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130. 〈幕間〉勇者たち 3
しおりを挟む「この頃、帰って来るのが遅いね」
シンクに溜まった洗い物を片付けている僕の背後で、アルビーはコーヒーを飲んでいる。
「イースター休暇前に、レポート提出があるから」
僕は振り返ることなく応える。仕方なさを装って。
「家ですればいい。見てあげるのに」
「いいよ。きみだって忙しくしているじゃないか。自分で何とかできることで、誰かを煩わせる訳にはいかないよ」
「僕はちっとも構わないのに」
背中にアルビーの視線を感じる。僕は身を竦ませて、ぎこちなく洗い物を続ける。彼のコーヒーの香りが纏い付く。この洗剤の香りで消してしまいたい。
僅かしかない洗い物を、時間をかけて何度も擦った。アルビーがコーヒーを飲み終わって部屋に戻ってくれるのを祈りながら。解っているのに。アルビーの方こそ、僕が洗い終わるのを待っているってこと。
「コウ」
うなじにかかる彼の息にびくりと肩が震えて、手にしていた皿を取り落としそうになる。
「僕の部屋に来る?」
ぶんぶんと首を振る。
「レポートが残っているんだ」
肩から抱き抱えられるように廻された腕が邪魔で、上手く洗えない。
「じゃあ、早く終わるように手伝ってあげる。コウの部屋へ行こうか?」
密着される躰に身動ぎもできない。首を小さく横に振る。
「それなら、今、ここでする?」
冗談とも本気ともつかない甘い囁きが耳を擦る。
「アルビーの部屋に行く」
掠れた声で囁くと、アルビーはくすりと笑った。もう僕は、こんな時、彼がどんな顔をするか良く判っている。獲物を捕らえた猫のような、満足そうな瞳でぺろりと顔を舐めるのだ。僕の……。
僕は剥製にでもなったかのように動かない。されるがまま。
マリーのいない金曜日の夜が来ることが、辛かった。友人の家に泊まりに行く彼女の都合が急に変わって、約束をキャンセルされたから夕食を一緒にたべましょう、とか、相手が風邪で泊まれなくなったとか、そんなメールか電話がないものかと、この瞬間まで願っている。
洗い物を終えたら、今度は自分の躰を念入りに洗う。直ぐに浴室に向かわなければならない。ぐずぐずしていると、彼は「一緒に」って言い出すから。あの日のような恥ずかしい想いは、もう二度と味わいたくない。
初めての時は本当に何も知らなくて、まさかあんなことをされるなんて想像すらしていなくて、途中で慌ててシャワールームに駆け込んだ。そんなムードも何もぶち壊しなことを、アルビーが許してくれる訳はもちろんなくて……。シャワールームで、こういうことの礼儀と作法を懇切丁寧に実地で教えられた。
思い出す度に顔から火を噴きそうだ。
でも彼に言わせると、僕は素直で覚えの良い生徒らしい。言われるままにする。繰り返す。それだけで、僕の躰は僕の意志を離れてアルビーの望むままに作り変えられ、どんどん彼に馴染んでいた。もう、あの時のように、歩けないほど痛いと感じることもない。それどころか……。
心の中では、もうこんな事は嫌で嫌で仕方がないのに、彼のあの瞳を見る度に、エレベーターで高層ビルの天辺に昇っていっているような、背骨を這い上がり頭頂から突き抜ける欲望に支配される。
まるでマリオネットのように意志は消え去り、操られるままに踊る自分に吐き気すら覚えるというのに。
それでも、アルビーが僕を求め、僕が応えていさえすれば、彼をあの闇の中に攫われることはないのではないか、と、そんな希望があったから。だから僕は何とかこの現状を耐えられるんだ。
ぽっかりと空いたアルビーの心に巣くう巨大な虚空。あんなものに、彼を奪われたくない、その一心だけで。
熱いシャワーで丁寧に躰を洗い、泡を落とし、禊を済ませる。
まるで神に捧げられた生贄の供物。僕を支配する美しい神に、こうして幾度となく喰い散らかされても、僕はまたすぐに再生する。何度でも喰われるために。天上の火を地上に与えたプロメテウスのように。果てしなく、この残酷な儀式は繰り返される。
こうして今日も僕は彼の部屋のドアを叩くんだ。
痺れるほどに甘美で、虚しい、僕を蝕む毒をこの躰の隅々まで浴びる、それだけのために。
