恋の音が聞こえたら

橘 華印

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第五章

33:犯人との対峙

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「な……っ」
 ガッ、と耳元で聞こえた鈍い音は、どうやら自分が何かで殴られたせいらしい。気がついた時には、体が揺らいでいた。
 衝撃のかかった方向を振り向く余裕もなく、視界が覆われる。そのまま、勢いで体が倒れていった。
「な、ん……っ」
 突然のことに都は混乱するが、背中に冷えた床を感じて意識を引き戻す。
 そこでようやく視界に映せたものは――梶谷洋司の、憎悪に歪んだ顔だった。

「よ、洋司……!」

 ミスった、と都は瞬時に青ざめる。
 いないと思っていた洋司が、どこかに――確認しなかったトイレか、バスルームかに潜んでいたのだろう。侵入者である都を、何かで殴り倒してくれたのだ。
「くっそ……」
 腹の上に乗られ、うまく身動きが取れない。両方の手のひらが、都の喉を覆ってくる。かかる力に容赦がない。絞め殺す気かと焦った。手を外そうと試みてみるけれど、上からの力は簡単に押しのけられない。

「お前、見たことあるぞ……あの男と一緒だったヤツだ、なんで、どうして! なんで洋ちゃんは、あんな男と!」
 洋司の声が汚く割れる。

 怒り、憎しみ、憎悪――都は、久し振りに分かりやすく向かってくる悪意に触れた。
 父に受けた暴力の記憶が、引き起こされていく。体にのしかかる重み、締めつけられる喉、吐き出される言葉。

「アイツは男の方がいいんだろ、お前も仲間か、変態、変態! 返せよ、洋ちゃん返せよ!!」
 なんで、なんで、と体が揺さぶられる。ゴ、ゴン、と頭が床にぶつかり、酸欠と痛みが混じって思考が整理できない。
 一緒だった、いつ見られたのか――なんて、どうでもいいようなことさえ頭を巡る。
「ま、て……な、んで、はせくら、さんが、出て、くるん……だよ、っ……」
「あんな男と結婚したから! だから洋ちゃん、アイツらに脅されたんだろ! ゲイと結婚してたんなら満足できてないなんて! そんなっ、そんなわけないのに!!」
「……に、言っ……て」
 ガンガンと痛む頭を押さえるより、喉を締めつけるこの手を外したい。都は洋司の手に爪を立ててガリッと引っかいた。痛いはずなのに、手ははがれていかない。怒りで我を忘れているのか、洋司の顔は泣き出しそうにも見えた。
 力任せに片手を振り払い、その手首を取る。
 だが、洋司も負けじとその手を解こうとしてくる。


「……っ……まえ、が、……お前が洋子さん抱いてたからってのは、考えないのかよ!」


 力と力の押収かとも思われたが、都が声を張り上げて叫んだその言葉に、洋司が怯んだ。その隙にもう片方の手も喉から外させ、都は咳き込む。
「え、な、……んで……?」
 なんで知ってるんだと小さく呟いて、放心したような洋司の下から這い出る。都は締めつけられた喉を撫でて押さえた。
 げほ、げほ、と何度か咳き込み、押さえつけられた喉をなだめる。

「こ、れ……探してたん、でしょ、アンタ……」

 都はまだ整わない息の中、ポケットにしまいこんでいたリングを、洋司に向かって放ってやる。
 丸いリングはコンコロロと床を転がり、洋司の膝にぶつかって倒れた。
「ど、こに、これ……なんでお前が持ってる! 洋ちゃんのなんなんだよお前!」
 洋司はそれを拾い上げ、都を睨みつけてくる。洋子に関わるすべての男が、敵にでも見えているのか。
「やっぱり……好き合ってたんだ、アンタたち……。洋子さん脅迫してたヤツら殺したの、アンタだろ」
「あいつらは死んで当然だ! なんで洋ちゃんがあんなヤツらに!」
 やっぱりそういうことなのだ、と都は目を伏せる。

 洋子は好きで体を明け渡して、金を受け取っていたわけではない。脅され、強要され、ある程度の金を、あの三人に渡していたことは明白だ。
 だけど、強要されたネタは洋司が思っているようなことではないだろう。

