあの感覚。女性の幻聴は底なしの憎しみを孕んでいて、嘆いて助けを呼びたくなった。
「会いたいよ」「生きたいよ」それらの感情があたしの中で生まれた。恐らくこれは胎児たちが持っている感情で、それがあたしの魂に触れた。
あたしは頭を振る。
同情してはいけない。
哀れめば胚羊水に呑まれる。清音みたいに。
「あー、うー」
頭上から幼げな声が聞こえてきて、見上げる。
黒く巨大な赤子があたしを見下げていた。
恐怖が甦り、身体は後退し、危うく羊水の湖に落ちそうになった。
「うー?」
それは子取りに似ていた。
巨大で赤黒い。それらは一致しているけれど、特徴が違う部分もある。
あたしの目の前にいる赤子は膝あたりからの両足がない。後頭部は溶かされた痕を残し、骨や欠損した脳が露わになっている。その頭には胎児の死屍や赤紫の泥はない。
背中には細長い触手のような手がいくつも伸びていて、そのどれもが力なく垂れ下がっている。
見た目はグロテスクなのに、あどけない仕草は子供と同じだった。
激しい濁流が次第に穏やかになって、赤い血から黒い羊水へと変わった頃に流れが止まった。
この液体から脱したいのに上と下の区別もつかなくなっていた。
軋んで痛んでいた骨の感覚が遠のいていく。同時にあたしの意識は微睡む。
子取りに圧死されそうになって、濁流に揉まれて、もがく体力もない。
溺れる感覚はなかった。ふわふわと漂うのは悪くない。寧ろ、あたしを包む羊水に守られている気がして安らいでしまう。
「子供なんて」
心地の良い波に揺られていると苦痛を混ぜ合わされた女性の声色が波紋となってあたしに伝わった。
「責任を負うのはいつも女ばかり」
意識が覚めるほどの鋭い怨嗟。良い気分は冷めきって、代わりに心を蝕む恐怖が全身を這い回る。
「欲しくて作ったんじゃない。おろすにしたって金が足りない。日増しに腹が膨らんで、悪阻で吐いて、肌も荒れる」
恐怖心は気力を呼び覚まし、目印もない暗い羊水の中を足掻いて進む。
明暗のない暗闇ではどこに向かっているのかさえわからない。見渡すかぎりの暗闇で上がっているのか下がっているのか。
もしかしたら、どこにも行けず、足掻いたままその場に留まっているのかもしれない。
「あぁ、あぁ、憎たらしい憎たらしい。腹の子さえなければ。いっそのこと身投げしてやろうか。それとも鋏で中を掻き回して腹からこいつを追い出そうか」
刃と刃を擦り合わせる鋏の音が不気味に奏でられる。足元へと視線を向ければ、闇底で鈍く光る鈍色の硬皮があった。蠍の鬼があたしを裂こうと迫ってくる。
上下の区別なんか気にしていられなくなった。あたしは蠍の鬼から逃げようと手足をばたつかせる。
水泳は得意というわけでもないけれど、全くできないわけでもない。
濁流で泳げなくても穏やかな羊水だと苦はない。なのに進んでいる気がしなくて、それでいて、蠍の鬼はぐんぐんと距離を縮ませる。
いくら足掻いても羊水と蠍の鬼からは逃げられそうにない。現状はもう駄目だと語っていたけれど、諦めの悪い手足は足掻き続けた。
ばたつくあたしの腕を誰かが掴んだ。暗闇ではその正体は見えない。
あたしを闇底から引き上げる。腕から伝わるその感触は人のものとは違う。
あたしの腕が小枝に見えてくる大きな手。なのに、赤子のようにふっくらとしている。
羊水から引き上げられたのはあっという間だった。
岸に打ち上げられて、口に入った羊水を吐き出す。あたしを救った手は離されていた。
呼吸を整えながら、黒い羊水の中を覗く。
そこには真っ暗な闇底がこちらを見ているだけで、迫っていた蠍の鬼はどこにもいない。
また変なものを見せられたわね。
いや、感じさせられた。
全身に這いずり回ったあの感覚。束縛されて、行き場がなく逃げられないあの感覚。女性の幻聴は底なしの憎しみを孕んでいて、嘆いて助けを呼びたくなった。
「会いたいよ」「生きたいよ」それらの感情があたしの中で生まれた。恐らくこれは胎児たちが持っている感情で、それがあたしの魂に触れた。
あたしは頭を振る。
同情してはいけない。
哀れめば胚羊水に呑まれる。清音みたいに。
「あー、うー」
頭上から幼げな声が聞こえてきて、見上げる。
黒く巨大な赤子があたしを見下げていた。
恐怖が甦り、身体は後退し、危うく羊水の湖に落ちそうになった。
「うー?」
それは子取りに似ていた。
巨大で赤黒い。それらは一致しているけれど、特徴が違う部分もある。
あたしの目の前にいる赤子は膝あたりからの両足がない。後頭部は溶かされた痕を残し、骨や欠損した脳が露わになっている。その頭には胎児の死屍や赤紫の泥はない。
背中には細長い触手のような手がいくつも伸びていて、そのどれもが力なく垂れ下がっている。
見た目はグロテスクなのに、あどけない仕草は子供と同じだった。
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