異世界転生令嬢、出奔する

猫野美羽

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〈冒険者編〉

204. 牛すじカレー

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 圧力鍋でじっくりと煮込んだ牛すじはお箸でつまみ上げようとすると、ほろりと崩れ落ちた。
 味見をするまでもない。思い通りの煮込まれ具合に、ナギは口許を綻ばせた。

「うん。良い加減に煮詰まったわね。ここからは、とっておきの生活魔法の出番!」

 魔法の師匠、ミーシャが教えてくれた、エルフの里の秘伝。人の世界ではすっかり忘れられた生活魔法のひとつ。
 エルフが使っていたのは主に薬作りのためだったようだが、ナギにとっては美味しい料理を時短で食べられる素晴らしい魔法。

「二日目の美味しいカレーに育ちますように。……熟成エイジング

 大鍋の中身に、魔法をかける。
 腐らせるわけでも、発酵させるわけでもなく。煮込み料理が美味しくなるように、魔法で熟成させるのだ。

「……どうかな?」

 小皿にとったカレーを味見してみる。
 滑らかで深いコクのある味に変化していた。成功だ。

「うん、美味しい! 熟成の魔法、最高っ!」

 ミーシャにはお礼を言わなければ。
 とっておきのカレーを作ってあげれば、ポーション作りにしか役に立たない生活魔法と言われていた【熟成エイジング】の真価もきっと理解してくれるに違いない。

「ナギ、出来たのか」
「うん! エドの方も?」
「ああ、用意したタネは全部使い切った。焼き立てのナンが食べられるぞ」
「んっふふふ。楽しみだねぇ、もっちもちのナンカレー!」

 せっかくなのでナンはたくさん焼いてもらった。カレーはもちろん、ブラウンシチューにも合うので、野営向きなのだ。
 ふわふわというよりは、どっしりとしてもちっとした食感なので腹持ちも良い。串焼き肉と一緒に食べても、きっと合うはず。
 ナンを使ったピザを作ってみるのも面白そうだ。野営中にはオーブンがないので、小さめのナンに好きな具材を盛ってフライパンで焼くだけでも、ご馳走になる。

(うん、ダンジョン野営時に試してみるのも楽しそう!)

「エドの好みが分からなかったから、両方用意したんだよね。ライスとナン。私はどっちも好きだけど」
「アキラもどっちも好きだと訴えてきているな」
「それぞれの良さがあるから。ご飯はカレーに合わせてタイ米風のをよそうね?」

 元日本人なので和食や丼飯にはジャポニカ米風のお米を使っているが、炒飯やパエリア、ピラフなどの米料理はタイ米風の米と使い分けている。
 なので、ナギの【無限収納EX】スキル内にはいつでも食べられるように、両方のお米を土鍋で炊いた物を収納していた。

「テーブルをセッティングしよう」
「カレーの大鍋はテーブルに置いて、セルフスタイルにする? 好きなだけおかわりができるように」
「いいと思う」

 ぴくぴくとエドの三角の獣耳が揺れる。
 これは興奮を押し隠そうとしている時のエドの癖だ。
 狼獣人であるエドは喜怒哀楽が尻尾に顕著に表れるのを恥ずかしがり、根性で動くのを抑え込んでいる。
 
(嬉しくて尻尾を振るエド、可愛かったのに)

 尻尾が動くたびにナギが微笑ましそうに眺めてきたのをエドが羞じたのが理由のひとつだが、ナギは気付いていない。
 もっとも、エドも尻尾だけでなく獣耳も雄弁なことを知らないでいるのだが。

 テーブルの中央に大鍋を置き、サイドに焼き立てのナンを並べた。
 平べったい皿がちょうどカレー皿にぴったりだったので、ライスを盛り付けている。
 サイドメニューは生野菜サラダだけだ。
 いつもは何品か、肉料理やスープを用意しているけれど、今日ばかりはシンプルにカレーを味わいたい。

「じゃあ、食べましょう!」
「ん、いただきます」

 手を合わせるのももどかしく、二人は交代でカレーを盛り付ける。
 ライスが見えないくらい、エドはたっぷりとカレーをよそっていた。
 スプーンですくい、まずは一口。香辛料が良く効いた、とろみのあるカレーは甘口だ。
 それでも異世界で生まれた、この肉体には初めての味で。

「からい……けど、美味しい」
「ああ、旨いな。舌がピリピリするけど、飲み込むとすぐに口に含みたくなる」

 冷たい水を飲みながら、二人はカレーをじっくりと味わった。
 よく煮込んだので、野菜は少し煮崩れている。玉ねぎも溶け込んでいるようだったが、とろりとした食感の立役者だろう。
 何より、ブラッドブルのすじ肉のポテンシャルときたら!

「なんだ、この肉は。噛み締める前に溶けていくようだ……。脂と肉の味を残して消えていく」
「すじ肉、美味しいでしょう? 固くてまずいって嫌うのはもったいないよ。根気よく煮込んだら、トロットロに蕩けるんだから」
「ああ……こんなに旨いとは思わなかった。固い肉も嫌いではないが、これは特別な食感だな。いくらでも食えそうだ」
「カレーはもちろん、ブラウンシチューに使っても美味しいんだよねぇ……。イチオシはおでんだけど」
「おでん。……アキラが食いたいとうるさいな」
「そう言えば、よくコンビニで買って食べていたねー」

 懐かしい記憶に、ほっこりする。
 たまの残業で小腹が空いた時に二人でよくコンビニに駆け込んでいたな、と思い出す。

(渚は大根と玉子と牛すじ串を、彼は何を頼んでいたっけ……?)

