恋の音が聞こえたら

橘 華印

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第五章

34:逃げ出した先は

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「ヤコ!」
「おい梶谷! 落ち着け!」
 都に駆け寄る京一郎と、牽制する上杉の声。
 一体何が起こったのかと顔を上げれば、リビングの向かいにあったキッチンで、洋子の使っていた包丁を手に、警官たちを威嚇している洋司がいた。
「なっ……」
 あの殊勝な態度はなんだったのかと思うほど、洋司の顔が歪んでいる。
「落ち着け、包丁を捨てるんだ。いいか、今なら公務執行妨害だのなんだのは言わん、大人しく、包丁を放せ、梶谷。分かるかっ?」

「うるさいうるさい、どいつもこいつも、俺たちを引き裂くことしか考えてないんだ! 邪魔をするな、邪魔をするなあっ!!」

 洋司はぶんぶんと包丁を持った手を振り回し、取り巻く警官たちを寄せ付けない。怯んだ隙に、突き飛ばして走り抜けていく。
 梶谷、と警官たちの叫ぶ声が都の耳にこだました。
「ど、うしよう、俺のせいかも」
「ヤコが気にすることありません、後は上杉さんたちに任せておきましょう。すぐ捕まりますよ」
「でも包丁持ってんのに!」
「追いかける? ヤコちゃん」
 そんなことより早く病院へという京一郎と、立ち上がって都に手を差し出す春日野。都は春日野の手を取って頷いた。
「何を言ってるんですか、絶対駄目!」
「お京ちゃん、僕はヤコちゃんに訊いてるの。過保護もいいけど、ヤコちゃんの気は、それで済むのかな」
「なっ……」
 引き留めた京一郎を、春日野が諫める。自分のせいだという都をこのまま病院に連れていっても、心残りになるだろう。
 都はそれに賛同するように、京一郎を振り向く。春日野の言う通り、これで気なんか済まないし、まして初めてメインを任せてもらった仕事だ、納得のいくところまでやってみたい。

、ごめん――行かせて」

「…………こんな時に、ずるいですよ、ヤコ。その代わり、俺も行きますからね」
「言うと思った」
 京一郎を兄貴と呼ぶのは久し振り。他人でいたいわけではない、家族であるということに甘えたくないのだ。加えて、お互いカタギとも言い切れない商売だ、何を弱みにされるか分からないという、防衛ラインでもあった。
「でも、追いかけるって言ったって、どこにですか? すでに上杉さんたちからは遅れを取っていますが」
「足でなら、そう遠くにも行けな――」

 どこへ、という京一郎の疑問に、都はハッとして青ざめた。


……!」


 捕まりたくない一心で、ただ逃げただけならいい。
 だけど、違うような気がする。
 遂げられなかった思いを胸に洋司が向かうとすれば、ここ以外には――支倉の所しか思い浮かばなかった。

(や……いやだ、いや、支倉さんっ……!)

 都は慌てて駆け出す。
「ヤコ、どういうことです」
「支倉さんとこって、どうして」
 マンションを出れば、警官たちが慌ただしくパトカーに乗り込む所だった。まさかパトカー盗んでいくなんて、と聞こえた音が、さらに都を動揺させた。
「く、くるま……っ」
「待って、駄目、僕が運転するから、後ろ! お京ちゃん捕まえてて」
 震える手でキーを取り出すも、それは春日野に奪われる。こんな状態で運転したら、事故でも起こしかねないと思われたのだろう。
 京一郎に手を引かれ、都は言われるままに後部座席に乗り込んだ。


「ヤコ、大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃないだろ! アイツっ……アイツ包丁持ってんだぜ!? どうしよう、どう……しようっ、なんで俺あの時っ……」
 せめて、手錠がかかるのを待っていればよかった。報われない想いを抱いた殺人犯に、情けなんてかけてやるべきじゃなかった。

