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4章 闇底で交わす小指
カンダタ、生前 崩れる 19
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紅柘榴は俺と別れるつもりだろう。これ以上、俺が巻き込まれないように。
俺の無事がわかれば、安心して人喰い塀に戻れる。非道な男がいるあの塀に囲われる。
あそこで何をされていたのか俺は知らなかった。だが、この身で体験した。
彼女をあの塀に戻さない。行かせない。
「離れるな」
俺の手が紅柘榴の手を覆い、強く握った。
「俺から離れるな」
二度、言うと紅柘榴の顔が上げられ、俺と目が合う。目尻に溜まった涙が今にも落ちそうだ。
「あそこで何をされていたのか聞かない。けど、あそこがべにを苦しめているのなら黙ってはいられない」
「離して」
「戻りたいのか?」
手を解こうとせず、握力を強める。
「痛い。離して」
紅柘榴の声が震えている。
「答えてくれ」
「死んで欲しくないから。あちら側に行って欲しくないから」
溜まった涙が一粒二粒と落ちた。二人の間に沈黙が降り、細波の音が静かに揺れる。
いくら涙を拭っても止めどなく、流れ続けた。
紅柘榴は塀の外に俺を逃しただけだ。用が済めば塀に戻る。戻らないと蝶男が追ってくる。そうすれば、今度こそ、俺は紅柘榴が言うあちら側に行くことになるだろう。
強く握っていた手を解いた。紅柘榴の手には赤い痕が残されていた。
代わりに肩に手を回し、俺の胸へと寄せる。紅柘榴の吐息と心音が胸に伝わる。
「離すつもりはない」
「駄目、死んじゃう」
そう言いながら、抵抗しない。引き寄せた腕は柔らかく、抵抗されたらすぐに離れられる。しかし、紅柘榴はそれをしない。俺から逃げようとしない。
「なぁ」
細波に合わせて呼吸する。
答えが欲しい。共に生きたいと願う紅柘榴の答えが。
紅柘榴の腕が上がり、俺の胸に当てられる。そのまま抵抗されるかと思ったが違った。
「心音が聞こえる」
細波に合わせて紅柘榴が言う。
聴覚と触覚で俺の心音を確かめる。俺が生きている証を聞く。
「俺にも聞かせてくれ」
紅柘榴が黙って頷く。
自身の耳を紅柘榴の胸に当てる。脈を打ち、鼓動する音が身体の奥から聞こえてくる。それは細波よりも強く、俺たちを囲む静寂よりも不確かだ。
それでも生きている。俺たちは生きている。
「べにが苦しめられに戻るというなら」
彼女の心音を聞きながら話す。
「俺がべにを縛る。どこにも行かせない」
「いいかもね。それも」
目を瞠った。離してと抵抗していた紅柘榴が同意している。
「いいのか?」
「聞いたくせに驚くの?」
呆れて笑った紅柘榴につられ、俺も笑う。
太陽が沈み、また夜が訪れようとしている。
夜は安らぎも絶望も与えない。ただ、自然の理に従い、月が移動するだけだ。星と月を連れ、太陽を遠ざけ、夜を深くさせ、静寂は命を眠らせる。
俺たちは静寂に逆らい、互いの心音を伝え合った。
俺が暗闇に閉じ込められていたのは七日ではなく、三日だったらしい。紅柘榴の話だけでは遽に信じられなかったが、月の満ち欠けを確認しれば、七日も経っていない。
影弥が言っていた満月にはまだ日数がある。
それまで蝶男は俺たちを探すのだろうか。
俺たちを追跡しているならばこんな荒屋はすぐに見つかる。
移動しながら満月までやり過ごすべきか。
いや、だが。
荒屋から移動するのを躊躇う。勘のようなものだ。今はその時じゃないと誰かの声が囁く。
人の目を避けながら食料を得て、荒屋に戻る。
「ただいま」
荒屋で退屈そうに待つ紅柘榴に安心し、吐息を漏らす。寝転がり、戸に背をを向けていた紅柘榴は俺の声に飛び降りると俺に抱きつく。
「遅かったね」
彼女もまた俺が戻ってきたことに安心する。
「色々、調達してきた。一先ず、飯にしようか」
長い旅路になるかもしれない。出発するまでは万全の備えをしておきたい。
本来なら、それをした後に紅柘榴を荒屋で匿いたかったが、悠長なことをしていられなくなった。
「満月まで籠もってないといけないの?」
干し餅を食べながら不服そうに訊ねる。不満に感じているのは俺が毎日のように彼女を一人にして置いて行くからだ。
仕方がないと頭で納得しつつも、不満は積もっていく。
出発のその日まで紅柘榴を外に出すつもりはなかった。蝶男がどこまで俺たちに迫っているのか、どこに潜んでいるのかと考えると無闇に出せない。
「もう少し辛抱してくれ。満月になれば外に出られる」
「そこは別に問題ないけど」
