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第一章
04:下ろせ!
しおりを挟むそれとほぼ同時に、ドアが開く。
姿を現したのは、一人の男。領主の従僕だろうか。
清潔感のある白いシャツと濃紺のベスト。胸元を飾るネクタイは深い緑で、引き締まった印象を与えてくる。細いシルバーフレームの眼鏡がそれを際立たせ、眉間のしわがさらに近寄りがたく思わせた。
「明日でも良かったものを」
「いや、通り道ですしな。けど、今日はこの雨で――」
彼らはその男に今日の業績を報告し、申し訳ないと肩を落とす。天気が悪く売り上げが良くなかったのは彼らのせいではないのに、なぜ謝ったりするのだろう。
もしかして、日々の売り上げさえ領主に分捕られているのだろうかと腹が立って、マリィシャは男を睨みつける。客からのチップをピンハネしていた座長たちを思い出して、苛立ちが増した。
「報告は受けた。それで、先ほどから私を睨みつけているそれはなんだ?」
そんなマリィシャに気づかないわけはなく、男が少し高い目線から睨み返してくる。
――――はァ? それってなんだよ、偉そうに!
逸らしたら負けだと、瞬きもせずにじっと見据える。慌てたのは彼らの方だ。
「あっ、あの、この子はその」
「見たところ旅の者に見えるが、なぜ連れてきた?」
言いよどむフレッドたちに、高圧的な態度を取る男。マリィシャは視線の力を強める。
「旅芸人が領主の屋敷になんか来るなって言いたいのか? 俺はただこの人たちを手伝っただけだ。足りなかった通行料出してもらったから」
旅芸人というだけで敬遠されることには慣れているが、こうもあからさまに見下されるのは腹が立つ。
男は目を大きく見開き、フレッドたちを振り向いた。
「金を? 出したのか!?」
心底驚いたような声音に、怒気が混じっている。それはフレッドたちも気がついたようで、びくっと身を竦めた。
「こ、この子お金がないって言うから」
「だけど俺らも荷物運んでもらったし……怒らんでください」
眉を下げ、二人とも男の機嫌を窺うように上目遣いで見上げる。
驚いたのはマリィシャで、彼らの親切を責める謂れなどないだろうと間に体を割り込ませた。
「旅芸人を入れるなっていう決まりでもあんのかよ? だったら立て札でも建てとけよ! この人たちを責めるより先に、やることがあるだろ!」
男の眉間のしわがよりいっそう深くなる。
近くで見て気がついた。レンズ越しに見る男の瞳は綺麗なブルー。まるでアクアマリンのようで、怒ってさえいなければ綺麗なのにもったいないと、こんな時に的外れなことを考えた。
「なるほど、やることか。そうだな、お前たちはもういい。これは引き受けてやるから、気をつけて帰れ」
男はフレッドたちにそう告げると同時に、マリィシャの左腕を掴んだ。
ドキッと心臓が嫌な音を立てる。
気づかれたのかと思ったが、手の甲を覆う布は外れていない。マリィシャはホッとしながら、怯えてしまったことを隠そうと唇を引き結んだ。
フレッドたちはマリィシャを心配そうに見てくるけれど、男にぺこりと頭を下げて荷を背負い、雨の中また引き返していく。雨足は少し弱まっているけれど、大丈夫だろうかとこちらの方こそ心配になってくる。
「さて、お前のことだが」
だが長くは意識をしてはいられなかった。男が掴んだ腕を引き、その強い力には足を踏み出さざるを得なかったせいだ。
引っ張り込まれた玄関で、マリィシャは思わず「うわ……」と声を上げた。
天井は高く、飴色の扉がいくつも見える。床には絨毯が敷かれ、少し奥の階段まで続いている。貴族の屋敷になど足を踏み入れたことのないマリィシャは、気後れしてしまった。
そんなマリィシャの喉元に、男の手が伸びてくる。コートを留めていたボタンをパチンと外され、驚いて飛び退く。
「なっ、何すんだよ!」
「脱げ。床が濡れる」
あ、と気がついて足下を見る。レインコートからぽたぽたとしたたり落ちる雨の雫が、絨毯を濡らしていた。
マリィシャは慌ててコートを脱ぎ、濡れた面を内側にして乱雑にくるんだ。男はそれに眉を寄せたようだったが、たたみ直すとまた雫が垂れてしまうだろう。マリィシャは気に留めず背筋を伸ばした。
