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〈冒険者編〉
292. 五十六階層 1
しおりを挟むフロアボスを倒すと、その場はセーフティエリアになる。
大型のワイバーンが潜んでいた谷底の奥に転移扉があり、その周辺が安全地帯と化した。
倒したフロアボスがリポップするには、半日から一日ほどの時間が必要。
なので、車酔いならぬ狼酔いしたナギがポーションを飲んで少しだけ休憩する余裕は充分にある。
大型ワイバーンの住処なだけあり、谷底はかなりの広さがあった。
おかげでコテージも余裕で出すことができる。
心配性なエドがソファに横たわるナギにせっせと水や濡れたタオルを運んできてくれた。
「もう落ち着いたから大丈夫。ありがとう」
ポーションのおかげで、かなりスッキリした。
久しぶりに【獣化】スキルで顕現できたアキラがはしゃいだのが原因なので、エドが気にすることはないと思うのだが。
(エドは生真面目だからなぁ……)
スライスしたレモンを浮かべた冷たいお水を飲み干して、ふはっと息を吐く。
ソファから立ち上がってみる。目眩もおさまったし、気分も悪くない。
「うん、平気そう。休憩もできたし、五十六階層に挑戦したいな」
「……無理はしていないんだな?」
「しないしない。急ぐ必要もないもの。次の階層が気になって落ち着かないし、エドも見てみたいでしょう?」
「…………気分が悪くなったら、すぐに教えること。分かったな?」
「はぁい」
心配性の相棒の様子に、くすりと笑みがこぼれ落ちる。
ぶっきらぼうな口調なため、誤解されがちだが、エドは心優しい少年なのだ。
その優しさが限られた相手にしか発動しないので、なかなか知られることがないのは残念だけど、ほんの少しだけ嬉しくもある。
「アキラが落ち込んでいるから、後で慰めてやってくれ」
「ふふっ。分かった。でも、私ももう少し慣れないとダメだよね」
ハイペリオンダンジョンでは、間違いなく自分たちが最下層組なので、人目を気にする必要もない。
ダンジョンアタック中に何度か黒狼に頼んで騎乗の練習をさせてもらおう。
◆◇◆
転移扉を開け放った先に広がる光景に、二人は言葉もなく見惚れてしまった。
そこは、氷の世界。
一面が氷に閉ざされた氷原が広がっており、遠くに山のようなシルエットが見えた。
おそらくは、そこに下層へ続く扉があるのだろう。フロアボスもそこにいるはず。
呆然と氷の世界を凝視していたナギが小さくクシャミをしたことで、はっと我にかえったエド。
「ナギ、冬用の装備を出そう」
「あ、そうだね。うん、これは絶対に必要。風邪ひいちゃう」
とりあえず、そっと転移扉を閉めた。
五十五階層に戻り、着替えのために再びセーフティエリアにコテージを設置する。
「雪はあまり積もっていなかったけど、地面はほぼ凍っていたよね……?」
「氷の下は、海だと思う」
海の香りがしたのだと言う。
「じゃあ、五十六階層は氷上ステージなんだ……」
「普通のブーツだと、滑りそうだな」
「そうなると、やっぱり……」
顔を見合わせて、頷き合う。
ふたたび、黒狼の出番である。
◆◇◆
「ひゃあああ! すごーい! 早い!」
ビュンビュンと耳元で風を切る音が響く。
岩山登山は上下運動が激しくて、それで酔ってしまったが、氷上を飛ぶように駆ける黒狼の背は頼もしく、心地良さを感じるほどだった。
『センパイ、酔ったらすぐに教えてくださいよ?』
「大丈夫そう! 気を付けて走ってくれているんでしょう? ありがとね、アキラ」
『またセンパイが気持ち悪くなったら、俺がエドに怒られるんですからねっ?』
耳を寝かせて、ぼやく姿に相当絞られたのだな、と理解する。
「かなりはしゃいでいたからね。あれは叱られるでしょう」
『うぅ……。だって、ずっと夜の間もエドのままだったから……。楽しみな夜食も食べられなかったし!』
開拓地では念の為に、【獣化】スキルは封じていたのだ。
夜食をおあずけにしたのは、たしかに可哀想だったかもしれない。
「まぁまぁ。今は存分に活躍してくれていいから。食事もリクエストを聞くわよ?」
『やった! じゃあじゃあ、ずっとおあずけだったピザが食べたいですっ』
「生地がないから、ピザトーストでもいい……?」
『むっ。仕方ないですね。じゃあ、ピザトーストで! あと、さっき狩ったワイバーンの唐揚げが食べたいですっ』
「いいわよ。私も食べたかったし」
