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第五章 ‐ いつか星の海で ‐

062話「天使の涙」

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第62話「天使の涙」


 空調の快適なワールドポーターズの中を通って北側の出口を出ると、目の前の横断歩道のすぐ向こうに巨大観覧車と、ピンク色に塗装されたジェットコースターの走行コースが見えた。

 丁度、ジェットコースターが目の前のカーブを走り抜けていった。コースターの駆動音と共に、乗客の絶叫とも歓声ともつかぬ声が横断歩道を経てこちらにまで届いてくると、「わあ」とカスミが感嘆の声を漏らした。

「近くで見ると、やっぱり大きいんですね、観覧車」
 そうだね。と清壱は相槌を打つ。横断歩道の信号が青へと変わり、信号待ちをしていた人々が一斉に歩き出す。二人もその流れに続いた。


「それにしても良かったですね」
「うん?」
 一瞬聞き返しそうになったが、清壱はすぐに言葉の意味を察した。
「ああ。――――やっぱり卜部さんは優しいな」
「うん」
 屈託ない笑顔をカスミは浮かべて返事した。

 正直心の中では「3割ぐらいかな」と、京子がこの要望を素直に聞き入れるとはあまり思っていなかったし、そうでなくとも難しい交渉になるかもしれないと思っていた。何せ、イレギュラーな要素のあった直後だ。

 ――――だが蓋を開けてみればどうだったか、実際の所はカスミが「おばさん、やっぱりダメかな?」と聞くと「良いですよ」と二つ返事。
 卜部さんも彼女には甘いか。と、清壱は心の中で呟いた。

「おばさんと仲は良いかい」
 尋ねると、少女はやはり笑顔で頷いた。
「うん、お母さんみたいな人、かな」
「そうか、良い事だ」
 と清壱は短く述べた。


 横断歩道を渡り、遊園地のゲート近くに立つとカスミが足を止め、辺りをきょろきょろと見渡す。
「どうかした?」
 清壱は尋ねた。

「ねえイチさん、チケットってどこで買うんですかね」
「……入場無料、のはずだが」
 するとカスミは「えっ」と小さな声を意外そうにあげる。

「知らなかったのか?」
「知らなかった……」
 アトラクション代金等は別として、コスモワールドに入場料自体は発生しない事を知らないなどと、遊園地に縁遠い身分という事が丸わかりではないか。無知を晒したカスミは思わずうなだれる。

 こうして共に入場券を確認される事も無いままゲートを潜ると、カスミは急にくたびれた様子で近くのベンチに座り込み、溜息を吐いた。

「やっぱりイチさん、くわしいんですね……」
「そんな事ないよ」
 と清壱は答えるが、カスミはいまいちその言葉を信用しきれない。

「……ひょっとして、来た事あります?」
「いや、無いよ。情報としては知ってた、それだけだ」
 清壱は目も合わせずにそう答えた。そのときの彼の言葉や表情、しぐさからは感情というものが読み取れず、本当なのか誤魔化して答えているのか、少女にはよくわからない。

「僕こそ、こういう所は君みたいな子の方が詳しいと思ってたが……」
「えー……それ、どういうイミですか?」

「別に……。普通の若い子はこういう所に良く来るだろう」

 あんな風に。と清壱が顔を向けると、その視線の先には髪色をスーパーサイヤ人のように染め上げた大学生ぐらいの若い細身の男が、メイクの濃ゆい女性を連れて遊園地内を闊歩している。随分と騒がしく、あまり品が良くなさそうなカップルで、それと同列に扱われたような気分になったカスミが眉間にしわを寄せ、いやそうな表情を清壱に向けた。

「違います~~……」
「それは済まなかった」
「わたし、そういうの知りませんから……」
「そうか」
 清壱の返事は極めて無味乾燥で、味気ない。
「あー、信じてない顔してる」

 一緒にベンチに座りもせず、ただ立哨するだけの男に少女は疑いの目を向ける。彼は少女の方を向かないし、ポーカーフェイスを維持しているから「そういう顔」なのかどうか、そしてその内心は実際の所誰にも、京子にさえもわからない。

