上 下
65 / 138
オメガならよかった

暗雲

しおりを挟む



 床に置きっぱなしだった鞄を手に、リビングを出ていく彼のあとを追う。

「なつ」

 旅行以来、二人きりのときだけ使われる呼び方で名前を呼ばれる。
 急いでいるからか、その声は、いつもと違って、どこか切迫した響きに感じられた。

「もし……、何か身の回りでおかしなことがあったら、すぐに白木さんに相談しろ。白木さんがいないところで誰かと食事するのも、やめておいたほうがいい」

 背中を向けられているから表情はわからない。
 身の回りでおかしなこと――と言われてすぐに思い出したのは、一度目の人生のことだ。三間と食事に行き、イレギュラーな発情ヒートが来たことで、人生が一変した。
 でも、三間がそのことを知っているはずがないし、今回は今のところ誰かの恨みを買った覚えもない。僕の身の回りで、いったいどんなおかしなことが起こると言うのか。

「それから……」

 脱ぎっぱなしだった靴に足を通しながら、三間が話を続ける。

「夕食作りは、しばらく休みでいい」

 色々と気がかりなことが他にもあったはずなのに。全部頭から吹っ飛んでしまった。

 靴を履き終え、体ごと振り返った三間と向かい合う。三和土と廊下の段差のせいで、いつもと違って目線がほとんど同じ高さにあった。

「しばらくって……、いつまでですか?」

「今はまだわからない。面倒事が片付いたら、今後のことについては、一度ちゃんと話をしたい」

 急に空気が張りつめたのは、アルファの威圧感だろうか。これ以上何も訊くな、と言外に言われているのがわかる。喉が委縮し、それ以上何も訊けなくなった。

 三間の手が、僕のほうへと伸びてくる。頬に、そっと触れられる。
 ほんの一瞬。存在を確かめるような、遠慮がちな触れ方だった。

 もっと触ってほしい。
 諒真さんにされたみたいに、ぎゅっと抱きしめてほしい。

 そんな思いが、顔に出てしまったからか。
 物足りなさだけを残して、すぐにその手は離れていった。


 その行動に、何か意味があったのかはわからない。

「行ってくる」

 自分に、「行ってらっしゃい」と言う資格はない気がして。玄関を出て行く彼を無言で見送る。

 きっとこの家でこうして彼を送り出すのは、これが最初で最後なのだろう。そんな予感が、いつまでも僕をその場から動けなくさせていた。



 彼の行き先と、呼び出した人物を僕が知ったのは、翌日のことだ。

 翌朝。撮影所に現れた三間は、前日と同じ服装で、佑美さんの、濃いオメガフェロモンの匂いを纏っていた。
 佑美さんは予定より早く発情期ヒートが来て、その日の撮影は急遽休みを取ることになったとのことだった。



しおりを挟む
感想 115

あなたにおすすめの小説

悪役令息に転生して絶望していたら王国至宝のエルフ様にヨシヨシしてもらえるので、頑張って生きたいと思います!

梻メギ
BL
「あ…もう、駄目だ」プツリと糸が切れるように限界を迎え死に至ったブラック企業に勤める主人公は、目覚めると悪役令息になっていた。どのルートを辿っても断罪確定な悪役令息に生まれ変わったことに絶望した主人公は、頑張る意欲そして生きる気力を失い床に伏してしまう。そんな、人生の何もかもに絶望した主人公の元へ王国お抱えのエルフ様がやってきて───!? 【王国至宝のエルフ様×元社畜のお疲れ悪役令息】 ▼この作品と出会ってくださり、ありがとうございます!初投稿になります、どうか温かい目で見守っていただけますと幸いです。 ▼こちらの作品はムーンライトノベルズ様にも投稿しております。 ▼毎日18時投稿予定

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

もう人気者とは付き合っていられません

花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。 モテるのは当然だ。でも――。 『たまには二人だけで過ごしたい』 そう願うのは、贅沢なのだろうか。 いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。 「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。 ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。 生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。 ※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中

別れの夜に

大島Q太
BL
不義理な恋人を待つことに疲れた青年が、その恋人との別れを決意する。しかし、その別れは思わぬ方向へ。

【本編完結】αに不倫されて離婚を突き付けられているけど別れたくない男Ωの話

雷尾
BL
本人が別れたくないって言うんなら仕方ないですよね。 一旦本編完結、気力があればその後か番外編を少しだけ書こうかと思ってます。

急に運命の番と言われても。夜会で永遠の愛を誓われ駆け落ちし、数年後ぽい捨てされた母を持つ平民娘は、氷の騎士の甘い求婚を冷たく拒む。

石河 翠
恋愛
ルビーの花屋に、隣国の氷の騎士ディランが現れた。 雪豹の獣人である彼は番の匂いを追いかけていたらしい。ところが花屋に着いたとたんに、手がかりを失ってしまったというのだ。 一時的に鼻が詰まった人間並みの嗅覚になったディランだが、番が見つかるまでは帰らないと言い張る始末。ルビーは彼の世話をする羽目に。 ルビーと喧嘩をしつつ、人間についての理解を深めていくディラン。 その後嗅覚を取り戻したディランは番の正体に歓喜し、公衆の面前で結婚を申し込むが冷たく拒まれる。ルビーが求婚を断ったのには理由があって……。 愛されることが怖い臆病なヒロインと、彼女のためならすべてを捨てる一途でだだ甘なヒーローの恋物語。 この作品は、他サイトにも投稿しております。 扉絵は写真ACより、チョコラテさまの作品(ID25481643)をお借りしています。

上手に啼いて

紺色橙
BL
■聡は10歳の初めての発情期の際、大輝に噛まれ番となった。それ以来関係を継続しているが、愛ではなく都合と情で続いている現状はそろそろ終わりが見えていた。 ■注意*独自オメガバース設定。■『それは愛か本能か』と同じ世界設定です。関係は一切なし。

処理中です...