 自分が取り逃がした男が、支倉を傷つけでもしたら――もし間に合わなかったら。それどころか、無関係の人を無差別に斬りつけたりしたら。

 そう思うと、体が震えて止まらなかった。
「彼まだ家にいるかな。今日も仕事? まだ出勤時間じゃないよね、たぶん」
「六時前、まだ家にいると思いますけど……アイツもバカじゃないんですから、不用意に鍵開けたりしないでしょ」
「でも、元義弟でしょ。犯人って知らなかったら、開けちゃうんじゃない?」
 京一郎と春日野のやり取りに、都はふるふると首を振る。駄目、と呟くのを、京一郎が心配そうに覗き込んできた。
「駄目、鍵なんかかかってない。言ったじゃん、昨日支倉さんとこが荒らされたって。アイツ鍵ぶち壊してあの指輪探してたんだよ、もし昨日あそこで鉢合わせてたら、支倉さん危なかったと思う」
「あらら……それは鍵とか、無駄だね……ごめん、ちょっと飛ばすよ」
 春日野の声から、気楽さが抜けていく。窓の外を流れる景色が、速度を上げていった。
「でも、結局支倉のとこにあったわけでしょう? 間抜けな感じですね」
「アイツ……洋子さんが、支倉さんとの偽装結婚で脅されてたと思ってたみたいなんだ。あんな男と結婚しなければって言ってた」
「自分のせいだとは、思わなかったんですね。都合のいいとこだけ見て、惚れた女絞め殺して、次は信頼されていた男に八つ当たりしに行くってとこですか」
 京一郎の呆れた声に、都は頷く。抱いてもらった肩の温もりが、少しだけ心を落ち着かせてくれた。

「ねえ、彼に電話しといた方がいいんじゃない? 鍵もかからないんじゃ、入り込まれたらアウトだよ」
 交差点を右に曲がりながら、春日野がそう提案してくる。あ、と都は今さら気がついて、慌てて携帯端末を取り出した。そんなことにもたどり着かないくらい、思考が混乱していたらしい。
 仕事用の端末で、発信履歴からコールする。

(お願い、お願い、頼むから、無事で……!)

 パトカーを盗んでいった洋司が、もう着いていませんようにと、胸の前でこぶしを握りながら応答を待った。
 二コール、三コール、四コール。まだ出ない。
「お願い……出て、支倉さん……!」
「藤吾さん、もっとスピード出して!」
「出してるよ、無茶言わないで……っ」
 制限速度を超過して、三人を乗せた車は支倉の元へと向かう。だけど、都の端末に支倉はまだ応答してくれない。着信に気づかないだけならいい、取り越し苦労であってほしい。
「支倉さん……っ」

 どうか、どうか――。

 祈りも虚しく、通話は開始されないまま、春日野が前を走るパトカーを捕捉した。
「やっぱこっちに来てるみたいだね、先回りは、……無理か」
 春日野の声に都は顔を上げて、窓の外の景色を確認する。後わずかで支倉のマンションだ。あそこにいたパトカーが前を走っているということは、やはり洋司はこちらに、支倉の元へ向かってきていたのは間違いないようだ。

 ドクンドクンと都の心臓が嫌な音を立てる。

 こんな音を聞くくらいなら、叶わなくても恋の音の方が数百倍気持ちがいい。
 車が、乱暴な音を立てて停止する。止まるか止まらないかのうちに都はドアを開け、転がり出た。
「ヤコっ! なんて無茶を……ああもう!」
「お京ちゃん追っかけて!」
「分かってますよ!」
 背後でのやり取りも、都の耳には入っていないだろう。行く手を阻むパトカーのボンネットを踏み越えて、支倉の部屋へと急ぐ。エントランスに入ると、エレベーターの前で上杉が指示を飛ばしていた。
「おいっ、階段だ、二人ここに残れ! 急ぐぞ!」
 警官を二人ホールに残し、上杉たちは階段を上がっていく。四階分、駆けるのだろう。都は、運良く一階に着いたエレベーターに乗り込んだ。
「あっ、おい!」
 警官の制止をすり抜けて、「閉」のボタンを押す。一秒でも速く、支倉の元にたどり着きたい。
 後でいくら怒られてもいい、無事でいてほしい。

(お願い、お願い……っ!)

 ただそれだけを祈って、階数表示が増えていくのを眺めた。
(はやく、はやく……っ!)
 四階に着いて、ドアが開くのももどかしく、押し広げるように体を箱の外に出す。階段を上がってくる足音が聞こえるが、それに気をやっている余裕はない。都は共用廊下を走り、四〇三号室のドアを勢いよく開けた。
「支倉さん!」
 都の視界に、洋司の背中が映る。その向こうに、支倉の姿。
 ひとまず無事だったと、安堵したのもつかの間、洋司が奇声を上げながら包丁を振りかぶって、支倉へと向かっていった。

「支倉さん! 逃げ……――!」
「梶谷ィ!」
「止まれ梶谷!」

 叫ぶ都の背後から、追いついた上杉たちが声を張り上げる。
 だが支倉は、後ずさることもしなかった。突然包丁を向けられたら、動けなくなるのも分かるが、どうにかして逃げてほしい。
 梶谷を止めようと腕を伸ばすその向こう側で、支倉がようやく動いた。

 その瞬間、都は目を見開くことになる。

 高く上げられた支倉の足が、綺麗なラインを描いて洋司を蹴り飛ばすその光景に。ガゴン、と鈍い音を立てて梶谷の体が壁にぶつかる。うめき声とともに、その体は床に崩れ落ちていった。

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