あれも食べたい、これも食べたいと楽しく会話しつつも、襲い掛かってくるシロクマの魔獣はきっちり倒している。
シロクマといえば、クマの中でも最大の種と言われていた。温暖化の影響で小型化していると聞いたこともあるが、ナギのイメージでは最強種だ。
そのシロクマの魔獣である。
体長は四メートル近く、後ろ足で立ち上がれば、もはや壁だ。
幸い魔法を使う種族ではなかったのだが、物理攻撃がえぐい。腕の一振りで分厚い氷があっけなく砕け散る威力を誇っている。
そんなモンスターと真面目に戦う気は毛頭ない。
ナギは【気配察知】スキルを発動し、シロクマの魔獣が襲い掛かってくる前に全て火魔法で倒していった。
「氷の世界なら延焼することもないから、存分に火魔法を使えるわ!」
それは良い笑顔でドッカンドカンと火魔法を炸裂させていく。
ドロップアイテムと化した物は目視収納が可能になるので、ナギは黒狼の背から降りることなく、魔獣を倒してアイテムを手に入れた。
『シロクマのドロップアイテムって、何だったんです?』
「オパールそっくりの魔石と、毛皮に牙。あと、なぜかお魚……?」
『魚ァ⁉︎ なんで?』
「んー……たぶん、サハギンの宝箱と同じ感じじゃないかな。収納スキルに獲物を保管していた的な……?」
『ああ、なるほど。サハギンは魚介類の他にお宝も収納していたけど、シロクマは魚だけなんですねー』
「残念ながら、そうみたい」
サハギンは光り物が好きな性質なようなので、沈没船からコインや装飾品などをせっせと溜め込んでいたのだ。
その点、シロクマの魔獣は潔い。肉食獣らしく、魚や肉だけを収納しているようだ。
「あ、でも私たちにはお宝だと思う。ドロップしたの、イクラをお腹に抱えた立派なサーモンだったわ」
『マジでお宝じゃないですか! センパイ、狩り尽くしましょうシロクマ!』
「見つけたらねー」
ちなみにドロップした中にはサーモン以外にも、お肉の塊があった。
鑑定によると、アザラシやトナカイの魔獣肉とのこと。一応、食用可とはあるが。
(今のところは食べようとは思わないかな……)
鑑定で『美味』とある肉は間違いなく当たりだが、『食用可』の場合、食べられるけれど特に美味しくはないことが多い。
希少で高価な美味しいお肉が山ほど【無限収納EX】で眠っているので、無理に食べる必要もないのだ。
(うん。これは報告も兼ねて、冒険者ギルドに買い取ってもらおうっと)
今のところ、シロクマの肉はドロップしていないので、多分『食用不可』なのだろう。
物凄いスピードで氷上を駆け抜ける、我らが黒狼に追いつけるのはシロクマの魔獣だけらしく、それ以外の魔獣や魔物とのエンカウントはない。
他にどんな魔獣がいるのか気にはなるが──
(寒いから、なるべく早く五十六階層はクリアしたい!)
一応、冬装備に着替えてはいるのだ。
防寒の付与を施された高価なインナーを身に纏い、風除け効果のある皮鎧も装着している。
手袋はジャイアントラビットの毛皮製で暖かいし、冒険者装備の上から羽織っているのは東のダンジョンでドロップした雪豹の魔獣の毛皮から作られたコートだ。
美しい白銀色の毛皮はレアな素材だったが、あいにく買取額が微妙だった。
珍しく美しい品だが、ダンジョン都市は南国。毛皮に需要がなかったのだ。
なので、自分用のコートに誂えた。いつか使うことがあるかもしれない、とエドと二人分。
まさか、二年ほど【無限収納EX】内ですっかり忘れ去られていた、この毛皮のコートが役立つ日がくるとは思わなかった。
ぎゅっと手綱を握り締め、視線を上げる。
冷たい空気に身も心も引き締まるようだったが、空を眺める瞬間だけは気持ちが弛緩する。
薄闇色の空の下。真っ白の氷のおかげもあるが、意外と明るいのは、空一面を彩るオーロラが一因なのだと思う。
緑、青、紫にピンク。鮮やかな色合いのカーテンが風に揺られているようだ。
圧倒的な光景に見惚れつつ、しっかりとシロクマを狩る。
特殊個体だったのか、黄金の装飾品がドロップした。収納リストを確認すると、繊細な意匠のティアラだった。
他にも白ブドウ酒の大樽がドロップした。残念ながら、お魚はなし。
三十分ほど黒狼が氷原を駆け抜けた先には、氷山ではなく、氷で作られた城のような物が聳えていた。
「ここがフロアボスのお城?」
『多分、そうだと思います』
城というか、塔のようにも見える。
とても美しい、氷の建物だった。
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