語気が弱くなり、まじまじと見つめられる。
「一緒にいてくれるんじゃなかったの」
「拗ねるなよ」
「そんなことない」
紅柘榴が干し餅を少しずつ削るようにして食べている。紅柘榴らしくない食べ方だ。
慈しみの感情がどうしようなく溢れ、綻んだ。
俺の無事がわかれば、安心して人喰い塀に戻れる。非道な男がいるあの塀に囲われる。
あそこで何をされていたのか俺は知らなかった。だが、この身で体験した。
彼女をあの塀に戻さない。行かせない。
「離れるな」
俺の手が紅柘榴の手を覆い、強く握った。
「俺から離れるな」
二度、言うと紅柘榴の顔が上げられ、俺と目が合う。目尻に溜まった涙が今にも落ちそうだ。
「あそこで何をされていたのか聞かない。けど、あそこがべにを苦しめているのなら黙ってはいられない」
「離して」
「戻りたいのか?」
手を解こうとせず、握力を強める。
「痛い。離して」
紅柘榴の声が震えている。
「答えてくれ」
「死んで欲しくないから。あちら側に行って欲しくないから」
溜まった涙が一粒二粒と落ちた。二人の間に沈黙が降り、細波の音が静かに揺れる。
いくら涙を拭っても止めどなく、流れ続けた。
紅柘榴は塀の外に俺を逃しただけだ。用が済めば塀に戻る。戻らないと蝶男が追ってくる。そうすれば、今度こそ、俺は紅柘榴が言うあちら側に行くことになるだろう。
強く握っていた手を解いた。紅柘榴の手には赤い痕が残されていた。
代わりに肩に手を回し、俺の胸へと寄せる。紅柘榴の吐息と心音が胸に伝わる。
「離すつもりはない」
「駄目、死んじゃう」
そう言いながら、抵抗しない。引き寄せた腕は柔らかく、抵抗されたらすぐに離れられる。しかし、紅柘榴はそれをしない。俺から逃げようとしない。
「なぁ」
細波に合わせて呼吸する。
答えが欲しい。共に生きたいと願う紅柘榴の答えが。
紅柘榴の腕が上がり、俺の胸に当てられる。そのまま抵抗されるかと思ったが違った。
「心音が聞こえる」
細波に合わせて紅柘榴が言う。
聴覚と触覚で俺の心音を確かめる。俺が生きている証を聞く。
「俺にも聞かせてくれ」
紅柘榴が黙って頷く。
自身の耳を紅柘榴の胸に当てる。脈を打ち、鼓動する音が身体の奥から聞こえてくる。それは細波よりも強く、俺たちを囲む静寂よりも不確かだ。
それでも生きている。俺たちは生きている。
「べにが苦しめられに戻るというなら」
彼女の心音を聞きながら話す。
「俺がべにを縛る。どこにも行かせない」
「いいかもね。それも」
目を瞠った。離してと抵抗していた紅柘榴が同意している。
「いいのか?」
「聞いたくせに驚くの?」
呆れて笑った紅柘榴につられ、俺も笑う。
太陽が沈み、また夜が訪れようとしている。
夜は安らぎも絶望も与えない。ただ、自然の理に従い、月が移動するだけだ。星と月を連れ、太陽を遠ざけ、夜を深くさせ、静寂は命を眠らせる。
俺たちは静寂に逆らい、互いの心音を伝え合った。
俺が暗闇に閉じ込められていたのは七日ではなく、三日だったらしい。紅柘榴の話だけでは遽に信じられなかったが、月の満ち欠けを確認しれば、七日も経っていない。
影弥が言っていた満月にはまだ日数がある。
それまで蝶男は俺たちを探すのだろうか。
俺たちを追跡しているならばこんな荒屋はすぐに見つかる。
移動しながら満月までやり過ごすべきか。
いや、だが。
荒屋から移動するのを躊躇う。勘のようなものだ。今はその時じゃないと誰かの声が囁く。
人の目を避けながら食料を得て、荒屋に戻る。
「ただいま」
荒屋で退屈そうに待つ紅柘榴に安心し、吐息を漏らす。寝転がり、戸に背をを向けていた紅柘榴は俺の声に飛び降りると俺に抱きつく。
「遅かったね」
彼女もまた俺が戻ってきたことに安心する。
「色々、調達してきた。一先ず、飯にしようか」
長い旅路になるかもしれない。出発するまでは万全の備えをしておきたい。
本来なら、それをした後に紅柘榴を荒屋で匿いたかったが、悠長なことをしていられなくなった。
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「もう少し辛抱してくれ。満月になれば外に出られる」
「そこは別に問題ないけど」
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「一緒にいてくれるんじゃなかったの」
「拗ねるなよ」
「そんなことない」
紅柘榴が干し餅を少しずつ削るようにして食べている。紅柘榴らしくない食べ方だ。
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