恋の音が聞こえたら

橘 華印

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第一章

09:思ったよりも穏やかに

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 結局ベッドで二度、バスルームで一度、体を重ねた。
 もっと淡泊なセックスをする男かと思っていたが、とんでもない。
 余韻に浸りつつよろよろと部屋に戻り、ドサリとベッドに体を預ける。柔らかなスプリングが、しっかりと体を抱き留めてくれて。とても心地よかった。

 しばらく静かな呼吸を楽しんだ後、物音に重い目蓋を持ち上げれば、バスルームから戻ってきた男が、大きな枕に体を預けて、ビールを飲み始めるのが視界に入る。
 コンソールに置いていた携帯電話を眺めているが、眉間にしわが寄っているように見えるのは、気のせいではないだろう。

 画面に触れるでもなくボタンを押すでもなく、ただそうやって眺めているだけの男に、ふと思い当たった。

「……ねえ」
 携帯電話を持つ左手の、光る指輪が目に痛い。
 都の声に気がついて、男は携帯電話を伏せる形でコンソールに置いた。
「眠っているかと思ったが」

「アンタ、本当は誰か相手いるんじゃねーの?」

 男の声にかぶせるように、都は横たわったまま呟いた。
「…………いたらお前なんか抱いてない」
「ふぅん……?」
 男は一瞬顔を強張らせたが、すぐに低い声で返してくる。そうかなぁと都は呟きながらも、不快そうに……いや、気まずそうに寄せられた眉に免じて、それ以上口に出して追求することはやめておいた。
 詮索避けと言いながら、こんな時にも外さない指輪。連絡も入らず変わることのない待受画面。切り返しに要した時間。諦めたように寄せられた眉。
(大事なひと、なんだろうな。別れても好きなひとかぁ……)
「まぁいいや。すっげえ気持ちよかったし」
「なんだ、抱いたら途端に素直だな。もう少し早くそうしてくれていたら、優しくしてやったものを」
 ふんと煽るように鼻を鳴らす男に、都は首を傾げた。
「充分優しかったと思うけど。死にそうな痛みなんて一度もなかったし」
「死に、……なんだそれは。前の男にDVでも受けていたのか?」
 男が目を瞠って、次いで細めて眉を寄せる。死にそうなほどの暴力を受けた経験があるのかと、彼の視線が揺らいだ。
「あー、いやいや違う。昔、小さい頃ね。セックスはひどい経験ないから」
 都は慌てて手のひらを振ってみせ、否定する。いくら二股をかけてくれたろくでなしでも、DVの濡れ衣を着せるわけにもいかなかった。

「……なんで言わない。知っていたら、もっと――」
 小さい頃という言葉で察したのか、男の唇が後悔にゆがむ。おかしな男だと思った。一夜限りと言うのなら、そんな身の上気にせず抱くだけで良いはずなのに。
「だから、優しかったって言ったじゃん。俺の体ちゃんと支えてくれたり、イイとこ聞いてくれたりさ」
 激しいセックスではあったけれど、優しさはしっかりあった。何から何まで好ましくて、苦笑してしまう。
「おかしなヤツだな」
 優しかったと言われたのが照れくさいのか、男はふいと顔を背けた。続いていかない会話が少し寂しい。

「ね、今何時?」
「まだ三時過ぎだ」
「あー……」
 まだとは言うが深夜帯。
 深夜でなければ、寂しさを埋めるために誰かに電話でもしたかもしれない。
 それこそ、別れ話を切り出すまでは優しかった男にでも。だがもう眠っているだろう。恐らくは婚約者の隣で。
「そっか……」
 そもそも、自分こそ名前も知らない男の隣で寝転んでおきながら、何を考えているのだろうか。都は苦笑した。
「明日も仕事じゃないのか? 少し眠れ」
 ため息と苦笑を疲労と思ったのか、男が声をかけてくる。
 確かに明日……日付としてはもう今日だが、仕事に行かなければならない。いつまでも落ち込んでいたり、一夜の出逢いに浸っている暇もない。
「ね、アンタってどこで仕事――」
「眠れないなら、寝かしつけてやってもいいんだぞ」
 遮るように続けられた言葉に、都はこれ以上は無理だと笑い、掛布を肩まで引き上げる。まさか本気だとも思えなかったが、墓穴を掘りそうだ。

「おやすみ」

 ああ、と静に返ってきた声に安堵して、都は眠りについた。
 それなりに好きだった男と別れた夜とは思えないほど、穏やかに。

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