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第一章
06:体中のすべての感覚が、男を追いかけている
しおりを挟む都はロビーの柱にもたれ、男の背中を眺めていた。まさかシティホテルに連れてこられるとは思わず、やっぱり早まったかなと視線を泳がせる。
ラブホじゃねーのと訊ねた時に、男はラブホは好きじゃないと返してきた。それでここかよと、内心呆れたのも事実である。ルームチャージだけでもラブホの倍しそうなホテルで、男は慣れた様子でフロントへと向かっていったのだ。
(いっつもこんなんなのかな、あの人。マジで相当場数踏んでんだろうなあ……)
ちりちりと、焼け付くような痛みを発する胸を押さえ、男が鍵を受け取ってこちらに歩み寄ってくるのを眺める。
悔しいけれど、その所作すべてが都のツボにはまってしまうのだ。
「どうした」
「なんでも……」
「心配しなくても、部屋代を払えとは言わん」
は、と気がつく。そこまで考えていなかった。
そういえば元彼とラブホへ行くときは割りカンだったのに、男があまりにも自然にエスコートするものだから、そんなことに頭が回らなかったのである。
フルタイムで仕事をしているとはいえ、豪遊なんかできる経済状況ではない。男の申し出にはホッとしたが、
「せいぜい俺を満足させてみることだ」
回された手に背を抱かれ、やっぱり早まったかなと視線を泳がせた。
しかしここまで来て逃げるわけにもいかず、連れ立ってエレベーターを目指した。
他人から見れば、なんとバランスの悪い二人連れだろう。スーツに身を包んだインテリと、カジュアルな格好をした都とでは、あまりにも不自然だ。ダメージ系でなかったのは幸いかと思うが、年の離れた兄弟には、やはり見えない。
エレベーターが八階で止まる。
「さっきまでの威勢がなくなったな」
まるで借りてきた猫のように大人しくなってしまった都を、振り向きもしないで男は呟く。
都は男の三歩後ろを歩きながら、瞬きをするたび右へ左へと視線を移す。どうにも落ち着かなくて、どうしていたらいいのか分からない。
「あんまり……こういうとこ慣れてないし……」
それでも小さく呟いた声を男は聞き取って、カードキーを差し込みながら、珍種でも眺めるように視線をよこしてきた。
「珍しいな、その年齢で。今まで旅行に行ったりしなかったのか?」
男はドアを押し開け、部屋の中へと足を踏み入れる。都は今さらながらに覚悟を決めて、彼に続いた。
「そんな贅沢できる状況じゃない。通わせてもらったガッコの借金だって残ってんのに」
母親は、ましてや父親など頼れる状況でもなかったが、学校は出ておけと歳の離れた兄に言われ、高校と、大学は卒業した。
だけど、就職難で大手にはことごとく落とされたし、多少ブラックでも中小企業に就職すべきかと迷っていたところを、今の便利屋の所長に拾ってもらったのだ。
兄はいいと言ってくれているが、少しずつでも返していきたい。そうなると、当然旅行なんか行っている余裕などない。
「なるほどな。だったらもっといいところ選べばよかったか?」
背中でドアが閉まる。オートロックドア特有の音が、やけに耳の奥に残った。
「ハ、その分体で払えって?」
本気か冗談か分からない男の台詞を、都はわざと茶化して返す。スーツの上着を脱いで椅子の背にかける手慣れた仕草に、虚勢を張りたかったのだ。
「まあ、そういうことだ」
ネクタイを緩めカフスを外す様も、眼鏡を外す様も、計算してやっているようにしか映らない。
仕草のすべてに視線を奪われ、立てられる小さな音ひとつに耳が過敏に反応するなんて、そんな馬鹿なことあるわけがないと思っていたのに。
それなのに今、都の視線は……いや、体中のすべての感覚が、男を追いかけている。
「あ……」
大股で一歩分、こちらに歩んだ男に手首を取られ、強く引き寄せられる。つま先が、カーペットの上でタタンと踊ったかと思った次の瞬間には、もう唇が奪われていた。
「ん……っ」
重なる、離れるというよりは、まさに奪う仕草で吸い上げられる。吸われた唇に痛みを感じた後、それを癒やすかのように熱い舌が覆い、ゆっくりと舐めてきた。
たったそれだけで、強張っていた都の体からすうっと力が抜けていく。よろめいたのをいいことに、男は都の体をクローゼットに押しつけた。
「ん、ぁ……」
自然に開いた唇の中に、男の舌が入り込んでくる。
都はまだくすぶる背徳感で、反射的に押し戻そうとしたが、それよりも強い力で押し入られ、あっという間に捕らわれてしまった。
「ん、んっ……ふ」
(な……、に、これっ……!)