だが男がマリィシャの前にしゃがんだ次の瞬間、視界がぐるんと百八十度変わる。肩に担ぎ上げられたようで、髪がゆらゆらとおかしな方向に垂れた。床が上に、天井が下に見える。
「お、下ろせ! おいっ!」
「やかましい、暴れるな!」
男はそのままくるりと向きを変えて歩き出す。顔を上げたマリィシャの目に、玄関のドアが映り、だんだんと遠ざかっていく。
どこに連れていかれるのだろう。
いや、その前にこの屈辱的な運ばれ方をどうにかしたい。
マリィシャは男の背中を叩くけれど、下ろしてくれる気配もない。
「くそっ、下ろせってんだ、コノヤロー!」
屋敷の中を、旅芸人に歩かせるわけにはいかないということだろうか。引き入れたのは自分のくせに、なんて仕打ちだ。
「アメリア、湯を用意しろ!」
抗議をしようと思ったけれど、男が放った言葉に驚いて振り向く。張り上げられた声に応えて、一人の女性が足早に寄ってくるのが見えた。
「まあ、お客様、……ですか?」
「フレッドとヘンリーが連れてきた。放っておけばいいものを、通行料まで出してやったそうだ。あのお人好しどもらめが……!」
アメリアと呼ばれた女性は、男の悪態に小さく笑う。すぐに用意しますと会釈をし、背を向けた。男はスタスタと廊下を歩き、階段を上がる。もちろんマリィシャを担いだままでだ。
「うわっ」
そうして放り込まれたのは、空のバスタブだった。手足や腰、あちこちがぶつかって、痛みを覚える。
「まったく、手間をかけさせるな」
「だったら放っておけばよかっただろ! 俺は別に野宿だってできる! したくはないけど!」
「この雨の中か? せっかくあいつらが手を差し伸べたのに、無駄になるだろう。ふざけるな」
ぐっと言葉に詰まる。こんな雨では可哀想だと関所で彼らが言っていたのを思い出す。そういえば野盗も出るとか。襲われたりしたら、確かに彼らの厚意を無駄にしてしまうだろう。
そうして、アメリアともう一人、男がバケツに湯を持ってやってくる。
立ち上る温かそうな湯気に、マリィシャの冷えた体が歓喜するように震えた。
「すまないな、アメリア、ジョーイ。持ち場に戻ってくれ」
「お手伝いいたしますか?」
アメリアが、男の横から顔を出し、訊ねてくる。マリィシャは慌ててぶんぶんと首を振った。
手伝いなんかされたら、手の甲にあるリュースに気づかれる。「だそうだ」と顎をしゃくった男に、アメリアは着替えを置きお辞儀をして去っていく。
「荷物は預かっておくぞ」
「あっ!?」
腰紐にくくりつけていた荷物を、ひょいと取り上げていく男の手。慌てて取り返そうとするも、かすりもしなかった。
「領に妙なものを持ち込まれてはたまらんからな。検閲させてもらう」
「なっ、なんだよ妙なもんて! 着替えくらいしか入ってない! 返せよ、あんたになんの権利があって……!」
武器や有害な物質がないかどうか、心配するのは理解ができた。だけどその日暮らしのマリィシャに、着替えと食料以外を持つ余裕などない。
領によっては関所で厳しく荷物のチェックがされるところもあるが、なぜこの男にそんなことをされなければいけないのか。
マリィシャは勢いよく立ち上がって、男に掴みかかろうとした。
「うわっ……!」
濡れていたせいだろう。バスタブの中で足を滑らせ、体が傾ぐ。危うく打ち付けそうになったところを、男の腕が抱き止めてくれた。
「権利、だと? 私には誰より権利と義務がある」
礼を言おうと顔を上げたところへ、男の低い声。マリィシャは怪訝そうに首を傾げた。
「領主である私が、危険がないか確認してなんの不思議があるんだ」
「へ、……はぁっ!?」
掴んでいた腕を放し、男は眼鏡のブリッジを押し上げる。マリィシャはあまりのことに素っ頓狂な声を上げた。
「知らずに来たのか? サンドレイズ領は子爵であるこの私、アレク・サンドレイズが治めている」
まさか、この若い男が領主だったなんて。てっきり従僕だと思っていたのに。
マリィシャはぽかんと口を開けたまま、信じられないと男――アレクをじっと見つめた。
――――こいつが?