 だがなんとなく、少女は自分が軽んじられているような、極端な事を言えば自身がシンナーで歯をボロボロにしてコカインを吸引しているような頭のおかしい売春女だったとしても、彼にとっては変わりのない事のような――――いうなれば無関心のようなものを直感的に感じて、ついつっかかった。要するに「ムっと来た」のだ。

「いや、そんな事は無いが……」
「本当ですか~……?」
「ああ、本当だ」

 そう答えたが、内心では「どちらであっても自分には関係が無い」と思っていた。彼にとって大事なのは、彼女が広瀬 巌と広瀬 菊華の娘であり、警護対象であるという記号。――――でさえあれば、彼女が仮にアダルトビデオに出演していようが、知らない中年男に春を売りさばいていようが、マリファナ中毒であろうが、どうでもいい事なのだ。

 二人のすぐ近くの上方を、ジェットコースターが駆け抜けていった。

 その刹那の中に男は景色を見る。

 憤怒の表情の中年男性の血に塗れた拳が飛び込んでくる光景。
 鏡に映った、白骨のように痩せこけ、頭髪の抜けた少年。

 ひとつの木に吊り下がった、ふたつのいのち。
 消えない罪、消せない罪。



 その視界が晴れた時、遊園地のコースターレールのずっと向こう、暗くなり始めた空に星が浮かんでいるのが視えた。

忍びぼくの使命を全うする事」
 ――――それだけが僕に許容ゆるされた全てだ。

 空虚な表情の男の呟きは、ジェットコースターの駆動音とカップルたちの歓喜の声に呑まれ他の誰にも聞こえなかった。

「まあ……いいですけど……」
 コースターが過ぎ去った後、カスミがジトりとした不機嫌の眼差しを向けて言った。


 ふう、とカスミよりは軽い息を吐き、清壱もカスミの座る隣に腰を下ろす。カスミは肩をすくめ、もう一度溜息を吐いてそっぽを向いた。

 遊園地のアトラクションがせわしなく動き、人々が行き交う中、二人は別々の方向を見つめて言葉を交わさない。今の清壱は遮光サングラスを外しネックレスに引っ掛けているが、そのぼんやりとした暗い瞳は、夜の中にあってはどこを見つめているのかもよくわからない。

 しばらく黙っていたカスミであるが、自分のせいで空気が悪くなってしまったのでは、清壱を怒らせてしまったのではないかと急に不安になりはじめ、チラリと隣の方を見る。

 カスミの不安の揺れ動きを裏切るように清壱は平静そのもので、スタンバイモードの機械の如く表情は固定されていて、ただ目と首だけが時折動き、闇夜の森の狩人のように隙無く敵を探し続けている。今の彼は、このテーマパークで稼働するどんなアトラクションよりも機械的だった。

 カスミが多少機嫌をナナメにした所で、実際のところ清壱は不機嫌になったりはしていない、ただの思い過ごしだ。
 それでも沈黙が続いていたが、前方でスプラッシュ・コースターが着水し、激しい水しぶきを上げた後、清壱は口を開いた。

「何か、乗りたい物があれば遠慮しないでくれ」
 カスミ本人が、そして清壱自身が今何を考えているかは問題ではない。もっとも、彼なりの少女への配慮のようなものではあったのだが。

「う、ううん、いいの、私は見てるだけで」
「別に予算とかは気にしなくて良いよ」
「ううん、本当に大丈夫、ありがとう」
 顔を少し傾けて、カスミは言った。
「それに私も……ちょっと疲れちゃったし。今日一日、歩いてばっかりだったし」

「そうか」
 慣れてはいなかったが……清壱は清壱なりに、気の使い方を模索した。
「何か、食べるかい」
「ううん、大丈夫。わたし……」
 その時だった。カスミは唐突に自分の中の感情がこみあげて来るのを感じ、視界が熱く滲んだ。
「……やだ……ごめんなさい」
 少女は急に制御の効かなくなってしまった自らの情緒をとても恥じて俯く。その瞳に熱を持った泪が溜まると、清壱は片膝を付いて少女の顔を見上げ、その手を取った。

「大丈夫かい」
「イチさん、やさしいね……」
「やっぱり、何か買おう。それがいい」
 ね。と、清壱は幼い少女をあやすように説得する。少女が微かに頷くと、零れた天使のなみだが冥府の主の手に落ちた。
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