表と表を舐り合わせ、押し上げた裏と表が重なる。混ざった唾液と一緒に吸い上げられて、痛いほどに抱きすくめられた。足に力が入らないのを言い訳に、都も縋るように男の腕にしがみついた。
「あっ……はあっ、ん、う」
たかがキスひとつで、体中が熱くなる。角度を変えて責めてくる唇に翻弄されて、わずかに残っていた羞恥もモラルも吹き飛んでいった。
頬に当たる男の前髪に、鼻から抜けていく男の呼吸に、シャツ越しに感じる男の体温に、都は欲情する。
「――なんだ。誘ってきた割には、ずいぶんと可愛らしい反応をするじゃないか」
ようやく解放された時には、情けないくらいに息が上がってしまっていた。男は、濡れた唇を指の腹で撫でながら見下ろしてくる。
都の頬が、カッと紅潮した。
「わっ、悪かったな、どーせ慣れてないよ! こんなふうに男誘ったことなんかないんだから!」
気を抜いたらそこにへたり込んでしまいそうな足を、どうにか気力で踏ん張って、都はぐいと唇を拭う。すでに欲で潤みかけた目では効果もないだろうが、せめてもの仕返しに男を睨みつけてやった。
「だろうな。色気のない口説き文句だった」
都の怒りを煽っているとしか思えない物言いに、言い返すことができない。
色気のある口説き文句とはどんなものか、と腹立たしく思いながら、そんな不機嫌さを隠しもしないで、男を押しやった。
「シ、シャワーしてくる。今さら逃げんなよ!」
ここまで馬鹿にされて、引き下がるわけにもいかない。何より、体についた情欲の炎は、一人で消すのは難し過ぎる。曰く色気のない口説き文句でここまで誘い込めたのだ、無駄にしてたまるかとけんか腰にそう吐き捨て、ベッドの上にたたんで置いてあったローブを引きつかんだ。
「ごゆっくり」
目を細めて投げかけられた台詞にまたカッとなって、バタンと乱暴にバスルームのドアを閉めた。
「ム……カつく……っ!」
キスの余韻と怒りとで、都の頬の赤みは未だに引かない。シャツを頭から引き抜いて投げつけ、怒りを発散してみようと試みたが、全くの無駄だった。
適温に調節したシャワーを頭からかぶって、ぼたぼたと落ちていく湯を見るともなしに眺める。
(ムカつく、ちょっとばかりカッコいいからってほんとムカつく。なんであんなに慣れてんだよ、馬鹿!)
泣きたくなったのは、きっと悔しさからのはず。
都は、男が奪うように触れた唇を指でなぞる。途端、湯をかぶっているにもかかわらず、ぞわりと肌があわ立った。
「あ……っ」
ドクドクと心臓が早鐘を打つ。あんなキスはしたことがない、と、つい数分前の好意を思い起こした。
見かけ通りに意地の悪い男は、見かけによらず激しいキスをする。今日、いったい何度あの男のギャップに驚かされてきたのだろう。
都は落ちてくる湯の下で俯いた。
(うそ、だろ、こんなのっ……)
そわそわと、ドキドキと、わくわくと、オロオロが混じったような、言葉にし難い気持ちがわき上がってきて、どうにも落ち着かない。
頬がまだ赤いのは、もう怒りのせいにはできなかった。
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