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第二章
10:また逢えたりしないかな
しおりを挟むガチャバタンバサという慌ただしい音に、都は目を開けた。
眠りを妨げるその音は若干不快で、ごろりと寝返りを打つが、いつも枕元にある目覚まし時計がないことに気づいて、ハッと頭を上げる。
「あーそっか」
独り言を呟いて、ここがいつもの自分の部屋ではないことを自覚した。
昨夜、恋人だった相手とは違う男と、体を重ねたのだった。
別れた直後で寂しかったというには、直後すぎて自分の節操のなさに嫌気がさすが、今さらなかったことにはできやしない。
「起きたのか」
疲労の抜けていない体をベッドの上に起こすと、すっかり身支度を調えた昨夜の相手が、バスルームの方からやってくる。
喉元まできっちりボタンを留めたシャツの上に、ネクタイを締めている姿は、行為の甘い余韻などみじんも感じさせない上に、都に瞬きを忘れさせる。
「あ、えっ……と、なに、もう行くの?」
「寝過ごした。すぐに出るつもりだが、お前はチェックアウトまでゆっくりしていろ」
ベッドサイドのデジタル時計に視線を移すと、六時半少し手前。いったい何時に起きるつもりだったのだろう。
サラリーマンは大変だと思いつつ、ふうんと曖昧な返事をしたとき、コンソールに置かれた眼鏡に気がつく。男の動作は不安定なものではなく、裸眼でも問題ないらしい。そういえば昨夜もかけていなかったなと思い起こして、わずかに頬が染まる。
(眼鏡かけてても、かけてなくても好みってズルイ)
「……あのさ」
「なんだ」
「また逢えたりする?」
そっと眼鏡のつるをつまみ、両耳にかける動作と同じ速度で、都は呟く。ほとんど伊達に近いのか、レンズの度数は低いようだった。
「……一夜限りのはずだろう」
「まーそうなんだけどさ。名残惜しいっていうか、相性はよかったと思わない? アンタの顔好みだし、また逢えないかなーって」
呆れたため息と一緒に返してきた男に、負けじとこちらもため息交じりに返してやる。
昨夜の今朝で、こんな台詞が出てくる自分に呆れ果てたのは、否定のしようがなかった。
「独り寝が寂しいなら、そういう男を捜せ。お前ならすぐ見つかるだろう。眼鏡を返せ」
馬鹿にされているのか、褒められているのかが分からない。都は腹筋で起き上がり、ローブを羽織りながらやだねと突っぱねた。
「いい加減にしろ。一度きりと言ったのはお前だったはずだ」
「だったらせめて名前! 名前くらい……教えてくれたっていいだろ」
面倒そうに息を吐く男を勢いよく振り返って、譲歩案を出してみた。
「名前も知らない男に抱かれたとか、あんま気分のいいもんじゃない。眼鏡、返してほしいんだろ?」
「……くだらない。一時の気の迷いに俺を巻き込むな。欲しければくれてやる、そんなもの」
「えっ!?」
埒が明かないと悟ったのか、男はスーツのジャケットを羽織り、大股でドアへと向かっていく。都は思わず声を上げ、裸のまま男を追った。
「ちょっ……ごめんそんなに怒ん――」
追ったドアの手前、振り向いた男に腰を抱き寄せられ、腕の中にすっぽり収まる。不思議に思う暇もなく、なだめるような別れのキスが降ってきた。
「ん……っ」
がっしりと腰を抱えられ、空いた指先は喉を撫で上げ頬を滑り、唇を開かせて耳朶を愛撫していく。
「んん……ぅ」
絡めた舌を強く吸われて、昨夜の熱がよみがえってしまいそうだ。無意識にしがみつき、自分からも舌を絡めたのだが、男の器用な指先が都のかけた眼鏡を取り払い、それと同じ速度で離れていった。
「これで我慢しておけ」
都から取り返した眼鏡をかけながら、男は腕を放す。唖然としている都をそれきり見やりもせずに、ドアを開けて出ていってしまった。
「あーもう! なに……やってんだよ、俺」
男が出ていった後のドアを拳で叩き、こつんと額を預ける。
引き留めるつもりはなかった。
一夜限りなんてそんなドライな関係は初めてだし、駆け引きにもならなかったことくらいは、男の態度を見ていれば分かった。
ただ、それでも性欲を処理するためだったなんて、誰にも言いたくない。寂しかったからだなんて、恥ずかしくてしょうがない。そんなに緩い貞操観念だとは、思いたくなかったのだ。
「そーだよ……寝たこと正当化したいだけだよ……」
キスの余韻が残る熱い吐息が耳につく。ひどく気分が落ち込んでいるのに気づく。たった一夜過ごしただけの男に何かを求めてもしょうがない。
「やめよ。もう逢えないんだし、考えたって仕方ないじゃん……」
逢わない、ではなく、逢えない。
とっさの言葉は正直なものだと、都は諦めたように口の端を上げた。
気持ちを切り替え、さっさと帰って朝ご飯を食べようと、服をまとめていたベッドに戻る。その時、デスクの傍で何かを蹴飛ばしてしまった。その物体を視線で追えば、ビニールカバーで保護された、手帳らしきもの。見覚えがなく、当然都の物ではない。ということは、さっき出ていった男のものに違いない。
「え、うそ……どうしよ……」
今から着替えて後を追っても追いつけないだろう。都はしばしそれを見下ろして、備え付けのティッシュを取り、柔らかな遮蔽物越しに拾い上げた。不用意に指紋をつけないようにしようと思ってしまうあたり、職業病かなと苦笑した。
ひとまずどうするかは後で考えようとカバンにしまい込み、着替えをしてチェックアウトを済ませるのだった。
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