シンクに溜まった洗い物を片付けている僕の背後で、アルビーはコーヒーを飲んでいる。
「イースター休暇前に、レポート提出があるから」
僕は振り返ることなく応える。仕方なさを装って。
「家ですればいい。見てあげるのに」
「いいよ。きみだって忙しくしているじゃないか。自分で何とかできることで、誰かを煩わせる訳にはいかないよ」
「僕はちっとも構わないのに」
背中にアルビーの視線を感じる。僕は身を竦ませて、ぎこちなく洗い物を続ける。彼のコーヒーの香りが纏い付く。この洗剤の香りで消してしまいたい。
僅かしかない洗い物を、時間をかけて何度も擦った。アルビーがコーヒーを飲み終わって部屋に戻ってくれるのを祈りながら。解っているのに。アルビーの方こそ、僕が洗い終わるのを待っているってこと。
「コウ」
うなじにかかる彼の息にびくりと肩が震えて、手にしていた皿を取り落としそうになる。
「僕の部屋に来る?」
ぶんぶんと首を振る。
「レポートが残っているんだ」
肩から抱き抱えられるように廻された腕が邪魔で、上手く洗えない。
「じゃあ、早く終わるように手伝ってあげる。コウの部屋へ行こうか?」
密着される躰に身動ぎもできない。首を小さく横に振る。
「それなら、今、ここでする?」
冗談とも本気ともつかない甘い囁きが耳を擦る。
「アルビーの部屋に行く」
掠れた声で囁くと、アルビーはくすりと笑った。もう僕は、こんな時、彼がどんな顔をするか良く判っている。獲物を捕らえた猫のような、満足そうな瞳でぺろりと顔を舐めるのだ。僕の……。
僕は剥製にでもなったかのように動かない。されるがまま。
マリーのいない金曜日の夜が来ることが、辛かった。友人の家に泊まりに行く彼女の都合が急に変わって、約束をキャンセルされたから夕食を一緒にたべましょう、とか、相手が風邪で泊まれなくなったとか、そんなメールか電話がないものかと、この瞬間まで願っている。
洗い物を終えたら、今度は自分の躰を念入りに洗う。直ぐに浴室に向かわなければならない。ぐずぐずしていると、彼は「一緒に」って言い出すから。あの日のような恥ずかしい想いは、もう二度と味わいたくない。
初めての時は本当に何も知らなくて、まさかあんなことをされるなんて想像すらしていなくて、途中で慌ててシャワールームに駆け込んだ。そんなムードも何もぶち壊しなことを、アルビーが許してくれる訳はもちろんなくて……。シャワールームで、こういうことの礼儀と作法を懇切丁寧に実地で教えられた。
思い出す度に顔から火を噴きそうだ。
でも彼に言わせると、僕は素直で覚えの良い生徒らしい。言われるままにする。繰り返す。それだけで、僕の躰は僕の意志を離れてアルビーの望むままに作り変えられ、どんどん彼に馴染んでいた。もう、あの時のように、歩けないほど痛いと感じることもない。それどころか……。
心の中では、もうこんな事は嫌で嫌で仕方がないのに、彼のあの瞳を見る度に、エレベーターで高層ビルの天辺に昇っていっているような、背骨を這い上がり頭頂から突き抜ける欲望に支配される。
まるでマリオネットのように意志は消え去り、操られるままに踊る自分に吐き気すら覚えるというのに。
それでも、アルビーが僕を求め、僕が応えていさえすれば、彼をあの闇の中に攫われることはないのではないか、と、そんな希望があったから。だから僕は何とかこの現状を耐えられるんだ。
ぽっかりと空いたアルビーの心に巣くう巨大な虚空。あんなものに、彼を奪われたくない、その一心だけで。
熱いシャワーで丁寧に躰を洗い、泡を落とし、禊を済ませる。
まるで神に捧げられた生贄の供物。僕を支配する美しい神に、こうして幾度となく喰い散らかされても、僕はまたすぐに再生する。何度でも喰われるために。天上の火を地上に与えたプロメテウスのように。果てしなく、この残酷な儀式は繰り返される。
こうして今日も僕は彼の部屋のドアを叩くんだ。
痺れるほどに甘美で、虚しい、僕を蝕む毒をこの躰の隅々まで浴びる、それだけのために。
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