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二章 勇者猫と魔王
5.魔王の動揺
しおりを挟む何かに呼ばれた気がして、アーダルベルトはふと顔を上げた。
宴もたけなわ、夜会は大いに盛り上がっている。当の魔王を置き去りにして。
魔国の有力な部族の長や貴族階級の魔人が贈り物と共に祝いの言葉を述べているが、アーダルベルトの脳裏にはずっと、小さくてふわふわした子猫の存在が占めていた。
(はやく、勇者のもとへ戻りたい)
睨みをきかせるメイド長や執事のせいで、なかなか退出できないが、ようやく招待客が散らばり始めた。
やれやれとグラスを傾けたところで、その呼び声に気付いたのだ。
「勇者…、ミヤか……?」
切羽詰まった呼びかけに、アーダルベルトは躊躇なく空間を移動する。
闇の魔法を展開し、影に滑り落ちるとそのまま寝室へ跳んだ。
「無事か、ミヤ!」
指を鳴らすと、真っ暗だった寝室に灯りがともる。
子猫の姿が見当たらない。
天蓋付きの寝台の邪魔なカーテンを引き千切るようにして開けると、白いシーツをかぶった小山が震えていた。
この気配は勇者のそれだ。どうやら、無事だったらしい。
アーダルベルトはほっと安堵の息を吐く。
「……どうした、勇者? 何を怯えているのだ?」
そっと近寄り、シーツを引き剥がして。
可愛らしい子猫を視界に入れようとした魔王アーダルベルトは、その姿勢のまま凍り付いた。
「……魔王、アーダルベルト…? 私、なんでか急に、こんな姿になってしまって……。どうしよう?」
はらり、と。
白いシーツの下から現れたのは、ほっそりとした肢体の愛らしい少女だった。
随分と年若く見える。十歳ほどの年齢だろうか。まだ小さな子供だ。
白銀色の髪と真っ青な綺麗な瞳、そして髪の隙間から生えるふかふかの三角の獣耳──戸惑うように揺れているのは、見慣れた可愛らしい尻尾で。
アーダルベルトは愕然とした表情で、その少女を見下ろした。
「まさか、勇者、か……?」
「……そうだよ。さっきまで子猫だった、私」
へにょりと眉を寄せて困惑する姿に、アーダルベルトは胸を突かれたような衝撃を覚えた。
子猫を目にした時と同じくらい、激しく波打つ鼓動。
くらくらと、眩暈に似た衝動のまま、そっと怯える少女に近寄って、シーツごと抱き締める。
甘い、ミルクの香りがする。
蜂蜜混じりのホットミルクが好物な子猫と同じ匂い。
一目で惹かれたキトンブルーと同じ彩度の双眸。
(間違いない。勇者だ)
先刻まで真っ白な毛並みの愛らしい子猫だった彼女が、何故だか、猫の耳と尻尾が揺れる獣人の少女の姿へと変化していた。
「満月を見ていたら、急に身体が熱くなって変化したの。人だった時と違う姿だし、何より子供になっているし。私、どうしちゃったんだろう……?」
中途半端な姿に戸惑う姿に、魔王アーダルベルトの庇護欲が大いに刺激された。
シーツを巻き付けただけの、ほっそりとした、頼りない肢体。
まるでヴェールをかぶった花嫁のようだ、とぼんやりと思う。
甘い匂いのする剥き出しの肩は随分と痩せ細って見えて、アーダルベルトはもっと肉を食べさせなければ、と使命感を覚えた。
小さくて弱々しい少女は少しでも力を込めれば、折れてしまいそうに華奢で、アーダルベルトは戸惑いを隠せない。
早く、メイド長を呼ばなければ。そう理性は訴えているのに、もう少しだけこうして抱き締めていたい、と強く思う。
鼻先をかすめる、ミルクと蜂蜜の香りの他にも、甘く蠱惑的な香りが、その白いうなじから漂っていた。
これまで嗅いだことのない匂いなのに、焦がれるような、そんな焦燥感に襲われる。
この腕の中の儚げな存在を守りたい、そう考えているのに、どうしてだか、同じくらい強く、少女のうなじに牙を立てたいと思ってしまう。
「どうしよう……。こわいよ、魔王」
「……落ち着け、ミヤ」
勇者、と。いつものように呼びたくはなかった。
少女の名を紡ぐと、それは驚くほどしっくりとアーダルベルトの心に馴染んだ。
きゅ、と小さな指先が胸元のシャツを握り締める。
猫の耳がぺたんと倒れており、ぴるると尻尾の先が揺れた。
ぐりり、と額を押し付けてくる様が子猫の時の仕草と同じで、アーダルベルトは胸がきゅっと痛んだ気がする。
そんなことは、かつての強敵──吸血族の始祖王と対峙した時でさえ覚えたことのない感覚だった。
ふと見下ろすと、白く滑らかなうなじが目の前にある。
心を乱す香りは、そこから漂っている気がした。
見つめていると、ふいにそこに触れたくなった。
欲望のままに首筋に唇を押し当てると、ビクリと震える姿が愛らしい。
そのうなじに、この牙を突き立てれば、少女は自分のものになる──アーダルベルトは唐突に気付いた。
「ああ、勇者──……いや、ミヤ。お前は私の『番』なのだな……?」
魂の一対を求める心のまま、怯える愛しい子猫を己のモノにしようとして。
「このバカ陛下が!!!」
低い罵り声と共に強烈な打撃が頭上に落とされて、アーダルベルトはどうにか理性を取り戻したのだった。
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