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プロローグ
プロローグ
しおりを挟む暗闇の中を歩いていた。
一筋の光もない真っ暗闇なのに、不思議と怖くなかったのは、手を引いてくれる人がいたからだろう。手というか、正確には人差し指のみだけど。それをくるんと包み込むのは、とてもあたたかく、ぷにぷにした柔らかい掌で、明らかに子供の手だった。
僕には子供の知り合いはいない。最近、子役と共演することもなかったはずだ。
記憶を遡り、一つ思い出したことがある。この真っ暗闇に来る前の、覚えている限りで最も新しい記憶。
僕はあの人を、人目につかないよう、テレビ局の非常階段に呼び出したんだった。
僕が先に来て、非常階段の踊り場に立っていた。
ドアが開く音がして、振り返ろうとしたら、勢いよく背中を押されて……。
落下しながら見たのは、僕を見下ろす、野球帽とサングラスとマスクを身につけた男の姿だった。顔はわからなかったけど、アルファ然とした立派な体格は、あの人だったようにも思える。
手を差し伸べることもせず、両手をばたつかせながら落ちていく僕を、ただ冷ややかに見届けていた。
直後、強い衝撃と共に、頭をかち割られるような激痛が頭から背筋へと走り、体が軽く跳ね視界がぐるんとひっくり返った。
覚えている色のついた光景は、それが最後だ。
それからどのくらい時間が経ったのかわからないけど。気がついたら、こうして暗闇の中を、子供に手を引かれ歩いていた。
あまりにも真っ暗闇だったから、最初、自分が目を閉じているのかと思って、試しに空いている方の手で瞼を触ってみたくらいだ。
きっと、僕は死んだのだろう。
星一つないこんな真っ暗闇、見たことないし、さっきからしきりに足を動かしているのに、足裏に地面を踏みつける感触がしない。それに何より、どこも痛くない。あれだけ勢いよく階段から落ちたのだから、生きていたらどこかしこが痛いはずだ。
既に死んでいるのだとしたら、手を引いて導いてくれているこの子は、天使か、もしくは子供の死神か――。
死を実感し、胸に苦く込み上げてきたのは、後悔の念だった。
呼び出さなければよかった。
妊娠していることがわかって。相談するために、あの人を呼び出した。
妊娠を告げたとして、更に疎ましく思われるだろうことはわかっていた。「堕ろせ」と言ってもらえたら、それでよかった。憎まれていることを実感できれば、中絶する踏ん切りがつくと思っていた。
でも、今ならわかる。
本当は、中絶の後押しがほしかったわけじゃない。
ただ、あの人に会いたかっただけなんだ。
このまま芸能界を去ることになれば、もう二度と会えなくなるから。最後にもう一度だけ、近くで顔を見たかった。
けれど、まさか殺意を抱くほど憎まれていたとは。
死と引き換えにその事実を知らされるなんて、神様はあまりにも残酷だと思う。
「ねぇ」
一つ気にかかることがあり、前を歩く子供に声をかけた。
「どうして、僕一人なの? 僕以外に、赤ちゃん、いなかった? 人間の形はしてなくて、たぶんまだ魚みたいな形だけど。大きさも、卵くらい」
産婦人科で見せてもらったエコーの画像を思い返す。
人間の形はしていなくても。確かに、僕のお腹の中に、別の命がいた。あの子は、どこに行ったのだろう。
もし、死んだときの形を保っているのなら、小さすぎて気づかれなかったに違いない。きっとまだ、僕達が死んだ場所に取り残されているだろうから、連れ戻しに行かなければいけない。
胎児が泣くはずないのに。まだ人の形すらしていないその赤ん坊が、迷子の子供みたいに、泣いて、僕を探しているような気がした。
僕の指を引く子供は、足を止めようとしなかった。
「らいじょーぶ」
足元近くから、子供の声で、舌ったらずな言葉が返ってくる。何が「大丈夫」なのかはわからない。
「いるから、らいじょーぶ。少しいなくなるけど、またママのところに行く」
やはりその言葉の意味は、僕には理解不能だった。
ママって、もしかして僕のこと?
訊こうとしたけど、「あそこ」という言葉に遮られた。
指が解放されて、足を止める。
暗闇の中で、初めて、光が見えた。虫眼鏡で太陽光を集めたみたいに、前方の一か所だけが丸く光っている。
「あとはママが一人で行って」
「え? あそこがあの世の入り口ってこと? 行くなら僕の赤ちゃんも一緒に……」
「時間がないから、ママは先に戻って。――は、今から迎えに行く。らいじょーぶ。ママがママらしく生きていたら、きっと、また会える」
誰かの迎えに行くようだけど、僕の赤ん坊のことだろうか。
それ以上、子供の声はしなくなり、気配も消えた。
歩いてきた暗闇をしばらく茫然と眺め、踵を返す。
小さな子供の手だったのに、それがなくなった途端に、急に心もとなくなった。
真っ暗闇の中を一人で歩くのは怖い。
できれば、赤ん坊を待って一緒にあの世に行きたかったけど。案内人の子供が言い残した言葉も気になっていた。時間がないから先に戻ってと、確かそう言っていた。
いち早くあそこに行かなければならないことも、本能的にわかる。
『らいじょーぶ。ママがママらしく生きていたら、きっと、また会える』
耳に残る舌ったらずなその言葉に背中を押され、僕は意を決して光に向かって歩き出した。
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