 ぼんやり考え込んでいる内に、エドはカレーライスを平らげていた。
 そうして次はカレーとナンを合わせて食べている。

「これも旨い。これまでずっと、ふわふわの柔らかいパンが至高だと考えていたが、カレーにはこっちの方が合うな。素晴らしい。ナンだけでは物足りない素朴な味わいなのに、カレーと一緒に食うと互いを高め合っている」
「エドが珍しく饒舌だ……」

 よほど興奮したのだろう。
 頬を上気させて、夢中でナンカレーを味わっている。

「私も食べよう」

 家で食べるのはもっぱらカレーライスだったが、外食時にはナンカレーを注文する。
 お店の窯で焼いたナンは格別に美味しかったからだ。ほんのり甘くて、バターの香りがする、優しい味わいのナンが好きだった。
 お店によってはパリパリの薄手のナンだったり、分厚いもっちりしたナンだったりと色々な特色があったけれど、どれもカレーとの相性は最高だったと思う。
 エドが焼いたナンは1センチほどの厚さで、端っこの方が少し焦げている。
 パリパリの部分を千切って、カレーに浸して口に放り込んだ。

「んんんー……」

 ナンの優しい甘みとピリっとしたカレーがとても良く合っている。文句なしに美味しい。言葉を発する余裕もなく、夢中で平らげてしまった。

「美味しかったぁ……! レシピなしで作って、この仕上がり。もしかして、私天才では?」

 冗談めかして口にしたが、エドは真面目な表情で大きく頷いている。

「間違いない。ナギは料理の天才だ」
「わ、わぁ……。ストレートに褒められると、ちょっと照れますね……?」

 まぁ、まず間違いなく【料理】スキルが良い仕事をしてくれたのだとは思うが。
 すっかり食べ忘れていた野菜サラダをもしゃもしゃと頬張りつつ、エドを横目で盗み見た。
 皿いっぱいにカレーを盛り付けて、無心でナンカレーを食べている。
 もうスプーンは使っていない。ちぎったナンで丁寧に皿からカレーを掬って口にしているのだ。
 食べ終わった皿は、ピカピカだ。

「アキラに代わる」

 腹七分目にしておいた、と誇らしげに宣言して、エドは獣化した。
 服の山からぴょこりと顔を出した仔狼アキラが、キャン! と元気良く鳴いた。

『センパイ! 俺にもカレーライス大盛りで!』
「はいはい。ちゃんと用意してますよー」

 仔狼アキラ用の深皿をトレーごと床に置いてやる。
 最近は同じテーブルを囲むようになっていたけれど、気兼ねなくたくさん食べるには床の方が楽らしい。
 小皿にそっと盛り付けたサラダには目もくれず、仔狼アキラはカレーライスを貪り食べていく。

『美味しい! カレー美味しいです、センパイ! しかも牛すじカレー!』
「ナンもあるよー?」
『食べますうぅぅ』

 がふがふ、とそれこそ飲むようにカレーを平らげて、おかわりはナンカレー。
 どちらももう一回ずつおかわりを楽しんで、大鍋のカレーが綺麗に完食されたところで夕食は終了。こちらもお皿はピカピカだ。綺麗に舐め取っていたので。


「念願のカレー、美味しかったわね」
『最高でした。センパイ、スパイスってあんまり量はなかったですよね?』
「んー、そうね。缶コーヒーのミニサイズくらいの大きさの瓶に入っていたから、パウダーにして使えばしばらくは保ちそうだけど……」
『週一でカレーが食べたいです』
「……うん、三ヶ月もつ、かなぁ……? ミーシャさんやラヴィさんにもご馳走したいし」
『カレーの匂いはもはやテロですよ? 特に獣人は鼻が良い。冒険者連中もやたらと勘が良いし、きっと嗅ぎつけられます』
「う、うん……」

 ふわふわのチャーミングな見た目ポメラニアンが、やたらと真剣な眼差しで訴えてくる。

『宿の食堂で作るのは禁止ですよ、センパイ? もちろん、宿への差し入れもダメ。師匠たちは家に招待してご馳走しましょう。帰り際に念入りに浄化魔法クリーンが必要になるでしょうね……』
「そ、そんなに?」
『当然です! 食わせろって暴動になりますよ⁉︎   スパイスは貴重なんですから、ほいほい赤の他人に食わせる分はありません!』
「う、うん。そうだね」

 アキラの迫力に押されて、ナギはこくこくと頷く。ナギの膝の上にお座りした仔狼は、ふうっとため息を吐いた。

『とにかく、スパイスの量が足りません。今日から、一週間。いや、十日かな。ここに拠点を置いて、ブラッドブルを狩りまくりましょう! 肉もスパイスもどっちも必要です!』

 目の色を変えた仔狼アキラに宣言され、今後の予定が決まった瞬間だった。
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