「洋子さん、こう言われたのかもしれないね。〝弟とやってるくらいなら、相当スキモノなんだろ〟……アンタとのことを、知られたくなかったんでしょ」
 彼らが、どこで二人の関係を知ったかは分からない。加害者が全員死んでいる以上、真実は闇の中だ。
 だが、金を払ってでも、体を明け渡してでも、守りたかったものがあるのだとしたら。
「知られたら、アンタの仕事だって駄目になる。もしこの先、他に好きなひとができても、結婚できないかもしれない。洋子さんはアンタを守りたかったんじゃないの!?」
 どんなことをしてでも、家族を――洋子にしてみたらたったひとりの弟で、愛する男を、自分の恋心で殺してしまうわけにはいかないと、男たちに身を任せたのかもしれない。
「それをアンタは、他の男に抱かれたってだけで、愛した女を殺したんだ」
 愛する人のために自分を犠牲にするのが正しいのか、犠牲になんてしてほしくなかったと、その手にかけるのが正しいのか、都には分からない。

 ただひとつ、どうしてそんなことに支倉を巻き込んだのかと、いら立ちさえ感じる都の身勝手。

 この事件の結末を聞けば、彼はきっと少なからず傷つくだろう。恋なんてどだい身勝手なものだけれども、巻き込まないでいてほしかったと、俯いた。

 その時、


「そこまでだ!」
「確保!」


 突然耳に入ってきた声に、都は驚いて顔を上げた。いや、都だけではない、洋司もだ。
 振り向いた先には、上杉と、三島、数人の制服警官。洋司の姿を認めた途端、飛びかかってきた。
「なっ、なんで、俺はっ……俺は、洋ちゃんを守っただけだ! 洋ちゃん……洋ちゃん……!」
 警官たちに取り押さえられて、洋司は困惑した表情でそう叫ぶ。
 都はこの事態を把握しきれずに、目を白黒させながら、ことの成り行きを見守っていた。

「ヤコちゃん!」
「ヤコ、無事ですか!?」
「えっ!?」
 そんな都に、混乱を上乗せする声。振り向けば、仕事着のままの京一郎と、泣きそうな顔をした春日野。

「ああこらお前ら、現場入るんじゃねぇっ」
「うるさい、情報提供したの誰だと思ってるんですかっ」
「ヤコちゃん、ヤコちゃん大丈夫? 生きてる!?」
 リビングの出入り口で上杉に止められるも、言い返す京一郎と、ただ都の無事を確認したがる春日野を見て、都は事態をやっと把握した。京一郎が春日野と警察を呼んだのだろう。諦めたらしい上杉が、被害者の身内と上司だということで許可をしてくれる。
「ヤコ、すみません遅くなって。上杉さんに納得してもらうの時間かかって」
「お京ちゃんに聞いてびっくりした、平気? どこもなんともない?」
「え、あ、や、ダイジョブ……ちょっと……喉絞められただけだし」
「絞め……っ」
 ちっとも大丈夫じゃない、と京一郎と春日野が洋司を振り向いて睨みつける。
 飛びかからんばかりの勢いだったが、都がそれを止めた。

「洋司、これ」
 まさに今手錠をかけられる所だったが、その前に。
「ちゃんと、償って……墓前に供えるくらいなら、きっと、許してくれるんじゃないかな」
 捕り物のせいで床に転がってしまっていた指輪を、洋司の手のひらに落とす。

 どんな事情があったにせよ、四人を殺した罪は重い。どれくらいの量刑が科せられるかは分からないが、出所した後にでも、洋子に返してあげてほしいと、心の底から願った。

「……あり、がとう……これ、どこに、あったんですか……」

 洋子が脅されたのは自分のせいだったと気がついて、意気消沈したのか、洋司の声は先ほどとは打って変わって静かだった。
「支倉さんの家だよ。ツールボックス、しかも封筒の中に入ってた。信頼してる人に、預けていたかったんだと思うよ」
「そう……です――か」
 洋司は俯く。一連のことを後悔しているのだろうなと思った、次の瞬間。


「退けぇっ!」


 視界が揺らぐ。突き飛ばされて、都は床に倒れ込んだ。

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