二十歳になったばかりのマリィシャよりは年上に見えるが、どれだけも変わらないだろう。領主を務めるような年齢ではないように思う。多くは世襲制で、家の主が領の主だ。
領主というのはそれをいいことに、民から税を搾り取り、自分だけがぬくぬくと過ごすものではないのか。食べる物も寝る場所もすべて贅沢な物が用意され、なんの苦労も知らずブクブクとだらしなく太っているのだろうと思っていた。
他領のそこかしこで聞いた話から想像していた姿とはまったく違う男に、マリィシャの脳は混乱を極めた。
「私の民が招き入れたものだからな。今日はひとまず泊めてやるが、豪華なもてなしがあるとは思うなよ」
アレクはふんと鼻を鳴らし、背を向けてしまう。ドアを開ける直前、思い出したように振り返り、まだ茫然としているマリィシャに向かって訊ねてきた。
「名を聞いてなかった」
「あっ……え、と……マ、マリィシャ……」
「――ようこそ、我が領へ」
アレクはため息交じりにそう呟いて、バスルームを出ていった。ようこそとは言いつつも、少しも歓迎などしていないのだろう。値踏みするような視線がそれを物語っていた。
マリィシャは一気に緊張が解け、ぺたりとバスタブにへたり込んだ。長い髪が太腿を覆い、か細い声が唇をすり抜けていく。
「うそだろ……」
まだ実感が湧かない。
だいたい、おかしいのだ。爵位を持った貴族である領主が、自ら領民を迎えに出てくるなんて。だからこそ従僕だと思ってしまったのに。
フレッドたちが慌てていたのは、領主と知らず生意気な態度を取るマリィシャに対してだったのか。
どっと力が抜けていく。
眉間にしわを寄せたままの男が仕える領主とやらは、どんな気難しい貴族様なのかと身構えていただけに、肩透かしをくらった気分だ。いや、アレクも充分に気難しそうだったけれども。
マリィシャはうぅんと唸りながら俯き、髪をかき上げる。そして、気持ちを切り替えるようにふっと息を吐いた。
「俺が悩んだって仕方ないか。せっかくだし温まろ」
アメリアたちが運んできてくれた湯が冷めてしまわないうちに、体を温めよう。
バケツからバスタブへと湯を移し、ほわりと上がる湯気を楽しんだ。
「あっ……たかぁ……なにこれ絶対幸せじゃん……」
湯気だけでもそう思うのだから、体を浸からせたらどんなふうだろうか。
アレクは豪華なもてなしがあると思うなと言っていたが、とんでもない。こんなにしっかりとした風呂に入るのはいつぶりだろう。いつもは濡れたタオルで体を拭いたり、水浴びでやり過ごすことが多かった。温かな湯は心も体も癒やしてくれる。
マリィシャは腰紐を解き、腿丈のカシュクールとパンツを脱いだ。湯が熱すぎないことを指先で確かめて、バスタブに体を沈める。はあ、と自然に息が漏れた。気持ちが良い。冷えていた指先まで、体の芯から温まっていくようだ。
ついでに服も洗ってしまおうとバスタブの中に引きずり込んで、ジャブジャブと音を立てながら洗った。
「そうだ、これも」
両手にはめていた布を外し、一緒に洗う。
湯の中でゆらめくリュースは、なんだかいつもより綺麗に見えた。
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